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『太平記』における義経の説話

近世以前の日本には、「剣術流派の開祖が天狗から兵法(剣術)を習った」という伝承が複数ありました。しかし、そうした伝承は江戸時代の知識人によって嫌悪され、それらの伝承が捏造であることを証明しようとする言説がしばしばありました。そうした江戸時代知識人の意見が本当に妥当なものなのかを確かめるために、義経の天狗伝説を中心に取り上げ、天狗伝説の生成と拡大の過程を検討したいと思います。

義経にまつわる伝説が広まった経緯については、古典文学研究の世界で成果が積み重ねられています。そこで、それらの成果を利用しつつ、古典文学において義経がどのように描かれてきたのかを検討し、それらが義経の天狗伝および剣術流派の開祖伝説にどのように影響を与えたのかを考えてみたいと思います。

平治元年に起きた平治の乱を題材にした軍記物語である『平治物語』の巻下「牛若奥州下りの事」では、鞍馬山の奥に所在する僧正が谷に義経が夜な夜な通ったことが語られています。しかし、その語られ方は諸本により異同があります。

古態本『平治物語』の一つである学習院大学図書館蔵本には

僧正が谷にて、天狗・化の住むと云もおそろしげもなく、夜な〳〵越て、貴布禰に詣けり。

とあり、天狗や化け物が住むと言う僧正が谷に義経が通ったことが語られています。しかし、「義経が天狗から兵法を習った」とは語られておらず、また義経が僧正が谷で何をしていたのか述べられていません。

一方で、同じく古態本に分類される松本文庫蔵本・国文学研究資料館蔵本(宝玲文庫旧蔵)・彰考館文庫蔵京師本には

僧正か谷にて、天狗はけ物のなん(国文学研究資料館蔵本は「住」、彰考館文庫蔵京師本は「すむ」に作る)所へ夜な〳〵行て兵法をならひ、彼難所を(をも)夜る〳〵こえて貴布禰の社へそ参りける。

とあります。この箇所の詞章の相違は、学習院大学図書館蔵本の誤脱か、松本文庫蔵本等の後補か、判断が難しいです。仮に学習院大学図書館蔵本の誤脱だとしても、「兵法をならひ」という語句は、「天狗から兵法を習った」とも、「天狗が住む所で兵法を修練した」とも解釈することができます。

このため、古態本『平治物語』が成立した鎌倉時代中期において、義経と天狗の師弟関係は明確には語られていなかったのではないかと推測できます。
こうした義経と天狗の関係性の不明瞭さは南北朝時代から室町時代にかけて成立した『義経記』にも見られます。巻一「牛若貴船詣の事」には義経が僧正が谷に通ったことが語られており、僧正が谷は

偏へに天狗の住家となりて、

という異界として描写されています。しかし、義経が僧正が谷で行った修行とは

正面より未申にむかひて立ち給ふ。四方の草木をば平家の一類と名づけ、大木二本ありけるを一本をば清盛と名づけ、太刀を抜きて、散々に切り、ふところより毬杖の玉の様なる物をとり出し、木の枝にかけて、一つをば重盛が首と名づけ、一つをば清盛が首とて懸けられける。

というものであり、具体的な登場人物としての天狗は存在せず、天狗と義経との明確な師弟関係は成立していません。

しかし、室町時代末期から戦国時代にかけて成立した『平治物語』流布本では

僧正が谷にて、天狗と夜な〳〵兵法を習ふと云々。

と語られています。この「天狗と夜な〳〵兵法を習ふと」という句は、「義経が天狗から兵法を習った」と解釈してよいでしょう。

このように、鎌倉時代中期に成立した古態本『平治物語』、南北朝時代から室町時代頃に成立した『義経記』では義経と天狗の師弟関係が明確でないのに対して、室町時代末期から戦国時代にかけて成立した流布本『平治物語』では義経と天狗の師弟関係が明確になっており、義経の僧正が谷詣で説話の語られ方に変化が見られます。では、この変化はいつ起きたのでしょうか。その時期を絞り込むためのヒントは『太平記』にあります。

『太平記』巻二十九「桃井四条河原合戦の事」では、京を占拠する桃井直常の軍と、彼を京から追い出そうとする足利尊氏・義詮父子の軍がにらみ合う場面が描かれています。今にも合戦が始まろうとする中、桃井方から一人の武者が進み出て、次のような名乗りをしました。

かかる処に、桃井が扇一揆の中より、長八尺ばかりなる男の、髭黒に血眼なるが、(中略)ただ一騎河原面に進み出でて、高声に申しけるは、「(中略)これは、清和源氏の後胤に、秋山九郎と申す者にて候ふ。王氏を出でて遠からずと雖も、身すでに武略の家に生れて数代、ただ弓箭を執つて、名を高くせん事を存ぜし間、幼稚の昔より長年の今に至るまで、兵法を弄び嗜む事隙なし。但し、黄石公が子房に授けし所は、天下のためにして匹夫の勇にあらざれば、われ(未だ)学ばず。鞍馬の奥、僧正谷にして、愛太子、高雄の天狗どもが、九郎判官義経に授け奉りし所の兵法に於ては、某、一つもこれを残さず伝へて得たる処なり。仁木、細川、高家の御中に、われと思はん人、名乗つてこれへ御出で候へ。華やかなる打物して、見物衆の居眠り醒さん。」と喚ばはつて、その勢ひ辺りを払ひ、西頭に馬をぞひかへたる。

桃井方から進み出た武者は秋山九郎と名乗りました。彼の家は武を生業とする清和源氏であり、代々弓箭の道を事としました。そのため、秋山も幼い頃から名を上げることのみを考えて武芸を磨いてきました。ただし、黄石公が張良に授けたという兵法は、天下国家の用に当てるものであり、彼のような武者に適したものではないため学びませんでした。そのため、彼は「鞍馬の奥、僧正谷にて愛太子(愛宕)・高雄の天狗どもが、九郎判官義経に授け奉りし所の兵法」を残らず会得した、と九郎は語ります。このように、『太平記』では「義経が天狗から兵法を習った」ことが明確に語られています。

兵藤裕己氏の解説によると、『太平記』が成立した経緯については、今川了俊の『難太平記』の記述が参考になります。『難太平記』によると、『太平記』のもとになった本は、法勝寺の恵鎮上人が足利直義のもとに持参した「三十余巻」だったそうです。ただ、恵鎮はもともと南朝方の人物であり、恵鎮の「三十余巻」の記述には足利氏にとって「尾籠(おろか)」な点、「悪しきこと」「誤り」「違ひめ」が多数あり、そうした点を「切り出だ」して削除・訂正するまでは「外聞」が禁じられました。そして、足利政権周辺で断続的に改定・追加作業が行われ、三代将軍義満の時代に現存する四十巻形態が成立したと考えられます。

鎌倉時代中期に成立した古態本『平治物語』では「義経は天狗から兵法を習った」と明確には語られていないのに対して、足利義満の時代までに成立した『太平記』にはそれが明確に語られています。このことから、島津基久氏がすでに指摘しているように、「義経が天狗から兵法を学んだ」という説話が成立したのは、鎌倉時代後期から南北朝時代の間ではないかと推測できます。

参考文献
島津基久『義経伝説と文学』第一部「義経伝説」第二章「義経に関する諸伝説」第二節「牛若丸時代に属する伝説」
岡見正雄『義経記』日本古典文学大系、一九五九年、岩波書店。
栃木孝惟等校注『保元物語 平治物語 承久記』新日本古典文学体系、岩波書店、一九九二年。
兵藤裕己校注『太平記』岩波書店、二〇一五年。
小井土守敏・滝沢みか『流布本平治物語 保元物語』武蔵野書院、二〇一九年。

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