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「弁道話」を学ぶ(6)

【坐禅は仏門の正門である】


いまこの坐禅の功徳、高大なることをききをはりぬ。
おろかならん人、うたがふていはん、
「仏法におほくの門あり、
なにをもてかひとへに坐禅をすすむるや。」
しめしていはく、
「これ仏法の正門なるをもてなり。」
「仏法には多くの門があるのに、
なぜもっぱら坐禅を勧めるのか。」と。
しめしていはく、
「大師釈尊、まさしく得道の妙術を正伝し、
又 三世の如来、ともに坐禅より得道せり。
このゆゑに正門なることをあひつたへたるなり。
しかのみにあらず、西天東地の諸祖、
みな坐禅より得道せるなり。
ゆゑにいま正門を人天にしめす。」


今、この坐禅の功徳の広大なことを聞いて、愚かな人は、疑って言うこだろう。
問う:「仏法には多くの門がある。なぜ、一途に坐禅に進むのか?」と。
答え:「仏法の正門であるからだ」
問う:「どうしてそれだけを正門とするのか。」
答え、「大師釈尊は、まさに悟りを得る妙術として坐禅を伝えた。また三世(過去 現在 未来)の如来(仏)も、皆共に坐禅によって悟りを得た。それ故、坐禅が正門であることを人々に伝えるのである。それだけでなく西天のインドや東地中国の祖師たちも、皆、坐禅によって悟りを得た。だからこそ、今、坐禅という仏法の正門を人間界天上界の人々に示すのである。」

【読経・念仏を論ずる】

とふていはく、
「あるいは如来の妙術を正伝し、
または祖師のあとをたづぬるによらん、
まことに凡慮のおよぶにあらず。
しかはあれども、読経念仏は、
おのづからさとりの因縁となりぬべし。
ただむなしく坐してなすところなからん、
なにによりてかさとりをうるたよりとならん。」

しめしていはく、
「なんぢいま諸仏の三昧、無上の大法を、
むなしく坐してなすところなしとおもはん、
これを大乗を謗ずる人とす。まどひのいとふかき、
大海のなかにゐながら水なしといはんがごとし。


問う:
「坐禅が正門であることは、如来(釈尊)が坐禅という妙術を正しく伝えたこと、又は祖師の坐禅された足跡を尋ねたことによるとしても、それは実に凡慮の及ぶところではない。しかし、読経や念仏は、自ずから悟りの因縁となるであろう。ただ何もしないで空しく坐していることが、なぜ悟りを得るよりどころとなるのか。」
答え:
「あなたは今、諸仏の三昧、無上の大法である坐禅を、何もしないで空しく坐していると思っているようだが、これを大乗をそしる人と言うところ。惑いの甚だ深いこと、大海の中にいながら水が無いと言うようなものである。

すでにかたじけなく、諸仏 自受用三昧に安座せり。
これ広大の功徳をなすにあらずや。あはれむべし、
まなこいまだひらけず、こころなほゑひにあることを。
おほよそ諸仏の境界は不可思議なり。
心識のおよぶべきにあらず。
いはんや不信劣智のしることをえんや。
ただ正信の大機のみ、よくいることをうるなり。
不信の人は、たとひをしふともうくべきことかたし。


(坐禅は)かたじけないことに、既に諸仏の自受用三昧に安座している姿なのである。これは広大な功徳ではないではないか。哀れなことだ、法の眼がまだ開けず、心がまだ惑いに酔っているのでからだ。

 およそ諸仏の世界は不思議である。人の意識の及ぶ所ではない。まして不信の者や智慧の劣る者は知ることが出来ない。仏法は、ただ正直な信心の大器のみ、入ることが出来るのである。不信の人は、たとえ教えても受け取ることは難しいであろう。

霊山になお退亦佳矣のたぐひあり。
おほよそ心に正信おこらば、修行し参学すべし。
しかあらずは、しばらくやむべし。
むかしより法のうるほひなきことをうらみよ。
又、読経 念仏等のつとめにうるところの功徳を、
なんぢしるやいなやただしたをうごかし、
こゑをあぐるを仏事功徳とおもへる、いとはかなし。
仏法に擬するにうたたとほく、いよいよはるかなり。


 釈尊が法華経を説かれた霊鷲山の法会でさえ、不信の者は立ち去った。およそ心に正直な信心が起きるならば、修行して学ぶべし。でなければ、暫く止めておき、昔から法の潤いがなかったことを恨むが良い。

 また読経や念仏などの勤めによって得られる功徳を、あなたは知っているか。ただ舌を動かし声をあげることを仏事や功徳と思うのは、甚だはかないことだ。これを仏法と考えるなら、仏法からますます遠ざかってしまう。

又、経書をひらくことは、
ほとけ頓漸修行の儀則ををしへおけるを、あきらめしり、
教のごとく修行すれば、かならず証をとらしめんとなり。
いたづらに思量念度をつひやして、
菩提をうる功徳に擬せんとにはあらぬなり。
おろかに千万誦の口業をしきりにして、
仏道にいたらんとするは、なほこれながえをきたにして、
越にむかはんとおもはんがごとし。
又、円孔に方木をいれんとせんにおなじ。


また経典を学ぶことは、釈尊が様々な修行の規則について教えておられることを、明らかに知るためであり、その教えのように修行すれば、必ず悟りが得られる。いたずらに思量を費やして、悟りを得る功徳にしようというものではない。
愚かにも千遍万遍とむやみに口に称えて、仏道に行き着こうとするのは、まさに牛車のながえを北に向けて、南の越の国へ行こうとするようなものであり、また円い穴に四角い木を入れようとするのと同じである。

文をみながら修するみちにくらき、
それ医方をみる人の合薬をわすれん、なにの益かあらん。
口声をひまなくせる、春の田のかへるの昼夜になくがごとし、
つひに又益なし。いはんやふかく名利にまどはさるるやから、
これらのことをすてがたし。
それ利貪のこころはなはだふかきゆゑに。
むかしすでにありき、いまのよになからんや。もともあはれむべし。


 経文を読んでいながら修行する方法を知らないことは、医者が薬の調合を忘れたようなもので、何の利益があうか。絶え間なく口に唱えることは、春の田の蛙が昼夜に鳴いているようなもので、結局利益は無い。
 まして深く名利に惑わされている者たちは、これらのことを捨てられぬ。それは名利を貪る心が甚だ深いからである。このような人は昔すでにいたから、今の世にもいることであろう。本当に哀れなことだ。

ただまさにしるべし、
七仏の妙法は、得道明心の宗匠に、
契心証会の学人あひしたがうて正伝すれば、
的旨あらはれて稟持せらるるなり、
文字習学の法師のしりおよぶべきにあらず。
しかあればすなはち、この疑迷をやめて、
正師のをしへにより、坐禅辨道して
諸仏自受用三昧を証得すべし。


 ただ正にこのように知るべし。過去の七仏の妙法は、道を得て心を明らめた宗匠の下に、本心に適い悟りを開いた修行者が付き随って正しく伝えるので、確かな宗旨が現れて伝授されることを。これは経文の文字を学ぶ法師の知り及ぶところではない。それ故、坐禅に対するかような疑いを止め、正しい師の教えにより、坐禅修行して、諸仏の自受用三昧を悟るべし。

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