陳氏太極拳図説巻首(2)八卦方位図その2

陳鑫の解説

ひそかに思うに、伏義先天八卦・文王後天八卦の説は、もとより臆断することはできない。しかし(乾卦の文言伝の)「天に先だって天に違わず、天に後れて天の時を奉ず」という二語が、その前文の「合徳・合明・合序・合吉凶(天地とその徳を合わせ、日月とその明を合わせ、四時とその序を合わせ、鬼神とその吉凶を合わす)」を緊密に承けていることから明らかなように、(拳法には)先・後の二層の功夫があり、必ずその二つを合一しなければならず、そうして初めて効果を獲得できるのである。それはまるで「人心・道心・識神・慧神・有知・無知」の類のようである。例えば、拳法を学ぶものは後天の人心・有知の識神によりその姿勢や規矩を習い、久しく練習し動きが純粋になり成熟すると、先天の道心・無知の慧神が発現する。この後天なるものは可知の整数である。そして先天なるものは不可知の零数である。八卦の象はいずれもこれを表明しているため、乾南坤北は六陰六陽が均等に相対するという理を弁論しており、離南坎北は参天両地の奇零が均斉な数ではないことを推察する。

乾が坤と対し、兌が艮と対し、離が坎と対し、震が巽と対することなどは、その大まかに見てみれば、方位が均等に分かれており、不揃いなところはないように思える。しかし詳しく考えてみると、実は天地の数に参両九六の差があり、(各月の日数にも不揃いで)大の月が七つであるのに対して、小の月は五つしかない、といった証拠がある。

日の出日の入りについて言うと、春分秋分の日は昼は六時であり夜も六時である。しかし空がいつ明るくなりいつ暗くなるかを基準に考えてみると、日の出の半時前から空は明るくなり(薄明)、日の入りの半時後になって空は暗くなる(薄暮)。そのため、実際には昼は七時で夜は五時なのである。
一年の子午について言うと、暦の上では冬至と夏至が陽の六ヶ月と陰の六ヶ月を分ける。しかし一年の陰陽の気を基準に考えてみると、陽の氣は子の月(旧暦一月)に生じるのではなく、亥の月(旧暦十二月)に生じるのである。そのため乾(いぬい)は亥の前にあり、西北に位置する。旧暦十月を小陽(小陽春)と呼ぶのも、このためであろうか。陰の気は午の月(旧暦七月)に生じるのではなく、未の月(旧暦八月)に生じるのである。そのため坤(ひつじさる)は未の後にあり、西南に位置する。

天体観測について言うと、全天は360度であり、黄道十二宮の星座に等分して各月に配当すると、各宮は30度という端数のない整数である。(理論上は太陽は1日に1度進むが)しかし(旧暦の)一ヶ月の日数は29.5日という端数のある零数である。子の月から午の月までの7ヶ月間で210度(210日)であり、これに亥の月の乾に相当する6度(0.5×12ヶ月=6日)を加えると、(『周易』「繫辞伝」の)「乾の策は216である」という語と符合する。未の月から亥の月までの5ヶ月で150度(150日)であり、乾の6度を除くと、(『周易』「繫辞伝」の)「坤の策は144である」という語と符合する。乾策216は3(天の数)個の72(3×72=216)または9(天の数)個の24(9×24=216)で出来ており、坤策144は2(地の数)個の72(2×72=144)または6(地の数)個の24(6×24=144)で出来ている。そのため(『周易』「説卦伝」の)「参天両地にして数に倚る」という語は、零数が整数の真根であることを示しているのである。

零数とは何であろうか。すなわち太極である。そして無極である。拳術家が纏糸精法を確立し、乾坤不息の螺旋線を静かに運行することこそ、「説卦伝」にいう「理を窮め、性を尽くし、もって命に至る」道なのである。果たしてこれを「技芸」などと呼称してよいのだろうか。そのような言い方ではその本質を言い尽くすことは出来ない。

乾が南で満ちて西北に憩い、坤が北で満ちて西南で憩い、本に返り原に還るのは、その始めを窮めるのである。離が東に憩い南に満ちることで乾に代わり、坎が西に憩い北に満ちることで坤に代わるのは、(文王八卦と『周易』「雑卦伝」で)「離は上にして坎は下である」とは言うものの、その実はいずれも進歩上達である。離の上達は雷の卦たる震によるものであり、坎の上達は沢の卦たる兌によるものである。(気が体に満ちて)口の中に液が生じとても楽しい気分になるのは、兌の象である。兌沢が降るのは風の卦たる巽によるものである。『詩経』「谷風」の詩に「谷間からの風が吹き、曇り、雨に濡れる」とあるのは、雨沢の恵みである。沢が潤うことで民は生きることができ、(『老子』の)「谷神死せず」とはこのことである。震が一年の気の始まりであるのは、艮が一年の気の終わりだからである。(物事が)終われば始まりがあり、循環して行き止まることはない。

帝は震に出る。帝は巽で整う。帝は離で相見る。帝は坤で役する。帝は兌で言を説く。帝は乾で戦う。帝は坎で労る。帝は艮で言を成す。帝とは神である。(『周易』「説卦伝」に)「神なるものは万物に妙であり、言を成すものである」とある。言には八方があるが方に拘らず、言には四時があるが時に拘らない。先天と後天は(仏教でいう)「一合相」である。

拳であろうか。道であろうか。志あるものはこれをよく理解されたい。

参考 八卦十二支配当図


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