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『本朝武芸小伝』に引用された『兵術文稿』について(2)

関東七流・京八流の伝承は日本の剣術の始まりを語るものであり、剣術の歴史を叙述する上で欠かせない要素ですが、しかし、それが本当に実際にあったことなのか、それとも架空の作り話であるのかについて十分な検討が行われていないと私は感じ、この場を借りて私の個人的見解を述べています。

以前のnoteはこちらをご覧ください。

日夏繁高は『本朝武芸小伝』を編纂するに当たりさまざまな書物を引用しています。それらの書物の概要を数回にかけて確認し、日夏が各書を引用した意図を探りたいと思います。前回から続いて、今回も巻六「大野将監」に引用された『兵術文稿』取り上げます。

『本朝武芸小伝』には『兵術文稿』巻下「倭邦陳法伝来説」の一部が引用されています。「倭邦陳法伝来説」は、『兵術文稿』の作者である香西成資とその師小早川能久との問答を記したものであり、日本における陣法の歴史を論じています。この問答の中で関東七流と京八流の伝承が詳細に論じられています。

愚、昔嘗有問小早川能久先師曰、倭邦之陳法、亦有其所以為伝受之祖者乎、可得聞。
(愚、昔嘗て小早川能久先師に問うこと有りて曰く、倭邦の陳法、亦た其の伝受の祖たる所以の者有るか、聞くを得べきか、と。)

香西はかつて小早川に対し、倭邦(日本)の陳(陣)法には祖と呼びうる者が存在するかとたずねました。

先師曰、善哉、問也。夫倭邦者固褊小也。然其所以立者、以有武也。蓋神代之古、以天瓊戈定天下矣。朝廷三種宝器亦以剣為其一焉。是神道之秘訣、不可敢妄説。
(先師曰く、善きかな、問いや。夫れ倭邦は固より褊小なり。然れども其の以って立つ所は、武有るを以ってなり。蓋し神代の古、天瓊戈を以って天下を定めたり。朝廷の三種宝器亦た剣を以って其の一と為せり。是れ神道の秘訣にして、敢えて妄りに説くべからず。)

小早川は香西の質問を良しとし、次のように回答した。まず小早川は、日本が偏小ではあるが、「武」によって成り立つ国であると述べ、その根拠としてイザナギとイザナミが天瓊戈という武具を用いてオノゴロ島を作ったという国生み神話、及び皇室で祀られる三種の神器の一つが天叢雲剣(草薙剣)という剣である点を挙げ、この説が神道の秘訣であると述べました。

至于人皇之始神武帝之創業也、発兵而定天下、是所以為倭邦陳法之祖也。(中略)六月廿三日、至于熊野神邑、以聚兵、日臣命帥大来目、督将元戎、来属輔皇師、為先導。皇感其有功、而改名為道臣命、皇以道臣命・大来目元戎為先駆之左右、合之本軍、而為七軍。蓋倭邦兵家用七軍、始于此矣。皇以此兵律、破紀州賊。(中略)辛酉年春正月一日、皇即帝位於橿原宮、是歳也、為神武天皇元年。其二月二日、天皇別諸将之功、而行賞凡六人、是所以与皇師為七軍也。
(人皇の始め神武帝の創業に至るや、兵を発して天下を定むるは、是れ倭邦陳法の祖と為す所以なり。(中略)六月廿三日、熊野神邑に至り、以って兵を聚むるに、日臣命大来目を帥い、元戎に督将となり、来属して皇師を輔け、先導と為る。皇其の功有るを感じて、名を改めて道臣命と為し、皇道臣命・大来目・元戎を以って先駆の左右と為し、之を本軍と合わせて、七軍と為す。蓋し倭邦の兵家七軍を用うるは、此に始まれり。皇此の兵律を以って、紀州の賊を破る。(中略)辛酉年春正月一日、皇帝位に橿原宮において即くは、是の歳なり、神武天皇元年と為す。其の二月二日、天皇諸将の功を別して、賞を行うこと凡そ六人、是れ皇師と与に七軍と為す所以なり。)

ついで小早川は、神武天皇を日本における陣法の祖と位置づけ、熊野で大伴氏の祖とされる日臣命が神武天皇に服属し、神武天皇の軍と日臣命が率いる軍を合わせて「七軍」としたことを述べました。小早川はこの神武天皇による「七軍」陣法の創始を重要視していたらしく、熊野での戦いが「七軍」陣法の始まりであり、その勝利が「七軍」陣法によりもたらされたことを述べました。また、神武天皇が橿原宮で即位した際の出来事として、東征において功績のあった六名を賞し、神武天皇自ら率いる軍と、彼らが率いる軍を合わせて「七軍」としたことに言及しました。

後来、猶存其余風、而用七数者、多矣。所謂鹿島武甕槌神者、軍神也。其神人等、以兵法為業、其長者有七人、謂之関東七流之兵法也。
(後来、猶お其の余風存して、七の数を用うる者、多し。所謂鹿島武甕槌神は、軍神なり。其の神人等、兵法を以って業と為し、其の長者に七人有りて、之を関東七流の兵法と謂うなり。)

そして、小早川は神武天皇の「七軍」陣法の余風が後世になおの残存していたことに言及し、軍神武甕槌命が祀られる鹿島神宮の神人が剣術を生業とし、特に優れた七人が関東七流であると述べています。

又問曰、倭邦七軍法既得聞焉。願聞八陣法所伝来之者。
(又た問いて曰く、倭邦の七軍法は既に聞くを得たり。願わくは八陣法を伝来する所の者を聞かん。)

七軍の法の由来が明らかになったところで、香西は次に中国の陣法である八陣法が日本に伝来した経緯について質問をしました。

答曰、昔当仲哀帝之世、西州熊襲為乱而掩西州之地。天皇二年癸酉発兵、而到于長門州豊浦、而屯兵教戦也、七年矣。於是、入西州之地、止于香椎宮時、天皇崩。一説、三韓授熊襲、而来于海表、舟戦、天皇中賊矢、崩。神功皇后輒発兵、而制西州之賊。于時皇后元年辛巳六月、漢土有履陶公者、持兵書来、授皇后。此乃太公望八陣法也。皇后用此法、破西州之賊、且討於三韓。(中略)皇后帰于本土、而駐兵於筑前州蚊田邑、而産応神帝、今之産宮是也。皇后以八陣法、授応神帝。帝以此法、定天下。及晩年、以謂恐後世有以此法作乱者、故焼其書、呑之、而崩。是以、為軍神、現八幡宮。是所以為倭邦八陣之祖也。
(答えて曰く、昔仲哀帝の世に当たり、西州の熊襲乱を為して西州の地を掩う。天皇二年癸酉兵を発して、長門州の豊浦に到りて、兵を屯して戦いを教うるや、七年たり。是において、西州の地に入り、香椎宮に止まる時、天皇崩ず。一説、三韓熊襲に授けて、海表に来り、舟戦し、天皇賊の矢に中り、崩ず。神功皇后輒ち兵を発して、西州の賊を制す。時に皇后元年辛巳六月、漢土に履陶公なる者有り、兵書を持ち来り、皇后に授く。此れ乃ち太公望八陣法なり。皇后此の法を用い、西州の賊を破り、且つ三韓を討つ。(中略)皇后本土に帰りて、兵を筑前州蚊田邑に駐して、応神帝を産む、今の産宮は是なり。皇后八陣法を以って、応神帝に授く。帝此の法を以って、天下を定む。晩年に及び、以って恐後世に此の法を以って乱を作す者の有るを恐るるを謂い、故に其の書を焼き、之を呑みて、崩ず。是れを以って、軍神と為り、八幡宮と現る。是れ倭邦の八陣の祖為る所以なり。)

「誰が八陣法を日本に伝えたのか」という香西の質問に対し、小早川は神功皇后の三韓征伐のときの出来事を語りました。九州の熊襲の乱を討伐するために出兵した仲哀天皇は、途上で崩御してしまいます。折しも三韓が襲来してきたので、神功皇后が仲哀天皇の後をついで戦いの指揮を執ります。この時、中国から履陶公という者が渡来し、太公望が創始したという八陣法の兵書を神功皇后に献上しました。神功皇后はこの法を用いて熊襲と三韓を討伐しました。戦いの後、神功皇后は八陣法を応神天皇に伝え、応神天皇は八陣法によって天下を治めました。しかし、応神天皇は晩年になると、八陣法をもって世を乱すものが現れることを恐れ、八陣法の書を燃やして飲み込みました。この八陣法の功徳により、応神天皇は日本国を守護する軍神たる八幡菩薩となりましたが、八陣法の書そのものは一旦日本から失われてしまいました。

其後、聖武帝天平年中、吉備公入唐、止居于異朝、十九年伝八陣法来、而輔佐於朝廷、設軍団於諸州、以訓錬於兵士、造武庫、而納兵器。世換年久、而其法亦不伝于世矣。
(其の後、聖武帝天平年中、吉備公入唐し、異朝に止居し、十九年にして八陣法を伝え来りて、朝廷を輔佐し、軍団を諸州に設け、以って兵士に訓錬し、武庫を造りて、兵器を納む。世換り年久しくして、其の法亦た世に伝わらず。)

奈良時代、遣唐使として中国に渡った吉備真備は、中国で八陣法を学び、帰国後、八陣法によって朝廷を補佐し、軍隊を整備しました。これが日本における八陣法の再伝です。しかし、年月が経つにつれ、吉備真備が整備した軍隊は次第に形骸化していき、八陣法は忘れ去られてしまいました。

至于醍醐帝、使左大弁宰相大江維時、任大納言、齎沙金十万両、以行唐朝。于時、延長元年癸未五月也。八月、船到明州津、乃献所持之金五万両於唐帝、以求兵符。帝輒勅龍取将軍、授六韜・三略及軍勝図四十二条。此軍勝図乃諸葛孔明八陣図也。朱雀帝承平四年甲午、帰本朝。是当五代閔帝応順初元也。維時帰朝之後、以文武、輔佐於朝廷。于時、兵家之徒請学其法、維時秘此法、而不伝於人、別以兵家陰陽之書、為和字、作訓閲集百二十巻、以伝于世。是所以欲惑人之耳目、而不令知兵法之実事也。
(醍醐帝に至り、左大弁宰相大江維時をして、大納言に任じ、沙金十万両を齎し、以って唐朝に行かしむ。時に、延長元年癸未五月なり。八月、船明州の津に到り、乃ち持つ所の金五万両を唐帝に献じ、以って兵符を求む。帝輒ち龍取将軍に勅し、六韜・三略及び軍勝図四十二条を授く。此の軍勝図乃ち諸葛孔明八陣図なり。朱雀帝承平四年甲午、本朝に帰る。是れ五代閔帝応順初元に当たるなり。維時帰朝の後、文武を以って、朝廷を輔佐す。時に、兵家の徒其の法を学ぶを請うも、維時此の法を秘して、人に伝えず、別して兵家陰陽の書を以って、和字に為し、訓閲集百二十巻を作り、以って世に伝う。是れ惑人の耳目を惑わして、兵法の実事を知らしめざらんと欲する所以なり。)

そこで、平安時代の醍醐天皇の時、大江維時が砂金十万両を持参して渡唐し、中国から三度八陣法その他の兵法書をもたらしました。帰朝後の維時はこれらの文武の両面で朝廷を補佐しました。当時の武臣は維時から八陣法を学ぼうとしました。しかし維時は八陣法を人に教えたくなかったため、八陣法とは別の陰陽術の書を題材として『訓閲集』という書を編纂し、これを武臣たちに授けました。

維時六世孫大江匡房、有博文之名。後冷泉帝天喜康安中、奥州安倍貞任・高宗任叛、以伊予守源頼義、為征夷使、而討之。其子八幡太郎義家、相続為征夷使、而討武衡家衡。其功洪大、而叡感有余矣。義家嘗奏帝請受江家之兵法、而為家法矣。帝詔大江匡房、而使之伝于義家。是白川帝承暦二年戊午三月十二日也。自是、源家以八陳為家法。新羅三郎義光受此法、而世世相続来、而為武田家法矣。陳法用八数、又始于此也。
(維時六世孫大江匡房、博文の名有り。後冷泉帝天喜康安中、奥州安倍貞任・高宗任叛し、伊予守源頼義を以って、征夷使に為して、之を討たしむ。其の子八幡太郎義家、相い続いて征夷使と為りて、討武衡家衡を討つ。其の功洪大にして、叡感余り有れり。義家嘗て帝に奏して江家の兵法を受けて、家法と為すを請えり。帝大江匡房に詔して、之を義家に伝えしむ。是れ白川帝承暦二年戊午三月十二日なり。是より、源家八陳を以って家法と為す。新羅三郎義光此の法を受けて、世世相続き来りて、武田の家法と為せり。陳法に八の数を用うるは、又た此に始まるなり。)

後冷泉天皇の時、奥州で起きた前九年の役に対処するために源頼義が征夷使になり、ついで後三年の役の際は頼義の長男である源義家が征夷使になりました。義家はかつて大江家の兵法を学ぶことを天皇に奏上し、天皇は維時の子孫である大江匡房に詔を出して、義家に八陣法を教えるよう命じました。義家は匡房より伝授された八陣法によって大きな功績を挙げ、以後八陣法は代々源氏に伝承されました。つまり、義家の弟である新羅三郎義光の流れをくむ武田家には義家以来の八陣法が伝えられ、これが甲州流軍学の基礎となりました。

其後、堀川鬼一得其遺法、而立教也、精矣。蓋以七陳為法、以三略為意。然、深秘此法、而不伝之於人。唯以刀術教人而已。学其術者、有鞍馬僧八人、又有市原次郎者、凡九人、謂之京八流之兵法也。鬼一所以為教者、三矣。遠制敵者、無如弓矢、故以射法為其一。近制勝者、無如剣刃、故以刀術為其二。戦為馳逐者、無如良馬、故以乗馬為其三也。凡講此三者而教人、故以鬼一称弓馬之家也。若夫隊伍布列・講塁陳営之法、進退行止・臨機応変之権者、未曽伝於人。蓋其所以不伝人者、非不欲伝之、必所以欲得其人而伝之也。非其人而伝之者、必受其殃、得其人而不伝之者、亦受其殃。故鬼一不叨伝之人、唯知市原次郎之為人、而伝之而已矣。
(其の後、堀川鬼一其の遺法を得て、教をたつるや、精たり。蓋し七陳を以って法と為し、三略を以って意と為す。然れども、深く此の法を秘して、之を人に伝えず。唯だ刀術を以って教人に教うるのみ。其の術を学ぶ者に、鞍馬僧八人有り、又た市原次郎なる者有り、凡そ九人、之を京八流の兵法と謂うなり。鬼一の教を為す所以の者、三なり。遠く敵を制する者に、弓矢に如くは無く、故に射法を以って其の一と為す。近く勝を制する者に、剣刃に如くは無く、故に刀術を以って其の二と為す。戦いて馳逐を為す者に、良馬に如くは無く、故に乗馬を以って其の三と為すなり。凡そ此の三者を講じて人に教う、故に鬼一を以って弓馬の家と称するなり。夫れ隊伍布列・講塁陳営の法、進退行止・臨機応変の権の若きは、未だ曽て人に伝えず。蓋し其の人に伝えざる所以の者は、之を伝うるを欲せざるに非ず、必ず其の人を得て之を伝えんと欲する所以なり。其の人に非ずして之を伝うれば、必ず其の殃を受け、其の人を得て之を伝えざれば、亦た其の殃を受く。故に鬼一叨りに之を人に伝えず、唯だ市原次郎の人と為りを知りて、之を伝うるのみ。)

後に堀川の鬼一というものが源氏の八陣法を得て、弟子に指導しました。鬼一の弟子には、鞍馬寺の八人の僧侶と市原次郎という者がいました。本来八陣法は七陣(八陣の誤か?)を法とし、中国の兵法書である『三略』を意とします。しかし、その資格が無いものに八陣法を教えると災いを受けてしまうため、鞍馬寺の僧侶たちには剣術のみ、または剣術・弓術・馬術の三術を教え、市原次郎のみに八陣法の全伝を授けました。凡そ九人、之を京八流の兵法と謂うなり。これら鞍馬寺の僧侶および市原次郎の流れをくむ兵法流派を京八流と言います。

源義経住鞍馬寺之日、従鬼一之門人鞍馬寺僧、而習剣術於僧正谷、是所以欲深密而神之也。世人不知、而謂牛若君師天狗也。其後有義経通鬼一之女而為値遇。其女盗父之書、而与義経。義経陰書写之、以密読之矣。然未受鬼一之所伝、而不知其精微之所在。是故、雖為其始、然不保其終也。夫能守微者、必全其始終矣。昔漢張良受圯上老父之書、読之日旧矣。其後、良以此法、而説沛公。沛公常用其策、而興漢業。良雖有功、不居貴、自封而為雷侯、後棄人間之事、従赤松子而遊。是所以能守微而保其生也。然義経不知止足、侈功而居貴、遂受其殃矣。故知兵之道、為非容易之事也。夫至于兵法之精微者、不可以其言而伝之、必須以其心而伝之也。
(源義経鞍馬寺に住むの日、鬼一の門人鞍馬寺僧に従いて、剣術を僧正谷に習うは、是れ深く密にして之を神にせんと欲する所以なり。世人知らずして、牛若君天狗を師とすると謂うなり。其の後義経鬼一の女に通じて値遇を為すこと有り。其の女父の書を盗みて、義経に与う。義経陰かに之を書写し、以って之を密読せり。然れども未だ鬼一の伝う所を受けずして、其の精微の在る所を知らず。是の故に、其の始を為すと雖も、然れども其の終を保たざるなり。夫れ能く微を守る者は、必ず其の始終を全うせり。昔漢の張良圯上老父の書を受け、之を読むこと日に旧たり。其の後、良此の法を以てして、沛公に説く。沛公常に其の策を用いて、漢の業を興す。良功有りと雖も、貴に居らず、自ら封じて雷侯と為し、後に人間の事を棄て、赤松子に従いて遊ぶ。是れ能く微を守りて其の生を保つ所以なり。然れども義経足るに止まるを知らず、功を侈りて貴に居り、遂に其の殃を受けり。故に兵を知るの道は、為すに容易に非ざるの事なり。夫れ兵法の精微に至りては、其の言を以ってして之を伝うべからず、必ず須く其の心を以ってして之を伝うべきなり。)

そして、源義経は鞍馬寺に住んでいた当時、鬼一の弟子である鞍馬寺の僧侶より剣術を学びました。修行の場所として僧正谷を選んだのは、鞍馬寺の僧侶から鬼一の剣術を習ったことを秘密にするためでしたが、世間の人はそのことを知らなかったため、「義経が天狗から剣術を習った」などという噂が広まりました。その後、義経は鬼一の娘と懇意になり、娘を通して鬼一が秘蔵する八陣法の書を盗み見ました。しかし、義経は鬼一から直接伝授を受けたわけではないため、八陣法の精微の部分を理解することができませんでした。八陣法の精微とは「功績に驕らない」ということです。かつて張良は、橋の上で不思議な老人から授けられた兵法書を学ぶことで兵法の奥儀を会得し、劉邦の軍師として活躍しました。漢王朝が成立すると、張良は高位高官に拘泥すること無く、仙人の世界に心を寄せ、生を全うすることができました。一方で、義経は源平の合戦で大きな功績を上げるものの、その功績に驕ってしまい、結果悲劇的な最後を迎えることとなりました。

蓋曰京八流・関東七流者、以七陳・八陳言之也。故以刀術為表、以軍配為裹。然両流往往遺失軍配、而以刀術為兵法、実可惜之至也。伝来京流兵法者、如兵法所吉岡氏及山本勘介是也。伝来関東流兵法者、如上泉武蔵守及松本備前守是也。各兼軍配、而為教示也。
(蓋し京八流・関東七流と曰うは、七陳・八陳を以って之を言うなり。故に刀術を以って表と為し、軍配を以って裹と為す。然れども両流往往にして軍配を遺失して、刀術を以って兵法と為すは、実に惜むべきの至りなり。京流兵法を伝来する者は、兵法所吉岡氏及び山本勘介の如き是れなり。関東流兵法を伝来する者は、上泉武蔵守及び松本備前守の如き是なり。各おの軍配を兼ねて、教示を為すなり。)

そもそも、京八流・関東七流という流儀名は、七軍・八陣法に由来します。そのため、本来は剣術を表向きの技とし、軍学を奥儀とします。しかし、京八流・関東七流両方で軍学が欠けていることが多く、剣術のみをもって兵法と自称することが多々あり、これはまことに残念なことです。そのような中にあって、正当な兵法を伝える者には、京八流の吉岡流や山本勘助、関東七流の上泉武蔵守や松本備前守がおり、彼らは剣術と軍学の双方を教授しました。

天運循環而無往不復。東照君威徳隆盛、而海内治平、賢哲之君相続、而政教行矣。於是、文武之道復起、而明于世。吾子歳末壮、幸而春秋富、且逢盛時、候後之識者、可也。
(天運循環して往きて復さざること無し。東照君威徳隆盛にして、海内治平し、賢哲の君相い続きて、政教行われり。是において、文武の道復た起きて、世に明らかなり。吾子の歳末壮、幸にして春秋に富み、且つ盛時に逢う、後の識者を候つは、可なり。)

天の運は循環して元に戻り、東照大権現徳川家康の威徳は盛んであり、天下は平和に治まり、賢明なる君主が続き、優れた統治が行われました。これにより文武の道が再興され、世に明らかとなりました。幸いにもこの優れた時代に逢うことができた小早川能久は、後の時代に識者が現れることを期待します。

以上が、小早川能久が香西成資に語る関東七流・京八流の伝承です。

能久は、日本という国が武をもって成り立つのはイザナギ・イザナミの国産み以来の伝統であると考え、神武天皇に始まる「七軍」、中国から伝来した「八陣」を基礎とする軍学こそが兵法の正統であり、関東七流・京八流に代表される剣術は軍学の余風あるいは従属的なものと見なしました。

香西が

乃能久考江家之書、而為其説、諭之人耳。諸家之説、未知其有本、而逐末者、間有之矣。於先師之伝、唯得其宗也。是一編、雖世世所秘而不敢妄説、然恐日久而失其伝、故為之説、以示同志云。
(乃ち能久江家の書を考えて、其の説を為し、之を人に諭すのみ。諸家の説、未だ其の本有るを知らずして、末を逐う者、間ま之有り。先師の伝においては、唯り其の宗を得るなり。是の一編、世世秘する所にして敢えて妄りに説かずと雖も、然れども日の久しくして其の伝を失うを恐れ、故に之の説を為して、以って同志に示すと云々。)

と述べるように、能久の兵法観は毛利家に伝来していた大江家の書を元にして能久が創作したものである可能性が高いです。

『兵術文稿』の成立は宝永五年(一七〇八)頃であり、現時点で『兵術文稿』以前に関東七流・京八流の伝承に言及した書物を確認しておりません。そのため、『兵術文稿』は関東七流・京八流に言及した最古の書物ということになります。ただし、「諸家之説、未知其有本、而逐末者、間有之矣」とあるように、兵法の歴史について様々な説が唱えられ、能久以前に関東七流・京八流の伝承を語る者がいたであろうことは十分に想像でき、それらの伝承を能久は自身に兵法観に取り入れたのではないかと考えられます。

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