5 暑さが甦らせる地獄の日々

暑い。8月に入って、暑さは一層、強まったように思う。TVなどではもう、気象報道の決まり文句のように”異常気象”がくる返される。だが、私自身の思い出を重ね合わせると、この暑さは、地球温暖化も、異常気象も関係ない。77年前、原爆投下された広島の当時の暑さと同じだ。

今日、探し物の必要があって古い日記帳などをひっくり返していたら、珍しい記録が出て来た。今日から私は、自分が体験した戦前の日本と戦後の日本を比較するため「二つの国家を生きて」と題するエッセーを書くつもりでいたが、その前段としてこの記録を紹介してみたくなった。

日記帳に貼られた一枚の印刷物。それは老妻が20年前、古希を迎えた年に書いた戦争体験記である。2003年3月27日、NHK総合TV放映、と付記してあった。公募体験記に応募し採用されたものである。先ず、これをご紹介しよう。

 


       
              「28年後の卒業式」
                  
             岡山・吉備高原都市    銭本 いさお

 今年(2003年) 古稀を迎えたばかりの私は、昭和20年、終戦の年に小学校を終えました。でも卒業証書を手にしたのは、それから28年も後の昭和46年でした。

 卒業式が予定されていた昭和20年3月13日は、未明からアメリカ軍の大阪大空襲が始まり、大阪市内は、たちまち全滅し、私の家も、母校の校舎も、全焼しました。

 当時、四国に集団疎開していた私たちは、久しぶりに、それぞれ大阪の自宅に呼び戻されて、その前日には、母校での晴の卒業式の予行演習まで終えていたのです。

 しかし、夕陽に浮かぶ校舎を見たのが最後。仲間は全員、生死不明のまま、散りじりバラバラになり、終戦後、やがて母校「魁(さきがけ)国民学校」は廃校になりました。

 それから28年後、ご健在だった恩師のご努力と、大阪市教育委員会のご努力で”まぼろしの”「卒業式」が、実現しました。

 そして、全国紙が一斉に「遅れた卒業式」と、大きく報道してくれたのがきっかけで、その後、生死不明だった友達が一人、また一人と、掘り起こされて、「再開の同窓会」も企画されて、その席上で、卒業証書が渡されました。

 晴の卒業式を前に、アメリカ軍の猛烈な焼夷弾絨毯(じゅうたん)攻撃に遭い、家を焼かれ、母校を失い、焼土と化した町・・・猛火の中を逃げまどう、その先には死屍累々(ししるいるい)黒こげになった死体が転がっていました。ここが、私の家があったところです。

 必至で逃げまどい、なんとか命だけは取り止めた12歳の私たち・・・多くの友を失いましたが、生き残った者は、40歳を過ぎてやっと、”まぼろしの”卒業証書を手にすることが出来たのでした。

 今、我が家のテレビは、イラクの小学校の子ども達の姿を映し出しています。この子ども達の姿は、そのまま、私の60年前であったことを想い、心が痛みます。                   

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 当時、13歳だった妻の体験は、全国各地の都市で、市民が苦しんだ米軍による「日本列島焦土作戦」つまり、油を詰めた”焼夷弾”(しょういだん)という特殊爆弾で、木造の日本家屋を焼き尽くし、老若男女を問わず非戦闘市民を焼き殺すアメリカ軍の残虐行為であったのです。

 その冷酷な残虐行為は、広島・長崎への原爆投下まで続きました。
思い返す歴史的事実。私の脳裏には、今も生々しく残っています。

 敗戦昭和20年(1945)4月1日、アメリカ太平洋艦隊の艦艇1,500隻が沖縄・宜野湾に集結し、16,000人もの米兵が一気に上陸を開始、僅か四日で沖縄本島の中部一帯を制圧しました。すでにこの時、日本は戦う力を失っていました。

 その前に南洋・マリアナ諸島を奪還した米空軍は”成層圏を飛ぶ”新鋭長距離超重爆撃機B-29の基地を作り、”日本国民の戦意を打ち砕く”「日本列島焦土作戦」を準備していたのです。

 沖縄攻略と合わせて昭和19年(1944)末から終戦までの9ヶ月、B‐29よる焼夷弾絨緞爆撃が始まりました。東京・大阪・名古屋の大都市だけでなく、横浜 神戸 福岡など全国各地の主要地方都市、ここ岡山市も例外ではなかった。焼夷弾を雨あられと降らせて”木造住宅”の民間住居に火を放ち、非戦闘員を大量に虐殺しました。

 こうして国民の戦意を喪失させた上で、”止めの原爆”が落とされたのです。しかも2発。それが日本軍の無条件降伏となった。この世界史に残る残虐な戦略の立案・実施者として、その功績で、空軍中将に昇進したのが、カーチス・エマーソン・ルメイ。

 ルメイは「民間人への無差別爆撃で、国民の戦意を失わせる」戦略を発案し、それを実行したアメリカの指揮官です。昭和19年暮れの東京大空襲に始まり、全国の主要中小都市を無差別に襲った焼夷弾による絨緞爆撃は、「ペーハーハウス」(木造住宅)の民家を焼き払い、多くの女性・子ども・老人を虐殺しました。

 日本の都市構造を熟知した戦略でした。焼夷弾を用いたのは、木造住宅の弱点を知っていたからです。焼夷弾は、屋根を突き破ると、天井にとどまります。そして火を噴く。猛火が舞い上がって、たちまち火の手が広がりました。

 軍国少年だった私は、ルーズベルト、チャーチルと共に 叩き込まれた宿敵の名前「鬼畜ルメイ」を忘れませんでした。それが、20年もの後に再び、私たちの前に姿を現したのです。

 昭和39年(1964)のこと。私は、その頃、広島で、原爆問題担当記者をしていました。広島の被爆者と共に本当に”寝耳に水” ”晴天の霹靂(へきれき)”の思いで聞いた信じられないニュース。こともあろうに日本政府が、この「鬼畜ルメイ」に国家の最高賞「勲一等旭日大綬章」を授与した、と言うのです。

 その”際立った戦略”で日本を降伏させた功労により、空軍中将に昇進したルメイは、戦後、出世街道をまっしぐら、戦略空軍司令官、空軍参謀総長を次々と歴任しました。

 そして、日本にもやって来て、航空自衛隊の創設時に全面的に協力し大きく貢献した、というのが授賞の理由だそうです。当然、多くの反対の声がわき上がりましたが、それを無視して、叙勲を強行したのは、当時の佐藤栄作首相。安倍元首相の大叔父、つまり、安倍さんのお祖父さん・岸信介元首相の実弟です。

 当然、広島・長崎の被爆者は、怒り、猛然と反発しました。しかし、佐藤さんは抗議にまったく耳をかさず、この不可解な叙勲を押し通しました。今でも私は、ルメイは断罪されねばならなかった戦争犯罪人と信じています。

 これを英雄視したために、アメリカは、その後も、ベトナムでの枯葉虐殺作戦を遂行し、多くの非戦闘員を虐殺しました。常に「勝てば官軍」の論理を提げ、身勝手な”正義”を振りかざす「国家」という化け物。

 アメリカだけではありません。ロシアのプーチン。社会主義国の独裁者も「国家」の”義”を掲げてウクライナ侵攻を正当化し、非武装市民の無差別虐殺を繰り返しています。「国家」という存在の怖さ。市民はどう対抗出来るでしょう。

私は、常に、それを真剣に考えています。

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