『義経記』における義経の僧正が谷詣で

近世以前の日本には、「剣術流派の開祖が天狗から兵法(剣術)を習った」という伝承が複数ありました。しかし、そうした伝承は江戸時代の知識人によって嫌悪され、それらの伝承が捏造であることを証明しようとする言説がしばしばありました。そうした江戸時代知識人の意見が本当に妥当なものなのかを確かめるために、義経の天狗伝説を中心に取り上げ、天狗伝説の生成と拡大の過程を検討したいと思います。

義経にまつわる伝説が広まった経緯については、古典文学研究の世界で成果が積み重ねられています。そこで、それらの成果を利用しつつ、古典文学において義経がどのように描かれてきたのかを検討し、それらが義経の天狗伝および剣術流派の開祖伝説にどのように影響を与えたのかを考えてみたいと思います。

前回まで現存する歴史資料および鎌倉時代に成立した軍記物である延慶本『平家物語』と『平治物語』における義経に関する記述を検討しました。
今回から源義経とその主従を中心とする軍記物である『義経記』を取り上げます。

『平治物語』巻下に収録された「牛若奥州下りの事」のように、鎌倉時代には義経主従を主人公とする多くの説話が作られたと想定されています。そうした説話群が南北朝時代から室町時代にかけてまとめられ、源義経を中心にした軍記物『義経記』八巻が成立しました。

『義経記』と『平家物語』の内容を比較すると、『平家物語』では義経の戦場における活躍が語られているのに対し、『義経記』では『平家物語』ではあまり語られていない義経の生い立ちと没落譚が中心となっています。そして、『義経記』には内容の異なる二種類の兵法修行譚が語られています。

一つ目の修行譚は、巻一「牛若貴船詣の事」で語られる僧正が谷での武芸の稽古です。

源義朝が死んだ後、常磐御前は鞍馬寺の別当東光坊に幼少の義経を預け、義朝の菩提を弔わせるために経典を学ばせようとします。当初自身の身分を知らなかった義経は、

ひるは終日に師の御坊の御まへにて経を誦み、書まなびて、夕日西にかたぶけば、夜の更ゆくに佛の御燈の消ゆるまではともに物を読み、五更の天にもなれ共あまもよひもすぐまで、学問にこゝろをのみぞ尽しける。

『義経記』巻一「牛若鞍馬入の事」

という生活を送りました。その仏教の修業に精進するさま、そしてその見目麗しい姿形は僧侶たちから高く評価され、

かくて廿歳ばかりまでも学問し給ひ候はば、鞍馬の東光坊より後も仏法の種をつぎ、多聞の御宝にもなり給はんずる人

『義経記』巻一「牛若鞍馬入の事」

と期待を集めました。

しかし、十五歳の秋頃、かつて義朝の郎党であった「しやうもん坊」から自身が源氏の御曹司であることを知らされた義経は、一転して仏道修行を捨て去り、平氏打倒を誓いました。そして、

謀反起す程ならば、早業をせでは叶ふまじ。まづ早業を習はん。

『義経記』巻一「牛若貴船詣の事」

と思い立ち、「早業」すなわち武芸の修行を開始しました。

普段居住する坊に人目があるため、武芸の修業にふさわしくないと感じた義経は、鞍馬の奥地にある「僧正が谷」に通うことにしました。かつての「僧正が谷」は貴船明神と呼ばれ、霊験あらたかな場所として有名でしたが、この頃にはすっかり寂れてしまい、

偏へに天狗の住家となりて、夕日西にかたぶけば、物怪おめきさけぶ。されば參りよる人をも取なやます間、参籠する人もなかりけり。

『義経記』巻一「牛若貴船詣の事」

という有様でした。

義経は「別当の御護りに参らせたるしきたい(敷妙)といふ腹卷に黄金作りの太刀帯き」という身なりで夜な夜な通い、貴船明神と八幡菩薩へ

源氏を守らせ給へ。宿願まこと(に)成就あらば、玉の御宝殿を造り、千町の所領を寄進し奉らん。

『義経記』巻一「牛若貴船詣の事」

と祈誓して、次のような稽古をしました。

正面より未申にむかひて立ち給ふ。四方の草木をば平家の一類と名づけ、大木二本ありけるを一本をば清盛と名づけ、太刀を抜きて、散々に切り、ふところより毬杖の玉の様なる物をとり出し、木の枝にかけて、一つをば重盛が首と名づけ、一つをば清盛が首とて懸けられける。

『義経記』巻一「牛若貴船詣の事」

義経は坤(未申、北)の方角に向かって立ち、四方に生い茂る草木を平氏一門に見立て、その内の二本の大木を特に「清盛」と名付けると、太刀を抜いて散々に斬りかかりました。また「毬杖」という遊びに用いる玉を二個懐から取り出すと、それを枝に吊るして「重盛の首」・「清盛の首」と名付け、これらも太刀で斬る的としました。

以上が『義経記』に語られた僧正が谷における義経の兵法修行譚のあらましです。

『義経記』において、義経は自分の周囲にあるモノ(木、毬杖の玉)を対戦相手に見立て、そのモノに対して武芸の技を仕掛けるという訓練を行いました。こうした訓練方法は、覚一本系の『平家物語』巻五「奈良炎上」にも

又南都には大なる球丁(ぎつちよう)の球を作ッて、これは平相国のかうべとなづけて、「うて」「踏め」なンどぞ申ける。

と見えます。また、四方の草木を敵に見立てて斬りかかるという訓練は、現在鹿児島県を中心に伝承されている「薬丸自顕流」で今も行われている「打廻り」を彷彿とさせるものです。ひょっとすると南北朝~室町時代にもこうした訓練が実際に行われていたのかもしれません。

『義経記』における僧正が谷での兵法修行譚と、『平治物語』下巻「牛若奥州下りの事」で語られるそれを比較すると、『平治物語』古態本に見える辻斬りを行う乱暴な武士としての義経像は影を潜め、『義経記』では学問に精励する様や、周囲の目を気にして寝起きする場所での武芸の稽古を控えたことが語られています。この『義経記』での義経像は『平治物語』流布本での昼間は学問を行い夜に武芸を稽古するという描写と類似しています。もしかすると、『平治物語』流布本の描写は『義経記』の義経像から取り入れたのかもしれません。仮にそうだとすると、『平治物語』古態本成立の下限である寛元四年(一二四六)から南北朝時代の間のどこかで、辻斬りを行う乱暴な武士から学問に精励する知的な武士へと人々の義経に対するイメージが変化した可能性があります。

一方で、『義経記』で僧正が谷は天狗が住む異界として描写されていますが、物語の具体的な登場人物としての天狗は『義経記』中に存在せず、天狗と義経との明確な師弟関係は成立していません。また、僧正が谷での兵法修行譚には鬼一法眼が登場しません。これらの点は『平治物語』古態本と共通していると言えます。

参考文献
岡見正雄『義経記』日本古典文学大系、一九五九年、岩波書店。
梶原正昭・山下宏明『平家物語』岩波文庫、一九九九年、岩波書店。

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