「弁道話」を学ぶ(9)



とうていはく、
「この坐禅をもはらせん人、
かならず戒律を厳浄すべしや。」
しめしていはく、
「持戒梵行は、
すなはち禅門の規矩なり
、仏祖の家風なり。
いまだ戒をうけず、
又戒をやぶれるもの、
その分なきにあらず。」

問うて言う、
「この坐禅を専一に修行する人は、必ず戒律を厳守するべきか。」
教えて言う、
「戒を保つ清浄行は禅門の規律であり、仏、祖師の家風だ」。しかし、まだ戒を受けていない者や戒を破った者は、修行することが出来ない訳ではない。」

とうていはく、
「この坐禅をつとめん人、
さらに真言止観の行をかね修せん、
さまたげあるべからずや。」
しめしていはく、
「在唐のとき、宗師に
真訣をききしちなみに、
西天東地の古今に、
仏印を正伝せし諸祖、
いづれもいまだしかのごときの行を
かね修すときかずといひき。
まことに、一事をこととせざれば
一智に達することなし。」

問うて言う、
「この坐禅に励む人が、さらに真言宗の行や天台宗の止観を兼ねて修行しても、妨げはないのか。」
教えて言う、
「私が中国にいた時に、宗門の師に修行の秘訣を尋ねたところ、古今のインドや中国に於いて、仏の悟りを正しく伝えた祖師たちが、そのような行を兼ねて修行したという話は聞いていないと教えられた。実に一事に専念しなければ、一つの智慧には達しないのである。」

[ 在家信者の坐禅 ]

とうていはく、
「この行は、在俗の男女もつとむべしや、
ひとり出家人のみ修するか。」
しめしていはく、
「祖師のいはく、仏法を会すること、
男女貴賤をえらぶべからずときこゆ。」


問うて言う、
「この坐禅の行は、在家の男女も励むことが出来るか、それとも出家の人だけが修行するものか。」
教えて言う、
「祖師は、仏法を会得することに、男女や貴賤を選んではならない、と説いている。」

とうていはく、
「出家人は、諸縁すみやかにはなれて、
坐禅辨道にさはりなし。
在俗の繁務は、
いかにしてか一向に修行して、
無為の仏道にかなはん。」
しめしていはく、
「おほよそ、仏祖あはれみのあまり、
広大の慈門をひらきおけり。
これ一切衆生を
証入せしめんがためなり、
人天たれかいらざらんものや。


問うて言う、
「出家の人は、様々な世俗の縁を速やかに離れて、坐禅修行に障害はないが、在俗の多忙な人は、どのようにして一途に修行し、無為の仏道にかなうことができるのか。」

教えて言う、
「およそ仏や祖師方は、人々を哀れに思うあまりに、広大な慈悲の門を開いておられる。すべての人々を悟らしめんがためである。それ故、人間界や天上界を問わずこの門に入れない者があるだろうか。

ここをもて、
むかしいまをたづぬるに、
その証これおほし。
しばらく代宗 順宗の、
帝位にして万機いとしげかりし、
坐禅辨道して仏祖の大道を会通す。


これについて古今を尋ねれば、その実証となる人は多い。例えば唐の代宗や順宗は、帝位にあって政務に多忙でしたが、坐禅修行して仏祖の大道を悟った。

李相国防相国、ともに輔佐の
臣位にはんべりて、
一天の股肱たりし、坐禅辨道して
仏祖の大道に証入す。
ただこれ、こころざしのありなしによるべし、
身の在家出家にはかかはらじ。


李宰相や防宰相なども、共に補佐の臣としてお仕えする天子の家来であったが、坐禅修行して仏祖の大道を悟った。これは、ただ志の有無によるものである。その身の在家出家には関係ない。

又ふかくことの殊劣をわきまふる人、
おのづから信ずることあり。
いはんや世務は仏法をさゆとおもへるものは、
ただ世中に仏法なしとのみしりて、
仏中に世法なきことをいまだしらざるなり。


又この法は、深く物事の優劣をわきまえる人であれば、自ずから信ずるものである。まして世俗の務めは仏法を妨げると思う者は、ただ世の中には仏法が無いとだけを知って、仏法の中には世間の法がないことを、いまだ知らないのである。

ちかごろ大宋に、馮相公といふありき。
祖道に長ぜりし大官なり。
のちに詩をつくりて、
みづからをいふにいはく、
「公事の余に坐禅を喜む、
曾て脇を将て牀に到して眠ること少なり。
然も現に宰官の相に出ると雖も、
長老の名、四海に伝わる。」
これは、官務にひまなかりし身なれども、
仏道にこころざしふかければ
得道せるなり。
他をもてわれをかへりみ、
むかしをもていまをかがみるべし。

最近、大宋国に馮という宰相がいた。仏祖の道に優れた高官である。後に詩を作って自ら述懐している。
「公務の余暇には坐禅を好み、横になって眠ることは少なかった。今は宰相になっているが、不動居士という長老の名が天下に知れ渡っている。」
この人は、官務で多忙な身であったが、仏道の志が深かったので悟りを得た。このような他の行跡をもって自己を顧み、昔をもって今の手本とすべし。

大宋国には、いまのよの国王大臣、
士俗男女、ともに心を祖道にとどめず
といふことなし。武門、文家、
いづれも参禅学道をこころざせり。
こころざすもの、
かならず心地を開明することおほし。
これ世務の仏法をさまたげざる、
おのづからしられたり。
国家に真実の仏法 弘通すれば、
諸仏諸天ひまなく衛護するがゆゑに、
王化太平なり。聖化太平なれば、
仏法そのちからをうるものなり。
又、釈尊の在世には、逆人邪見みちをえき。
祖師の会下には、
獦者、樵翁さとりをひらく。
いはんやそのほかの人をや。
ただ正師の教道をたづぬべし。

又、釈尊の世に在りし時には、悪逆非道の者が改心して仏道を悟り、祖師の門下では、猟師や樵(キコリ)が悟りを開いた。ましてその他の人はいうまでもない。ひたすらに正法の師の教導を尋ねるべし。


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