『異本義経記』

近世以前の日本には、「剣術流派の開祖が天狗から兵法(剣術)を習った」という伝承が複数ありました。しかし、そうした伝承は江戸時代の知識人によって嫌悪され、それらの伝承が捏造であることを証明しようとする言説がしばしばありました。そうした江戸時代知識人の意見が本当に妥当なものなのかを確かめるために、義経の天狗伝説を中心に取り上げ、天狗伝説の生成と拡大の過程を検討したいと思います。

義経にまつわる伝説が広まった経緯については、古典文学研究の世界で成果が積み重ねられています。そこで、それらの成果を利用しつつ、古典文学において義経がどのように描かれてきたのかを検討し、それらが義経の天狗伝および剣術流派の開祖伝説にどのように影響を与えたのかを考えてみたいと思います。

義経が鞍馬山僧正が谷で兵法を修行したことを語る「僧正が谷説話」と、義経が鬼一法眼から兵法書を盗み出す「鬼一法眼説話」は本来それぞれ独立した作品であり、別の時代、別の場所で成立したと考えられます。その後、義経にまつわる説話群が人々に広く受容されるに伴って「僧正が谷説話」と「鬼一法眼説話」も人々に広く知られるようになりました。すると、「僧正が谷説話」を主、「鬼一法眼説話」を従とする形で統合しようとする動きが生まれました。

このような状況は、江戸時代に入り大きく変化します。

『異本義経記』は、近世初期に成立しました。『義経記」の構成にならいながら、その内容は『義経記』と大きく異なっており、記録調の箇条書の文体、本文の後に挿入されたと思われる一段下げの注記の部分を持つこと、『義経記』にみられない異伝・俗伝を多く採り入れていること、などの特徴が指摘されています。『異本義経記』の内容は『知緒記』や『義経記評判』に受け継がれ、江戸時代に数多く作られた「判官もの」の初期の作品となります。『異本義経記』の成立年代は、『義経記評判』刊行以前の元禄十六年(一七〇三)以前だろうと推定されています。この『異本義経記』において「僧正が谷説話」と、「鬼一法眼説話」がどのように語られているかを検討してみます。なお以下に引用する『異本義経記』は、叡山文庫藏本を底本として翻刻した「異本 義経記〔翻刻〕」『仏教大学研究紀要』仏教大学学会、一九七三年にもとづきます。

「遮那王貴船詣」
遮那王、早足飛越なんどし給ふに、外の人よりも身軽く有りしぞ。十四歳の秋の頃より、悪僧など聚め、木太刀にて打合ひ給ふに、手利にて四五人を只一人して打勝ち給ふとにや。常に眦沙門堂へ参り給ひて、直に貴布禰へ詣うで給ふ事有り。何の頃よりか夜毎に潜と貴船へ参り給へり。或夜禅林房と同門葉、和泉律師と示し合せ、跡に付きて行きたるに、遮那王、先づ堂へ参り、其れより貴船へ詣うで給ふ。折節空掻暗り、最闇きに、人十人計りの声して、山の上かと思へば、谿の底にあり。又管絃の音聞ゆ。禅林房も和泉も魂を冷し、叢を漸々匍匐て寺に帰りしと云へり。遮那王、僧正が谿にて大天狗に兵法を習ひ給ふと寺中沙汰しあへり。或時覚日密に遮那王殿に此の事を尋ねしに、聊かも宣ふ事もなく、只貴船へ夜毎に詣すと計り答へられしとかや。

遮那王(義経)は早足や飛越などをしたが、他の人よりもとても身軽でした。十四の秋ころ、悪僧らを集めて木太刀で打ち合いますが、一人で四人を相手にして勝つことができました。遮那王は毘沙門堂と貴船神社に詣でることを常としていましたが、いつのころからか毎夜こっそりと貴船神社に詣でるようになりました。ある夜、遮那王が貴船神社に詣でるのを禅林房と和泉律師の二人がつけると、空が曇って暗くなり、十人ほどの声が山の上や谷の底から聞こえ、また管弦の音が響きました。禅林房と和泉律師は肝を冷やし、ほうほうの体で草むらからはい出て寺に帰りました。この禅林坊と和泉律師の目撃談が寺中に広まり、遮那王が僧正が谿(谷)で大天狗から兵法を習っているという噂が広まりました。ある時、覚日が遮那王にこのことの真否を尋ねますが、遮那王ははっきりとした返答ををせず、ただ貴船神社に詣でたとした述べませんでした。

『異本義経記』の義経は、生来身軽で軽業を得意とし、悪僧らを相手に打ち太刀の稽古を行いました。『義経記』の義経は昼間は仏教の修行に精進しており、武芸の稽古を行うところを他のものに見せていません。「古態本」『平治物語』では隣の坊に住む稚児を誘って出かけ、市中にたむろする若者たちを小太刀や打刀で切りつけて追いかけ回すという乱暴な様が語られており、『異本義経記』の描写は「古態本」『平治物語』の描写に近いようです。「義経(遮那王)が天狗から兵法を習った」という伝説についてはは、貴船神社に詣でる義経の後をつけた僧侶の目撃談から派生した噂としています。

「鬼一法眼・義経上洛」
都一条堀河に陰陽師鬼一法眼と云ふ者有り。希代の軍書を持つ。是醍醐帝延長元年五月、従三位三位中納大江維時、遣唐使に大宋国へ遣はされ時、龍取将軍に逢ひて伝来の軍書也。黄石公、張良に伝ふる所の兵書と云々。維時七代の後、式部大輔匡時告げに依って鞍馬へ奉納有りし秘書也。鬼一、夢想を請け、奏聞を経、下し預ると云へり。義経是を聞き給ひ、甚だ執心し、都へ上り拵へて見ばやと思ひ立ち給ふとにや。(中略)義経、都一条大蔵卿長成朝臣の方へ上着有りて、後、四条の聖門房をして、一条堀河の鬼一法眼が方へ宣ひたりしそ。
鬼一法眼、生国伊予国吉岡の者とにや。都へ上り陰陽師にて有りしそ。宇治殿の諸大夫、式部大輔盛憲が所縁によりて、頼長公法眼になし給ひて、吉岡法眼憲海と云ひたるとにや。童名鬼一丸と云ひしゆゑに、宇治殿常に鬼一法師と召さる。是に依つて世人も鬼一法眼と呼びたると云へり。

京都の一条堀河に住む陰陽師鬼一法眼は、類まれな軍書を所持していました。この軍書はもともと黄石公から張良に伝授されたものであり、醍醐天皇の延長元年、大江維時が宋国の龍取将軍から伝授されました。維時の子孫の匡時はこの軍書を鞍馬寺に奉納し、以後鞍馬寺で保管されました。鬼一法眼は、夢でお告げを受け、天皇に上奏して軍書を預かりました。義経はこれを聞いて関心を持ち、都に上りました。

鬼一法眼は伊予国吉岡の出身で、上洛して陰陽師になりました。藤原頼長の知遇を得て、吉岡法眼憲海と称しました。幼名を鬼一丸と言ったので、頼長は鬼一法師と呼び、そのため世間の人も鬼一法眼と呼ぶようになりました。
『異本義経記』における「鬼一法眼説話」は『義経記』のそれといくつかの点で異なっています。

まず、『義経記』において軍書は代々帝の宝蔵に秘蔵されたものであり、鬼一法眼は天下と称される為政者のために祈祷をした対価としてこの書を賜りました。一方で、『異本義経記』において軍書は鞍馬寺に秘蔵され、鬼一法眼は夢のお告げを受けてこの軍書を入手しました。幸若舞『未来記』では比叡山に奉納された軍書は白河の印地の大将によって学ばれました。鞍馬寺を経由する『異本義経記』の入手経路は、『未来記』と類似しており、室町時代における「鬼一法眼説話」の変容が反映されていると考えられます。

次に、『義経記』では鬼一法眼の本名や出身地について何も語られていませんが、『異本義経記』では伊予国吉岡の出身で、幼名を鬼一丸といい、吉岡法眼憲海と称したと語られています。

「伊予国吉岡」が具体的にどこを指しているのか不明です。しかし、徳治元年(一三〇六)の院宣により伊予国桑村郡には泉涌寺領吉岡庄が存在したことが確認できますので、あるいはこの地を指しているのかもしれません。

万治二年刊『天狗の内裏』には「四国讃岐の国ほうげん」とあり、江戸時代初期において鬼一法眼を四国出身とする説が唱えられていたようです。

『異本義経記』の鬼一法眼伊予国出身説の典拠になったと考えられているのが、『異本義経記』の注記に引用されている「吉岡本」なる書物です。現在「吉岡本」は所在不明であり、どのような書物なのか判然としませんが、八木直子氏の研究により「吉岡本」は伊予河野氏の歴史・由来をまとめた『予章記』を典拠にしていることが明らかになっています。また、島津久基氏によると、『知緒記』頭註に、「吉岡本、吉岡又左衛門本。津田長俊写之。津田与左衛長俊尾州光義公御家人。」とあるようです。「尾州光義公」とは二代尾張藩主徳川光友のことでしょう。『知緒記』頭註が正しいとすると、「吉岡本」は寛永~元禄以前の成立となります。

『異本義経記』に引用された「吉岡本」には鬼一法眼の経歴が次のように述べられています。

吉岡本に、源頼義朝臣伊予守たりし時、彼の国にして七所に八幡を勧請あり。同じく七仏薬師の尊像を七所に安置し給ふ。其の頃宮傔杖と云ふ者あり。実方中将の子孫なり。予州桑原寺にて出家して、傔杖律師と云ふ。頼義此の律師をして湯月の八幡の社僧にし給ふ。又頼義の四男、伊予権介親清、河野新大夫親軽の聟として、其の家督を継ぐ。然れども子のなきことを親清室家歎きて自ら予州三嶋大明神に参籠通夜ありしに、 宮内に大蛇顕はる。是三嶋大明神なり。室家更に怖れずして、彼の大蛇と密通有りて懷妊、男子を産めり。河野通清是なり。通夜して儲けたるゆゑに、通の字を家の通り字とす。又律師祈祷の丹誠を抽んず。之に依つて河野の祈りの師として、親清夫婦信心あり。其の傔仗律師四代の孫、伊予の吉岡にて出生、鬼一丸と云う者、法師になりて吉岡憲海と云ふとあり。

吉岡本によると、源頼義が伊予守だった時、伊予国に七ヶ所に八幡神を勧請し、またそれぞれに薬師仏の仏像を安置しました。その頃、平安時代中期の貴族藤原実方の子孫を称する宮傔杖というものがおり、伊予国桑原寺で出家して、傔杖律師と名乗っていました。頼義は傔杖律師を湯月の八幡の社僧に任じました。また頼義は四男の伊予権介親清を、河野新大夫親軽の聟として、河野氏の家督を継がせました。親清夫妻はなかなか子宝に恵まれず、親清妻は予州三嶋大明神に参籠しました。夢に三島大明神の化身である大蛇が現れ、親清妻は大蛇と密通して懷妊し、河野通清を生みました。また傔杖律師は心を込めて祈祷したので、河野氏の祈の師となり、親清夫妻に深く信じられました。この傔仗律師の四代の孫が吉岡憲海、すなわち鬼一法眼であると述べられています。

この「吉岡本」からの引用の典拠となっている『予章記』の記事は、河野氏と源氏との関係性の由来を述べたものですが、「吉岡本」は鬼一法眼伊予国出身説に換骨奪胎しています。

一体「吉岡本」がどのようなもので、誰が書いたのか、今のところ正確なことは分かりませんが、鬼一法眼の本名とされる「吉岡憲海」という名は、代々足利将軍家の兵法指南役を務めたと『本朝武芸小伝』に記された吉岡家の「吉岡拳法」と極めて類似しており、島津久基氏が「吉岡氏のことが詳しいから、恐らく吉岡流の剣道家が偽作又は『義経記』に添加した作であろう。」と述べているように、吉岡氏の関係者が成立に関わっている可能性が高いです。

参考文献
データベース『えひめの記憶』https://www.i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:2/54/view/7294
山本淳「通俗軍書作家馬場信意の方法:『義経勲功記』と『異本義経記』の比較をとおして」『立命館文学』、二〇一三年。
八木直子「「異本義経記」と「予章記」との関係について」『甲南女子大学大学院論集』、二〇〇六年。
山本淳「『異本義経記』の構成」『論究日本文学』、立命館大学日本文学会、一九九六年。
島津基久『義経伝説と文学』第二部「義経文学(判官物)」第二章「義経伝説の集成としての義経文学―判官物の鼻祖『義経記』」第一節「『義経記』の諸本」

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