見出し画像

コペンハーゲン妄想

1枚の団扇を手に持ち、柄を軸にして回転させる。
回転速度が遅いうちは団扇の面が見えたり、その縁が見えたりするが、回転速度が早まるに従って面と縁の区別が付きにくくなる。
十分早く回転したときには、平板の団扇ではなくて立体であるひとつの球体として目に映るようになる。

ここに向けてものを投げつけたとき、投げられたものの速度に対する団扇の回転速度が遅い場合には、投げたものは団扇の面に当たったり団扇をすり抜けたりする。
しかし、団扇の回転速度が十分速ければ、投げたものはもれなく球体に当たって跳ね返るようにしか観測できない。

これは二次元のものが三次元的に「運動」することで次元がひとつ上がったように錯覚する場合。
三次元のものが一定範囲内で観測ができないほど早く「運動」したときにはもやっとした存在確率の雲のように見えたりしないかなあと‥‥

ここまで考えてその先がどうなるのかが分からなくなってきた。もうやーめよっと;

コペンハーゲン解釈とか波動関数の収縮とか確率過程量子化とかの言葉を見ていて自分に理解できるよう言い直せないかと思ったけど、私には無理だった。

回転する団扇の例えを三次元に拡張するとどうなるか。観察者には立体としてそこに在ると見えるものが、時間方向に「回転」していくと、在ったり無くなったりするように見えて「瞬く」のだろうか。

波動関数がピークとなる場所では常に在るように見えて、その周辺に向かって遠ざかるに従い、在るように見える(観測回数に対する)頻度が下がっていくのだろうか。

と、ここまで考えてみた。その先は、夢の中ででも考えようっと(ケクレの蛇の夢みたいだ)。

「その先」。回転する団扇の例えだと、団扇の柄、つまり回転軸に近いところは、団扇が一回転する時間の中で、面として見えている時間の割合が高い。
これを三次元に拡張すると、ひとつの立体の中でも、単位時間の中で観測できる時間が多い部分と少ない時間とがあることになる?
それが、観測者からは雲の濃淡のように見える?

観測という行為は、対象に光子を当てて、それが跳ね返って観測者へ戻ってきたときに成立すると聞いた。
その場に対象が在るときと無いときがあって、それは当てた光子が戻るときと戻らないときに対応するけど、その違いは時間が短すぎて観測者にはもう分別できず、「薄い」「濃い」として見える?


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?