9 大日本帝国最後の15年間

「吉備野庵爺の問わず語り」(9)
9 大日本帝国最後の15年間

私が幼少年期を生きた時代は、旧大日本帝国崩壊の原因となった「15年戦争」のすべての期間でありました。すなわち誕生した翌年の昭和6年(1931)に”満州事変”が起こり、小学校に上がった昭和12年に”シナ事変”が勃発しました。

”事変”と言うのは、事実上、戦争状態になった国際紛争のことですが、国際法上、宣戦布告で始まる「戦争」と区別しています。つまり大日本帝国は、いろんな策略を用いて中国に侵攻し、紛争を起こしながらその鎮圧を理由としてじわじわと軍事作戦を中国に展開し、それがついにアメリカを巻き込み、第二次世界大戦に拡大・・・そして破局に至る・・そんな激動の時期に育ちました。

その15年間、当時の学齢期にあった子どもたちは「軍国少年・少女」と呼ばれ、学校教育もそれに合わせて徹底的な「愛国精神」の涵養に集中しました。すなわち現人神・天皇陛下への絶対的な忠誠と滅私奉公。御国のために命を捧げる「散華の美学」 唱歌の時間の斉唱は

     ♪ ♪  海行かば 水漬く屍(かばね) ♪ ♪
     ♪ ♪  山行かば 草生(む)す屍 ♪ ♪   
     ♪ ♪  君の 辺(へ)にこそ死しなめ ♪ ♪  
     ♪ ♪  かへりみはせじ ♪ ♪

哀調を帯びたその調べは子ども心を強く揺さぶるものでした。

私の少年時代、我が一家は、京都・深草の陸軍第16師団のある町に住んでいました。現在、京都教育大学になっていますが、そこを走っている京阪電車の駅名は「師団前」 つまり「師団司令部の入り口」でした。今の「藤森駅」です。

師団司令部に隣接して、わが母校、深草第三小学校(現・藤森小学校)がありました。私は、この小学校に入学し、5年生になって広島へ”縁故・学童疎開”するまで、この学校で育ちました。低学年の頃は、兵士達はまだ遊び仲間でした。

当時、子どもの間では、「ハラ減った兵隊さん、メシ呉レンタイ」というハヤシ言葉が流行っていて、兵士たちをからかっていましたが、「コラー!」と兵士達も笑いながら大手を振って捕まえる格好をし、子ども達を楽しませてくれたものでした。

その和やかな雰囲気が一変したのが昭和15年(1940年)のこと。 突然、政府が”皇紀2600年”を唱導し始めてからです。私は当時、3年生(病気で1年就学が遅れていました) 学校で唱歌の時間に「紀元は2600年」という歌を習いました。

愛国精神涵養のため創られた国民歌謡・・その歌詞、80年を経た今でも覚えています。それほど徹底的に覚えさせられました。

  ♪ ♪  金鵄(きんし)輝く日本の 榮(はえ)ある光身にうけて ♪ ♪
  ♪ ♪  今こそ祝へこの朝(あした) 紀元は二千六百年 ♪ ♪
  ♪ ♪  あゝ 一億の胸はなる ♪ ♪


続いて小学校4年生以上になると「教育勅語」の暗誦が義務づけられました。今、読んでも難渋な漢字がいっぱいのこの詔勅を一字一句、ゆるがせにせず、正確に覚えて、大声で暗誦する。

朕惟ふに我が皇祖皇宗、国を肇むること宏遠に、徳を樹つること深厚なり。我が臣民克く忠に、克く孝に、億兆心を一にして 世々其の美を済せるは、此れ我が国体の精華にして教育の淵源亦実に此に存す。

それを毎日、繰り返す。本当に、こんなに難解なモノを10歳そこそこの子どもが、全員、例外なく、覚えたものだ、と思います。が、それもそのはず、指名を受け、間違うと、先生に殴られたものです。

一つ、忘れがたい想い出があります。
 天皇陛下の京都行幸です。それは昭和15年(1940年)の初夏の頃でした。「皇紀2600年記念行事」のため、京都御所に暫く滞在された天皇陛下は、伏見・桃山にある明治天皇桃山御陵に参拝されました。

当時、京都駅から桃山御陵へ、お召し列車が通るというので、沿線の学童・住民がこぞってお出迎えすることになりました。動員された私たちは、線路沿いにむしろを敷いて正座しました。横に座った国防婦人会のおばあさんが言った言葉が未だ、耳に残っています。

  「天子さまがお通りの時、アタマ上げたらアカンえ。
   お顔、見たら、目、潰れるサカイにな」

事実、お召し列車の機関車が煙たなびかせて近寄ると、大号令がかかりました。きおつけ! 最敬礼!” 大地に深々とアタマを下げ、そのママの姿勢でいる前を列車が通り過ぎました。そして・・・・間もなく。 「直れ!」
列車の後尾は、もはや遠く彼方にありました。

そして、翌昭和16年(1941年)12月8日、日本海軍がハワイの真珠湾を攻撃して太平洋戦争が始まりました。学校も一気に緊張感に包まれるようになりました。その頃のこと。

クラスに知恵遅れの子がいました。ある日、「天皇陛下って、オッシコしハルのか?」と訊ねて若い教師から「バカッ!」と一喝され、殴られました。みんなビックリ。それは、「一罰百戒」・・・それから毎日がピリピリした狂気の時代に入りました。

泣く子も黙る「現人神」の権威が強調されるようになりました。軍服姿で白馬に乗った天皇陛下を「現人神」とお呼びし、その「現人神」は、いつも学校の正門入り口の「ご真影殿」に鎮座ましましていました。そして私たちは、登下校の度に、深々と頭を下げて、忠誠の誠を誓いました。

学校では、「天皇陛下に代わって」と、前置きして先生や上級生が子どもを殴ることが多くなりました。なぜ、あの優しかった先生が急に恐ろしい存在に変わったのか? 

大人になってから、それを思うとき、多分、校長室に常駐していた配属将校のセイだったのだろうと思います。軍刀に長靴、いかめしい軍服姿の、あのお目付役を意識し、先生達も強い管理の下に置かれていたのでしょうね。

そこで私たちが受けた「軍国少年」教育とは何であったか。それは、一口に言って、「死ぬことの義」を叩き込まれた教育だったと思います。

例えば、毎日の授業。科目の如何を問わず、第一時限目は、精神訓話で始まりました。オマエたちは、天皇陛下の「赤子」(せきし)である。天皇陛下のお恵みによって、此の世に生をうけ、戦時の国家緊急の折でも、こうして勉強させていただいておる。そのご恩に報いるため、オマエたちは忠義に殉んぜよ。すなわち、天皇陛下の御為に、その命を捧げよ。そして、「教育勅語」を全員で暗誦し、「海ゆかば」を合唱するのです。

5年生になって、学童縁故疎開で、私は、祖父のいる広島の片田舎に移りました。その小学校でも、指導は全く異なることはありませんでした。校長先生は筋金入りの軍国主義者で、日本を「神国」と強調し、天皇を「現人神」と尊崇する国粋主義者でした。

先ほどの桃山御陵参拝については、誠に奇妙な、忘れがたい想い出があります。私は、生まれ落ちた時からキリスト教徒でした。熱心なクリスチャンだった母親の影響で、幼児洗礼を受け、幼児の頃から教会の日曜学校に通っていました。

太平洋戦争が始まって間もなく、私たちは、学校から桃山御陵参拝をすることが多くなりました。やがてそれは、毎月8日に定期的に行くようになるのですが、今、思い出しても奇妙な体験は、キリスト教の牧師が日曜学校の生徒を引率して御陵参拝をしたことです。

 多分、今クリスチャンである人が聞かれたらびっくりなさるでしょうね。でも、私自身が身を持って体験した実話なのです。

そして、広島の片田舎に疎開した私は、6年生を卒業すると、中等学校には進学せず、国民学校高等科に進みました。終戦の年の4月、2年生になった時、学徒動員で軍需工場に配属されて終戦を迎えたのです。広島の中学校に進学した級友5人は全員、原爆で死亡しました。

軍需工場では弾丸のゲージ削りをしましたが、月1回の登校日には、竹槍訓練を受けました。本土決戦に備えてゲリラ戦術を習うのです。校長先生は、勇壮な身振りを交えてこう教えました。

  「物陰に身を潜め、眼前に敵が現れたら、すかさず脇腹を突く。
   たとえ、相手が、銃剣で皮を裂いても、ひるむな。
   皮を切らせて、骨を断つ。(例え自分は負傷しても相手を倒せ)
   この極意。忘れるな」

今、思えば、なんとも滑稽な子どもだましの話ですが,私たちは、それを、本気で、真剣に学びました。「軍国少年」として育った想い出は、このほか、いっぱいあります。

しかし、それは、端折り、もっとも肝腎なポイントをご紹介して想い出話を締めくくりましょう。当時、15歳、旧制中学3,4年生であった昭和5年生まれは、ほとんど少年志願兵になることを運命づけられていました。

小学校を終える頃になると、成績のいい健康優良児は、職業軍人の卵を養成する「幼年学校」に選抜され、その他の者は少年航空兵すなわち海軍飛行予科練習生に競って志願しました。また農家の次男以下の者の多くは満蒙開拓団養成所に入って、満州、蒙古の国境守備にあたる屯田兵訓練を受けました。

要するに、女性、子ども、老人を含め、すべての国民が”現人神”の聖戦「大東亜戦争」に組み込まれました。その”聖戦”は、アジアを植民地化した英米、仏、オランダを駆逐し、”現人神”天皇を盟主とするアジア同朋の国家連合「大東亜共栄圏」を建設するもの、と、教えられました。

私は、当時、15歳。この世の生ける神”現人神”も、盟主国「神国・日本」も、理想世界「八紘一宇」も、すべて、教えられるままに素直に受け入れ、疑うことはありませんでした。本当に、御国のため、天皇陛下のために命を捧げる・・・それが自分の運命と信じていました。

よく当時の思い出を語る人々の中に、「戦争に駆り出された」と言う方々がおられますが、少なくとも、私には「駆り出された」意識は全くありません。神国日本の大義を疑うことを知らなかった、あるいは、疑うことを許されなかった。

少なくとも、学校の先生たちが仰ることを、そのまま素直に受け入れ、信じた。と言う素直な子でありました。 何事にも、自ら進んで参加しました。疑いの気持ちなど微塵も無かったです。

だから、私は、筋金入りの軍国少年であったと思います。銃剣術の訓練や、ゲリラ作戦の訓練には、自ら進んで、喜んで参加しておりました。そして、忠義に殉ずる究極の”死の美学”を次のように教わりました。

  「生きて虜囚の辱めを受けず」
  (捕虜になることは”一家一族眷属(けんぞく)”
  (血の繋がる者すべて)の恥である。潔く自決せよ)

今、思えば、それは、狂気の時代でした。私は、幼少期からものごころのつく思春期まで、徹底的に軍国主義指導者によってマインド・コントロールされていたのです。それは、どのような仕組み、構造であったのか? 

あの敗戦時・・もし、軍部が敗戦を認めず、「徹底抗戦、ゲリラ戦に結集せよ」と呼びかけていたら、ためらうことなく私は参戦したと思います。しかし、天皇陛下は、その動きをすべて封じました。皮肉にも「現人神」の”神聖”が荒ぶる軍人達を制したのです。「天皇」にはそれほど絶大な威力が備わっていました。

「天皇は神聖にして侵すべからず」・・神国ニッポンの現人神・天皇陛下。「大日本帝国憲法」は、国の姿・形を、天子の子孫が継承して来た万世一系の現人神が統治される神国。その神聖は誰も侵してはならぬ、と定めました。私が過ごした少年時代の15年間は、生活の全てを、この原則で縛られ、魂の底までマインド・コントロールされるものでありました。

そして、それを全ての国民が逆らうことなく盲従したのです。なぜか? 現人神に逆らうことは大罪で、敢えてそれを口にすると逮捕、監禁され、裁判に付され、確実に断罪されたからです。

      *********  ”現人神”の終焉 *********
 

 戦後、「天皇は、単なるお飾り、それを利用し、世界制覇の野望を構想したのは軍部」と盛んに唱えられました。しかし、その名を持ち出せば、泣く子も黙る、”絶対力”があったのは事実です。

敗戦に伴う無条件降伏の中でも、当時の政府が唯一、こだわったのは天皇親政の「国体の維持」でした。つまり、敗戦後も、新しい日本の国のあり方として”天皇中心”の根本体制を変えないで維持する。それを連合国に承服させる。当時の政府はそのことに腐心しました。

翌9月、日本に駐留した連合国司令長官、マッカーサー元帥も、終戦処理の見事さに驚き、それが天皇陛下の”絶対力”が与って実現したことを大きく評価し、占領政策に天皇利用を思いつきました。

そして、新憲法に示された天皇の地位は「日本国民統合の象徴」・・・何とも見事な妥協による「国体の維持」でした。事実、この「天皇利用の知恵」によってマッカーサーの日本占領は世界史に類を見ない画期的な占領政策を実現しました。

 後にマッカーサーが次の手記を残しています、

天皇は「私は、国民が戦争遂行するにあたって、政治、軍事両面で行ったすべての決定と行動に対する全責任を負うものとして、私自身を、あなたの代表する諸国の採決に委ねるため、お訪ねした」と話された。「私は、この瞬間、私の前にいる天皇が、日本の最上の紳士であることを感じとったのである」

その結果、天皇は戦争責任を問われず、”象徴天皇”として存続することになりました。翌年の正月。昭和21年1月1日付け新聞各紙は、マッカーサー元帥と昭和天皇が並んで立つ写真を掲げて、いわゆる”天皇の人間宣言”を大きく報道しました。

年頭詔書で、天皇の神格性や「世界ヲ支配スベキ運命」などを否定したのです。この日をもって”現人神”は死滅しました。これは、私にとって大変、よかった。これでケジメがついたように思います。

思えば、私は、この”現人神”を担ぐ人々によって「軍国少年」に仕立て上げられたのです。それは、「神国日本」の”現人神”の「世界ヲ支配スベキ運命」が構想した「八紘一宇」(天皇親政の下、世界を一つの家のようにする) 

その第一弾としてアジア植民地を解放し、「大東亜共栄圏」の建設・・・ その大義に滅私奉公、そして一旦、緩急あらば、「大君の辺にこそ死なめ」(天皇陛下のために命を捧げる」  それは”疑うこと”さえ許さなかった巨大な「政治・宗教イデオロギー」でありました。

「大日本帝国憲法」が描いた”神権政治”の徹底ぶりは、例えば、新聞記事で、校閲の見落としがあり、「天皇”陛”下」とすべき所を「天皇”階”下」と誤って印刷しただけで新聞社幹部が処罰されたほど厳しいものでした。

天皇や”現人神”にかかわる言説は、すべて「不敬罪」として刑法が適用され、厳しく取り締まりました。正に悪魔が支配した地獄の様相でありました。

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