太公望と黄石公の兵法書について
義経の物語にはしばしば中国伝来の四十二巻の兵法書が登場するのですが、実はこの兵法書は実在し、「張良一巻書」「兵法秘術一巻書」「陰符経」「義経虎の巻」等の名称で各地に所蔵されています。
もちろんこの書を読んでも超人的な能力を身につけることは不可能ですが、兵法の秘伝書として戦国武将にも読まれ、中世の日本において一定の認知を得ていました。そうした現実世界での「四十二巻の兵法書」の受容が物語の世界に反映された結果、義経の兵法修行譚が成立しました。
その概要は、有馬成甫・石岡久夫編『諸流兵法(上)』(日本兵法全集六、新人物往来社、一九六七年)、梶原正昭『義経記』巻二補注(日本古典文学全集、小学館、一九八五年)、大谷節子『兵法秘術一巻書』(『日本古典偽書叢刊』第3巻所収、現代思潮社、二〇〇四年)等の解説をご覧ください。
ここでは先行研究で言及されていない点についていくつか述べてみたいと思います。
書誌目録の編纂
義経の物語では、中国伝来の太公望や張良の兵法書が登場しますが、現実にはどのようなものがあるのか紹介します。
『漢書』三十「芸文志」によると、漢王朝の成立後、張良は韓信とともに百八十二家の兵書を三十五家に整理しました。しかし、この時の成果は呂氏が政権を牛耳った時に盗まれてしまいます。
前漢中期の武帝の時、楊僕が『兵録』を著しますが、完全なものではありませんでした。
成帝の時代に、書物が散逸したので国中の書物を求めさせ、劉向・劉歆親子が目録の編纂を命じられると、步兵校尉の任宏が兵書の整理を担当しました。
楊僕:宜陽の人、銭穀を国庫に献納したことで千夫の爵位を得て地方の吏となった。河南太守に推挙されて御史となり、関東の盗賊を取り締まる役職に就いた。その仕事ぶりは、酷吏として有名だった尹斉に倣い、盗賊を果敢に攻撃した。その後昇進して都尉に至ると、武帝は楊僕の能力を認めた。南越が反乱すると、楊僕は楼船将軍を拝命し、軍功を挙げて、梁侯に封じられた。しかし、衛氏朝鮮との戦争における失敗を責められて、庶人に落とされた。(『史記』巻百二十二「酷吏列伝」、『漢書』巻九十「酷吏伝」)
任宏:成帝治世の前半期の河平三年に歩兵校尉として兵書を校訂する。(『漢書』「芸文志」)成帝治世末期である元延三年以前に護軍都尉となり、同三年には太僕になったが、二年後の綏和元年に執金吾に遷り、当時定陶王であった哀帝を成帝の皇太子として迎えるための使者になるものの、同年十一月に代郡太守に落とされた。(『漢書』「成帝本紀」河平三年、綏和元年、巻十一「哀帝本紀」、巻十九下「百官公卿表下」)
步兵校尉は上林苑門の屯兵を管掌し、秩禄は二千石、護軍都尉は大司馬に付属する官で、執金吾は京師の治安維持を担う官で、これも秩禄は二千石である。(『漢書』巻十九上「百官公卿表上」)
劉向:初名は更生、字は子政、漢の高祖劉邦の末弟である楚元王劉交の後裔である。礼節に拘泥せず、謙虚で聖人の道を楽しんだ。世俗と交わろうとせず、専ら経書に親しみ、昼は書物を誦し、夜は星の観測を行った。
十二歳で輦郎に任じられ、成人すると諫大夫に選ばれた。当時、宣帝は武帝の故事に倣って、名儒俊才を側に置いた。劉向は文学に通じ、数十篇の賦を宣帝に献じた。
また宣帝は神仙の術を振興しようとした。『淮南子』の著者淮南王劉安は『枕中鴻宝苑秘書』という書物を所蔵し、そこには錬金術や長生の術が記されていたという。劉安が反乱未遂の末自害すると、劉向の父の劉徳がこの書を入手した。劉向はこの書を宣帝に献じ、錬金術が実行可能であることを進言した。そこで宣帝は錬金術を試させるが、費用がかさむばかりで成功しなかった。そのため劉向は死罪に問われたが、家族の助命嘆願により死刑を免れた。『春秋穀梁伝』が学官に立てられると、劉向は『穀梁伝』の学習を命じられ、宮中の石渠閣で開催された五経の異同に関する会議に出席した。そして郎中給事中黄門の職を与えられ、散騎諫大夫給事中に遷った。
元帝が即位すると、劉向は宗室の一員であることと経書に明るいことを理由に散騎宗給事中に抜擢された。そして蕭望之・周堪・金敞とともに元帝を補佐し、外戚と宦官の専横を告発したが、外戚と宦官の讒言により、蕭望之は自殺に追い込まれ、劉向は庶人に落とされた。
成帝が即位すると、外戚らは失脚した。劉向は再び任用され、たびたび封事をした後、光祿大夫に遷り、河平三年より書物の校訂を始めた。劉向はしばしば状勢の得失を論じ、『洪範五行伝論』・『列女伝』・『新序』・『説苑』等の書を著して成帝に献じた。成帝は劉向の言に感嘆はするものの、実行には至らなかった。
成帝は劉向を九卿の職に就けようとした。しかし、劉向は外戚の王氏をしばしば非難したため彼らに阻まれ、結局九卿になることはなかった。大夫の地位に合わせて三十余年就き、七十二歳で没した。(『漢書』巻十「成帝本紀」河平三年、『漢書』巻三十六「劉向伝」)
劉歆:字は子駿。若くして詩書に通じ文学を能したことから成帝に召され、黄門郎になった。河平三年、父の劉向と共に書物の校訂を任され、儒学の経書とその注釈、諸子百家、文学、数学、方技等、究めないものはなかった。劉向死後、劉歆は中塁校尉になった。
哀帝が即位すると、大司馬の王莽は劉歆を取り立て、侍中太中大夫とし、騎都尉・奉車光祿大夫に遷った。また父の遺業を継ぎ、『七略』を完成させた。
劉向と劉歆は最初易を学び、宣帝の時、劉向は『春秋穀梁伝』を学んだ。劉歆は書物の校訂に参画した際、古文の『春秋左氏伝』を見つけるとこれをとても好み、丞相の翟方進と丞相史の尹咸に学んだ。劉歆は、『春秋左氏伝』が『春秋穀梁伝・『春秋公羊伝』よりも優れていると考え、『毛詩』・『逸礼』・『古文尚書』と共に学官に建てることを主張したが、他の五経博士に反対された。
その後、地方の郡守となるが、哀帝が崩じ、王莽が政権を執ると、劉歆は王莽に重用され、律暦を考定し、『三統暦譜』を著した。
しかし、王莽政権の最末期になると、劉氏が再興するという讖緯の説を信じ、また王莽により第三子が殺されたことを怨み、劉歆は王莽に対する謀叛の計画に参加した。しかし、計画は失敗し、劉歆は自殺した。(『漢書』巻三十六「劉歆伝」、巻九十九下「王莽伝下」)
劉歆が完成させた目録は『七略』といい、「輯略」・「六芸略」・「諸子略」・「詩賦略」・「兵書略」・「術数略」・「方技略」という構成でした。
後漢の班固は『七略』を再整理し、「芸文志」として『漢書』に収録しました。『漢書』「芸文志」は「六芸略」・「諸子略」・「詩賦略」・「兵書略」・「術数略」・「方技略」という「六部分類法」が用いられていられ、軍事に関する書物の多くは兵書略に分類されますが、一部は六芸略や諸子略に分類されています。
班固:字は孟堅。九歳にして文学を能し詩賦を誦した。成人すると、広く書物に通じ、諸子百家の言に関して究めないものはなかった。班固は度量が広く様々な人と交わり、自身の才能が人より優れているとはせず、それ故諸儒は彼を慕った。
班固の父の班彪は述作を好み、専ら史籍に関心を寄せた。武帝の時、司馬遷が『史記』を著したが、武帝の太初年間以後のことは『史記』には記述されておらず、後に好事家が時事を収集したが、多くは卑俗なものであり、『史記』を継ぐものたりえなかった。班彪は『史記』に記載されなかった事柄を採集し、『後伝』数十篇を作った。
班彪が亡くなると、班固は郷里に帰り、班彪の史書編纂を引き継いだ。ある人物が明帝に上書し、班固が国史を密かに改作していると告発した。明帝は郡に詔を下し、班固を獄に繋ぎ、編纂途中の書を尽く没収した。
これ以前、扶風の人蘇朗が偽りの図讖を述べた嫌疑で獄に下され死ぬ、という事件があった。班固の弟の班超は、郡の取り調べでは濡れ衣を晴らすことはできないと恐れ、明帝に上書し、班固の著述の意図を詳しく述べ、郡からもその書が献上された。明帝はこれを高く評価し、召し出して蘭台令史とし、『世祖本紀』の編纂に参加させた。郎に遷り、書物を典校した。また新末後漢初の人物について『列伝』『載記』二十八篇を作り、奏上した。そこで明帝は以前編纂していた史書を完成させるよう命じた。それから二十余年が経過して、『漢書』の大半を完成させた。
後に班固は獄死するが、この時点では『漢書』の「八表」と「天文志」が完成していなかった。そこで、妹の班昭がこれらを完成させた。(『後漢書』巻四十上「班彪伝」、「班固伝」、巻八十四「曹世叔妻伝」)
六韜
『史記』巻五十五「留侯世家」によると、秦の始皇帝の暗殺に失敗して下邳に潜伏していた張良は、黄石公から太公望の兵法の秘伝書を授けられました。
この黄石公の説話が果たして事実なのか、それとも作り話なのか。確認のしようがありませんが、『漢書』「芸文志」には太公望の作とされる書物として、諸子略の道家に「謀」八十一篇、「言」七十一篇、そして「兵」八十五篇からなる「太公。二百三十七篇」が著録されています。
この「太公」は劉歆の『七略』では「兵書略」に分類されており、兵法に関する書物だったようです。
『史記』「斉太公世家」に「周西伯昌之脫羑里帰、与呂尚陰謀修徳以傾商政。其事多兵権与奇計。故後世之言兵及周之陰権皆宗太公為本謀(周西伯昌の羑里を脱して帰るや、呂尚と与に陰謀修徳し以て商の政を傾けんとす。其の事兵権と奇計多し。故に後世の兵及び周の陰権を言うもの皆太公を宗とし本謀と為す)」とあるように、前漢の兵家の多くは太公望を宗師としました。
ただし、『漢書』「芸文志」に著録された「太公」二百三十七篇は現存せず、詳しい内容はわかりません。
現在、太公望の兵法書として知られているものに『六韜』があります。
『六韜』という書名は『漢書』「芸文志」には見えず、その書名が最初に確認されるのは、南朝宋の時に成立した『後漢書』巻六十九「何進伝」の「五年、天下滋乱、(中略)仮司馬伍宕説進曰、『太公六韜有天子将兵事』(五年、天下滋に乱れ、(中略)仮司馬伍宕進に説きて曰く、『太公六韜に天子将兵の事有り』)」であり、以後、初唐までに成立した史書にしばしば『六韜』の語がみられるようになります。
『六韜』がいつ頃成立したか、正確な時期は不明ですが、一九七二年に山東省臨沂県の銀雀山漢墓で発掘された『銀雀山漢墓竹簡』に『六韜』と思われる竹簡が含まれていたことから、『六韜』の原型は先秦時代にまで遡る可能性があり、漢代から初唐にかけて太公望関連の書物が再編された結果、現行の『六韜』が成立したと考えられます。
三略
黄石公から張良に伝えられたとされる兵法書として『三略』があります。
しかし、『三略』は『漢書』「芸文志」に著録されていません。
そして、前述の『史記』「留侯世家」で張良が黄石公から伝えられたのは「太公兵法」であり、三国から西晋にかけての人である皇甫謐が編纂した『高士伝』でも張良が黄石公から伝授されたのは「太公兵法」のままです。
一方で、唐の魏徴・長孫無忌らが編纂した『隋書』「経籍志」には
とあり、長孫無忌が編纂した『唐律䟽議』の巻第九の「諸玄象器物・天文・圖書・䜟書・兵書・七曜暦・太一雷公式、私家不得有、違者徒二年。其緯候及論語䜟、不在禁限」という条文にたいする注に、「䟽議曰、兵書、謂太公六韜・黄石公三略之類」とあります。
このことから、初唐までに『三略』が成立していたのは確実です。
それでは、『三略』の原型はいつごとできたのでしょうか?このことを考えるヒントが次の後漢の光武帝の建武二十七年詔です。
この光武帝の詔のうち、「黄石公記曰」から「怨之帰也」は、『三略』「上略」の
とほぼ同文であり、詔の「故曰有徳之君」から「雖成必敗」は、『三略』「下略」の
とほぼ同文です。そして、詔の「黄石公記曰、『柔能制剛、弱能制彊』」に対する唐の李賢の注釈に
とあります。
以上のことから、『後漢書』が成立した南朝宋までに『黄石公記』という書物が成立し、梁のころから『黄石公三略』と呼ばれるようになり、その後書名から「黄石公」が外れ、『三略』という書名が定着したのでしょう。
参考文献:
服部泰澄「『六韜』の構造とその原型について」『金沢大学中国語学中国文学教室紀要』金沢大学人間社会学域人文学類中国語学中国文学教室、二〇〇三年。
石井真美子「『六韜』諸テキストと銀雀山漢簡の關連について」『立命館白川靜記念東洋文字文化研究所紀要』立命館大學白川靜記念東洋文字文化研究所、二〇一四年。
金城未来「銀雀山漢墓竹簡「兵之恒失」考釈」『待兼山論叢 哲学篇』大阪大学文学会、二〇一〇年。
渡邉義浩「『 記』三家註の特徴について」『RILASJOURNAL』9、二〇二一年。
阿部隆一「三略源流考附三略校勘記・擬定黄石公記佚文集」『斯道文庫論集』慶應義塾大学附属研究所斯道文庫、一九六九年。
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