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「THE PLAYFUL ANTS」を読んで「うろうろアリ」について考える

友人の唐川靖弘さんが昨年末に刊行された、新しい組織論・人材論を提唱する本を読みました。「THE PLAYFUL ANTS」日本語で言うと「うろうろアリ」だ。組織論にネコを持ち込む人はいましたが、今度はアリです。
ところがこの「うろうろアリ」に学ぶことこそが、今の疲弊し切った社会での人々の働き方、ひいては個人の生き方に最も必要とされている大事なエッセンスなのではないか、というのがこの本の主張。

唐川靖弘さん著「THE PLAYFUL ANTS - 社会を小さく楽しく変える越境型人材『うろうろアリ』の生き方・働き方」

アリは規則正しく、群れになって行動します。ところが目を凝らしてみるとその中に、列から外れて勝手に動き回っているアリがいることがわかる。これが「うろうろアリ」。実は人間社会の中にもこのうろうろアリが一定数存在していて、彼らは自らの興味に忠実に動き回るがゆえに周りからみると遊んでいたり、規律を乱しているように見えるが、実は組織にとってなくてはならない新たな可能性の風を吹き込む役目を担っている、というのが唐川氏の持論です。

そんな「うろうろアリ」の特技は誰も気づかないような新しい餌場、つまり価値を見つけること。人間の世界でいうならば、「組織や役割の枠に捉われず、様々な知や情報を見いだし、繋げ、新しい価値を生む」、つまりイノベーションを起こすこと。そう、うろうろアリはただ無目的にうろうろしているのではなく、新しい価値を生み出すという大きな目的のためにうろうろしているというのです。

どうやったらそんなうろうろアリを育む場を作ることができるのか。
どうやったらそんなうろうろアリは生まれるのか。

この本では「組織の中でのうろうろアリ」と「個人としてのうろうろアリ」という二つの章立てでこれを紐解いています。

うろうろアリに求められる3つの法則

うろうろアリの特徴は以下の3つ。

  • 情熱や志をもって越境をする

  • 個性で組織に多様性をもたらす

  • 謙虚に小さく実験を楽しむ

情熱や志をもって越境をする

この「越境」というのは本の副題にもなっている大事なテーマ。

うろうろアリは志をもって、自分らしさを大切にしながら楽しく謙虚に越境を続ける。
その中で、新しい価値を見つけ、創り出すことができる存在。
それは、生まれ持った能力の問題ではなく、誰だって、いつからだって、
自分の枠から一歩を踏み出す勇気があれば、なれる存在。

個性で組織に多様性をもたらす

また、多様性ということば。多くの場合、年代、性別、専門性などが多様であることを指して使われますが、そうした「外形的な多様性」だけではありません。

「自分は、組織の一部として何をすべきか」ではなく「個人として、組織そのものをリソースとして捉え、どのようなことを実現したいか」という真逆の発想で志を描き、語り始めることによって、その人の人生で培われた独自の感覚が動き出し、より自由に、より多角的に、より主体的にアイデアを生み出すことが出来るようになる。この個性のぶつかり合いがあって初めて、多様性が意味を持つことになります。

謙虚に小さく実験を楽しむ

そして、本書のタイトルにもなっている「PLAYFUL」すなわち遊び心を持って、目の前のことに夢中になって自分が仕事に取り組むこと。自らの中の動機に突き動かされて、すぐに成果がでなくても自分自身が楽しみながら、さまざまな世界に足を踏み入れ、体験する。

大事なのは、すぐに成果がでなくても、「自分自身が楽しんでいるかどうか」という気持ちの部分です。誰かにやらされて動くのではなく、自分で歩きたいから歩く。楽しく歩く。くじけず歩く。遊ぶように歩く。こんな感じで、楽しげに歩き回っているうちにうろうろアリはたどり着くのです。直線的な思考では絶対に見ることのない世界に。

ところが、そうしたうろうろアリは一般的な視点からみると、生産性の概念からはほど遠く、失敗も多いと言えます。

うろうろアリを育てる秘訣はズバリ「3つのアリ地獄」をどう回避するか

完璧主義地獄

失敗したら罰せられ、完璧を求められる企業文化ができていないか。小さくていいからアクションを起こすことが奨励されているか。過去の成功体験でもなく、未来の精巧な予測でもなく、今起きている現場からスピーディに学びを得られているか。

前職で学んだ良い言葉に「CUOS(クオス)」というのがある。ハーバードMBAのケーススタディにでも出てきそうな単語だが実際は「小さくChiisaku産んでUnde大きくOokiku育てるSodateru」の略。

失敗してもいいから、まずは小さくトライしてみて、失敗を重ねながら改善していく。何よりも仮説に基づくアクションをいかに多くとれるか。それを許容し、むしろ奨励する企業文化はあるか。

役割仮面地獄

組織の中で人々は与えられた肩書きで規定・期待されている役割を果たそうとするが、それに囚われすぎてがんじがらめになってしまうと「本来自分がどういう人間なのか、自分がそもそも何をしたいのかよりも、組織の一部分として組織のためになにをすべきか」が優先されてしまう。個性や能力をフルに発揮できる変化に強く新たな価値を作れる企業風土を作れているか。

組織では必然的に自らの役割が規定されてくるのが当たり前です。「私の仕事はここまで」「自分には課題は見えているが、組織からはそれを解決するためのマンデートは与えられていない」

それを越境してまで問題を解決してくれる人を果たして組織は評価することができるか。マネジメント側の胆力が求められます。

短期成果地獄

「自分たちの新しい価値を創るために既存のビジネスのやりかたに囚われない新しい事業を開発する」という長期的な大きな目標が、知らない間に短期的な数値目標に置き換わっていないか。経営層が、目先の収益目標達成の見通しなしには将来の投資の意思決定をしないような体質に陥っていないか。

正直、どんな規模の会社であったとしても限りあるリソースで事業を行う中で「うろうろアリ」を育むのは決して易しいことではありません。特にそれがスタートアップや中小企業であればなおさらです。明日の百より今日の五十、ではないが目の前に達成しなければいけないKPIがある中でどこまでを先行投資と考え許容できるのか。

併せて、うろうろアリと共に仕事をする「はたらきアリチーム」からのサポートや理解をどう得ることができるのか。自分たちが一生懸命仕事をしているのに「何かサボって楽しいことをしている人がいる」と思わずに、「この人は自分達にはできないことをしているんだ」と本当に思えるのだろうか。

「最も強い者が生き残るのではなく、最も賢い者が生き延びるのでもない。唯一、生き残るのは変化できる者である」

チャールズ・ダーウィン

胸にグサリと突き刺さりながらも、その一方でなんとも希望あるメッセージではないでしょうか。

自分のロールモデルは「未来の自分」

生きがいを持って仕事やプライベート、そして社会への価値提供に楽しく取り組むうろうろアリ。ところがこの本を読んで気づくのは著者の唐川さんが、知的好奇心を原動力にさまざまな「越境」を繰り返しながらも、自らの目的地を目指す、ご自身の「うろうろアリ」としてこれまでの旅を振り返る物語は書いてありつつも「うろうろアリの成功例」みたいなものへの言及が一切ないところ。

誰もが背中を追いかける昔ながらのロールモデルそのものがいない、と言われる現代において、うろうろアリにも「これ」というロールモデルは存在しないという風にも読めるし、そもそも「こうなりたい」と思って定石通りになれるものでは決してないのがこの「うろうろアリ」ということなのかもしれません。

むしろ、本の中に描かれれている「うろうろアリ」のロールモデルは「未来の自分」。

自分自身にとっての指針となる「北極星」を見つけることが大事だと唐川氏は説きます。それは誰かに羨んでもらうための客観的な成功や社会的なステータスではなく、内なる自分の意識から湧き出る楽しさや喜びを感じながら、人生を通じて生きがいを見出せる「未来に実現したい姿」。他人からどう評価されるか、ではなく自分自身が自分の未来を夢見て、その姿を自分という存在の目的にしながらうろうろの旅に出たくなるかどうか。

そして大事なのは、その北極星そのものも進化とともに変わるということ。
そして、誰もがうろうろアリになれる。

会社としてのうろうろアリ


実は、この本を読んでハッと気づいたことがあります。
自分たちの会社(きびだんご)は「社会のうろうろアリ」になりたいのではないかと。

今の社会は、苦しんでいます。
過去の成功に縛られ「なぜ今の社会はこうも〇〇なのか」と人々がそこここで嘆いている。

自社のリソースを活かすことで、どのように社会的・環境的な問題を緩和・解決することに役立ち、ビジネスとしてだけではなく、社会や環境にとっての持続性を実現するのか。

何を始めるにしても先立つものとして常に大事な「お金」の問題。「良いアイデア」の価値をきちんと伝えるというコミュニケーションの課題。そしてそのアイデアに共感してもらえる「仲間を探す」ということ。どんなに優れたアイデアがあったとしても、一人でできることは限られています。

世の中に共通するそうした課題を自分たちが一緒になってサポートすることで、優れたアイデアが少しずつこの世の中を変えていける。

どんな小さな存在、アウトライヤーであったとしても、そして周りからみるといささか楽しく遊んでいるように見えたとしても、社会にとっての新たなる目的地やそこまでの道筋を見出すことができるのであれば、自分たちがその目的地を求め、うろうろアリとしての長い旅を続けることに意義があるのではないでしょうか。

目的地を持ち、うろうろする

なんだか矛盾するような内容でありながら、もう一つ非常に共感する部分がここです。

本の中に「Planned Happenstance(計画された偶発性)」という聞き慣れない言葉が出てきます。「変化の激しい現代においては、毎日の偶然の出来事や予測しない出来事の積み重ねこそが自分の道を決める上で大きな意味を持つ」が、「その偶然の出来事は、自分の好奇心や冒険心を大事にしながら踏み出す小さなアクションが呼び込んでいる」というのです。

以前から心に残っている「運の良い人の法則」(リチャード・ワイズマン著、矢羽野薫訳)にも書いてあるのですが、日頃「運が良い」と思っている人も、「運が悪い」と思っている人も、実は目の前に広がる環境はさほど違っていません。ただ違うのは、そこで何を考え、どのように行動するか。運の良い人は常にさまざまなものに興味を持ち、積極的に行動することで可能性の選択肢を多く持てるようになります。棚からぼたもちが落ちてくるのをただ待ち、宝くじを買って運が転がり込むのを待つのではなく、自らが行動することによりその可能性を広げることができる。ある意味考えてみれば当たり前のその単純な事実に気づいていない人は案外多い気がします。

自分自身でも、自らの興味が次の興味につながり、そしてそれが次の可能性につながっていくという場面を繰り返し体験してきました。

人は常に、選択の分岐を迫られている。どちらに行くか。いま何をするか。後戻りのできる選択肢もあれば、後戻りのできない選択肢もあります。ただ、一度取った選択肢の先には必ずまた次の分岐があり、次の可能性があります。

「目的地に行く」という命題

初めての就職先で、残念ながら今となっては誰だか思い出せないのですが、当時指導担当だった先輩からこんなことを聞きました。
「仕事って結構マニュアルがあったりするもの。わからないときにはまずマニュアルを見ろ、みたいな、ね。ただ、問題が複雑になってくるとAからBに行く方法は何通りもある。そういう時には正直マニュアルはあまり役に立たない。『どんなやりかたでもいい。最後はちゃんとBに行こう。』僕から教えられるのはそれだけだ。」

当時まだ新人だった自分には、正直ピンと来ていなかったと思うし、正直、面白いなとは思いつつも結構無責任な感じに聞こえたのを覚えています。

ただ、それって人生にもなんとなく当てはまるよな、と後から思ったことがああります。

今の自分なら、こんな風に超訳するのではないでしょうか。
「目的地に行く方法は何通りもある。最短距離に見える方法もあるかもしれないが、道は決して一つではない。何よりもそこに向かう旅そのものを楽しんでしまおうとするくらい、道中たくさんの素敵な人達と出会い、多くの成功や失敗を繰り返し、その一つ一つの経験が自分にとって何らかのプラス、気づきになると信じながら、その時その時に、自分のやりたいこと、自分がこの世に与えられる価値とは何なのかかを考えるといいんじゃないかな。」

旅の先に終わりがあるのは良いことだ。
しかし、結局のところ、重要なのは旅そのものなのである。

アーネスト・ヘミングウェイ

桃太郎が鬼ヶ島に行く道中のストーリーはあまり多く語られていません。でも、犬・猿・キジと桃太郎という一見ちぐはぐなチームが、行く先々でさまざまな困難にぶつかりながらも少しずつ目的地に近づいていく旅をつづる長大な物語があったとしたら、さぞかし面白かったのではないでしょうか。

まつざき

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