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関東七流・京八流の伝承の実態

関東七流・京八流の伝承は日本の剣術の始まりを語るものであり、剣術の歴史を叙述する上で欠かせない要素ですが、しかし、それが本当に実際にあったことなのか、それとも架空の作り話であるのかについて十分な検討が行われていないと私は感じ、この場を借りて私の個人的見解を述べています。
以前のnoteはこちらをご覧ください。

今村嘉雄氏が『日本武道体系』第一巻「剣術(一)」(同朋舎、一九八二年)の「神道流(心当流)」の解説にて

『本朝武芸小伝』巻五に「常陸鹿島の神人、其の長たる者七人、刀術を以て業と為し今に至る、関東七流と号する者是也」とあり、『早雲記』にも「鹿島は勇士を守り給ふ御神、末代とても誰か仰がざらん。然るに鹿島(香取が正しい)の住人飯篠山城守家直、兵法の修行を伝へしより以来、世上にひろまりぬ。此人中古の開山也」とある。」とある。

と述べるように、『本朝武芸小伝』は関東七流・京八流の伝承の典拠の一つとされています。

しかし、日夏繁高は『本朝武芸小伝』を編纂するに際し多くの書物を利用しており、『本朝武芸小伝』で述べられている関東七流・京八流の伝承は、それらの書物で語られたものを日夏の価値観に基づいて整理したものであると言えます。そのため、『本朝武芸小伝』以前の関東七流・京八流の伝承の様相、それらが形成される経緯を明らかにするためには、『本朝武芸小伝』の関東七流・京八流に関連する項目に引用された書物について調べてみる必要があると考えます。

このような問題意識に基づき、前回まで数回に渡り『本朝武芸小伝』に引用された書物について検討しました。現時点ですべての書物を調べ終わったわけではありませんが、ここまでに分かったことを整理すると、関東七流・京八流の伝承が形成された経緯は概ね次のようなものではないかと思います。

まず、源義経や鬼一法眼が登場する物語が室町時代広く読まれるようになったことで、『撃剣叢談』が

判官流鞍馬流鬼一法眼京流いふ流、世上に行るれども、皆近き世の人、名を借りて流派を立し事疑ふべからず、
(『撃剣叢談』巻一「武芸原始」)

と述べるように、鞍馬流や吉岡流といった鬼一法眼を開祖とする剣術流派が京都周辺で活動するようになりました。こうした流派が京八流と呼ばれたのではないかと思います。ただし、京八流という呼び方が、自称であるのか、それとも他称であるかは不明です。

なお、こうした剣術界の動向とは別に、「吉備真備や大江維時によって中国からもたらされた兵法が鞍馬寺に伝来し、義経や鬼一法眼がこの兵法を学んだ」という伝説も同時期に生まれたと考えられます。

関東では、飯篠家直に始まる香取神道流が「香取大神より神書一巻を授けられた」と主張し、塚原卜伝に代表される鹿島新当流は「鹿島神宮大行事大鹿島命の後裔である国摩眞人が武甕槌神より神妙剣の位を授けられ、後に鹿島の太刀として継承された」と称しました。ただし、京八流が源義経・鬼一法眼の伝説を共有していたのとは異なり、香取神道流・鹿島新当流に共通する伝説は無かったと考えます。

その後、徳川家康による江戸開府がきっかけとなって政治の中心としての関東が注目されるようになりました。それに伴って、関東を地盤として活動する各剣術流派の存在が全国的に意識されるようになり、京八流に対する関東七流という呼称が形成されたのだと思います。

そして、関東七流・京八流に関する様々な言説が流布する中、毛利氏出身の小早川能久が毛利家に伝来した大江家の書、記紀神話、甲州流軍学、諸家の説を整理し、

・武をもって成り立つ国である日本
・神武天皇の七軍法の余風である関東七流
・中国の八陣法に従属する京八流

という構図を作りました。なお、能久自身は甲州流軍学を専門とする軍学者であるため、兵法の本流はあくまで軍学であり、剣術は軍学に従属するものであると認識していました。また、能久は京八流の代表として吉岡流と山本勘助、関東七流の代表として松本政信・上泉信綱を想定しています。

能久の弟子である香西成資は、能久から聞き取った内容を「倭邦陳法伝来説」にまとめ、自身の著書である『兵術文稿』に収録して刊行しました。これにより能久の説が世間に知られるようになります。

日夏繁高は『本朝武芸小伝』を編纂するに際し京八流・関東七流の伝承を取り入れました。京八流については巻六「吉岡拳法」に

或曰、吉岡者、鬼一法眼流、而京八流之末也。京八流者、鬼一門人鞍馬僧八人矣、謂之京八流也云云。
(或ひと曰く、吉岡は、鬼一法眼流にして、京八流の末なり。京八流は、鬼一が門人鞍馬僧八人あり、之を京八流と謂なりと云々。)

とあり、吉岡流が「京八流之末」であると述べ、巻六「大野将監」には

大野将監者、天正年中人也。悟刀術妙旨、号鞍馬流。今、将監鞍馬流者、是也。或曰、有小天狗鞍馬流、此判官義経之伝也。
(大野将監は、天正年中の人なり。刀術の妙旨を悟り、鞍馬流と号す。今、将監鞍馬流というは、是なり。或ひと曰く、小天狗鞍馬流というもの有り、此れ判官義経の伝なりと。)

とあり、鞍馬流が京八流に含まれると明言されていないものの、「鞍馬」という流派名から京八流に含まれると考えてよいでしょう。また小天狗鞍馬流と大野将監の鞍馬流の関係性は不明ですが、判官義経、すなわち源義経の伝であるとの言い伝えから、これも京八流に含めてよいと思われます。
関東七流については巻五「刀術」序に

常陸鹿島神人、為其長者七人、以刀術為業。至今号関東七流者、是也。中興飯篠、得天真正之術、大興起刀槍術。
(常陸鹿島神人、其の長者たる七人、刀術をもって業と為す。今に至りて関東七流と号すは、是なり。中興飯篠、天真正の術を得て、大いに刀槍の術を興起す。)

とあり、鹿島神宮の神人の中の剣術に優れた者七人がそれを生業としたと述べ、関東七流はこの七人の神人に由来すると言及しています。明記されていないものの、

常陸鹿島神人、為其長者七人、以刀術為業。至今号関東七流者、是也。

の一文は「倭邦陳法伝来説」の

所謂鹿島武甕槌神者、軍神也。其神人等、以兵法為業、其長者有七人、謂之関東七流之兵法也。

を元にしていると考えてよいでしょう。

「刀術」序では香取神道流が関東七流を継承しているかのように述べられています。しかし、巻五「飯篠山城守家直」には香取神道流が関東七流に含まれることを裏付ける資料は引用されていません。これは鹿島新当流を取り上げた巻五「塚原卜伝」においても同様です。この事実は、日夏が『本朝武芸小伝』を編纂した江戸時代中期において、香取神道流・鹿島新当流が関東七流に含まれると述べる書物が少なかったことを示していると考えられます。

また、「倭邦陳法伝来説」において関東七流は「七軍法の余風」でしたが、日夏は『本朝武芸小伝』に関東七流の伝承を取り入れるに際し、七軍法の伝承を削除しました。

さらに、「倭邦陳法伝来説」において京八流は、「中国の八陣法の従属物」という位置づけでした。しかし日夏は『本朝武芸小伝』巻一「兵法」序で

大江匡房・吉備大臣伝諸葛亮八陣・孫子九地及結営・向背於吾朝。
(大江匡房・吉備大臣諸葛亮八陣・孫子九地及び結営・向背を吾朝に伝う。)

と述べ、吉備真備・大江維時が中国から兵法をもたらしたことに言及するものの、吉備真備・大江維時が中国からもたらした兵法と鬼一法眼・源義経の伝説との繋がりを語っていません。

『本朝武芸小伝』は日本人の武術・武道関係者の最古の列伝集です。そのため後世日本の武術・武道の歴史を語る際に繰り返し参照され、それに伴って『本朝武芸小伝』で語られる関東七流・京八流の伝承が広く知られるようになりました。それと同時に、「倭邦陳法伝来説」のような『本朝武芸小伝』に先立つ書物が次第に読まれなくなったものと思われます。その結果、多くの書物で関東七流・京八流に言及しているにも関わらず、その実態が不明になってしまったのです。

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