見出し画像

善意

昔、自宅教室で、子供たちにピアノを教えていた時、ちょっと知的に遅れてると言われてた子が習いに来ていた。小学校高学年だったけど、漢字が読めなくて、言葉もなかなか理解しずらいことが多くて、ピアノもなかなか上達しなかったけど、音楽は好きなので、いつも楽しそうだった。

自宅だったので、母も時々その子と顔を合わせる時があったけど、そんな時の母のテンションが変だった。声をひっくり返して、おおげさに「あらーKちゃん、よく一人でこれたねえ~」とか、わざわざ言う。「やめなよ、普通に接してよ」と私はよく母に言った。ばかにしたりするのも困るけど、こういうのも逆に差別的だと、私は感じていた。

今思えば、これ、母の「善意」だったんだと思う。田舎の母さんの「善意」

田舎とはいえ、時々、知的に障がいのあるらしき子供のいる家庭はあった。そこのお母さんは、いつも毅然としていた印象がある。大人になってから、いろいろ大変な思いをしたんだろうなーと気づいたけど、子供の頃は、まわりの大人にならって、なんとなく遠巻きにしてた。

そう、大人であっても、障がいのある子に「どう接していいかわからない」感じだった。100年も前なら、家に閉じ込めておいたかもしれない。家にとっては「恥だ」っていうお年寄りもいた。戦後、民主主義の時代になって、そういう差別はいけないーということになったら、じゃあ~というわけで「ほめる」「感心する」みたいな、わざとらしい態度を取るようになったんだと思う。

特別支援学級もそうで、もちろん、障がいのある子に合わせたカリキュラムも必要なんだろうけど、普通のクラスで、普通の子たちと一緒に学ばせたいと願う親御さんもいる。よーく考えれば、普通と言われるクラスにだって、学習の理解度は、いろんなレベルの子がいるわけで、どこから「特別に支援」するかなんてわからない。それより、いろんな子がいる環境で、お互いに補い助け合って学ぶ方がいい。何より、わざとらしく大げさにほめるーみたいなことをしなくなるだろう。だって、何も特別なことないんだから。

街中で自立して一人暮らししている知的障がいの青年に、自治会の役員が「自分には障がいがあるので、班長にはなれない」と告知する文章を書かせて、回覧しようとした事件があった。本人の尊厳より「順番なんだから、班長を引き受ける」という「公平さ」と、できないなら、他の住人が「納得」することを優先したということだ。その記事をめぐるコメントの中に「みんなが、それを知れば、もっとその青年が暮らしやすくお手伝いできるようになると(自治会の人が)思ったのかも」という推測があった。うん、もしかすると「障がいがあるからこそ、ちゃんと義務を果たした方が、今後もこの市営団地では暮らしやすいよ」という「善意」も混じってたのかもーと、私もふと思った。まさか、そんな意地悪をして、居づらくさせるつもりじゃなかったと思いたい。

その結果、青年が自殺しちゃった。自治会の方たちは、どう思ってるんだろう。

「善意」は、こわい。

その記事に「自分がされて嫌なことはしないように」とコメントしてた人がいたけど、それもへん。だって、件の自治会の人たちは、「私は、周りの人たちが、自分の障がいをわかってくれていて、助けてもらって暮らす方がいい」と思って、やったことかもしれない。でも、それは青年にとっては、自ら死を選ぶほど苦痛だった。されて嫌かどうかは、人によってさまざま。自分を基準にしちゃいけない。された方がどういう風に感じるか、数種類のケースを想像することの方が必要だと思う。

再び、母の話。

テレビで、JRの職員さんが、車いすに乗った乗客をふたりがかりで持ち上げて、階段を上り下りする場面を観ていた母が、「なんで、人に迷惑かけてまで、出歩くんだろうねえ、家にいればいいのに」と言っていた。そんな母は、やがて糖尿病が悪化し、太っていたので足が弱り、とうとう車いす生活になった。買い物のたびに、妹が支えて車に乗せ、スーパーでまた車いすを借りて・・・という日常だった。

きっと自分が言ったことを、母は忘れていたと思う。私も「あんなこと言ってたよねえ~」と言うほど意地悪じゃない。

障がいに限ったことじゃないけれど、「知らない(無知)」というのは、時として、そのつもりがないのに残酷になったりするのだ。相手が死んじゃってから「私はそんなつもりじゃなかった」と言っても、もう遅い。

「自分はよく知らないから、もしかして、差別的な言動をしてるかもしれない」という自覚がいると思う。でも、世の中のいろんなことをすべて知ることはできない。大雑把に「人は、見た目も考え方も違っていて当たり前」という認識は、せめて持っていたいと思う。

また明日。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?