インフルエンザ
コロナで外出せず、外食せず、買い物せず、の自粛の影響で、経済の規模は小さくなってる。これじゃあ、だめだと思う人の唱える主張の中に
「毎年、何千万人もかかり、何万人も死んでいるインフルエンザに比べたら、コロナはたいしたことない」
というのがある。
これをきくたび、ちりりと違和感があって、なんだろうと考え続けていて、ふと思い当たった。
「そんなに罹患して、そんなに犠牲者の出てる流行性のウィルス性の病気を、なんで真剣に予防したり、抑え込んだり、死なないように治療したりできないんだろう?」
さきほどの論理(比べてコロナはたいしたことない)でいえば、インフルエンザは、たいしたことある病気なのだ。
インフルエンザは、毎年流行るし、まわりでもけっこう罹るし、罹っても、よほどじゃなければ治ることわかってる、だから真剣に予防しない。せいぜい予防接種受けるという他力頼み。
インフルエンザも、大流行するたびに「今回は新種のウイルス性」と言われてた。かかれば、仕事を休まなければならないのも、コロナと同じ。
今回のような取り組みこそ、インフルエンザに対して行われなければならなかったんじゃないだろうか?
実際、インフルエンザに罹れば、人前での演奏と言う仕事も、カフェとという場もアウトな私ですら、手洗いもうがいも、ちゃんとしていなかったなーと大いに反省してます。
真剣に対策していないということは、コロナの前は、「インフルエンザなんて、たいしたことない、罹れば病院に行けばいい、ちょっと職場は休める~有給で消化できるかな」くらいの気持ちの人が多かったと思う。(さすがにご高齢の方は、予防接種受けてたけど)
そこに、がつんとわけわからない新型が流行り、大騒ぎ。でもウイルス性の流行感冒だから、対策はインフルエンザもコロナも同じ。真剣にコロナを予防しようとしたら、インフルエンザも抑え込んでるらしい。
感染症の本を読むと、野生動物とウイルスが共生していた未開の奥地の自然と生命体系が破壊され、人やモノの動きがグローバル化した現代そして未来には、どんどん未知のウイルスが世界中に拡散し、免疫のない人々が犠牲になるのは不可避。今回は、東アジアの人々が自然に免疫を持ってたらしく、犠牲者も欧米に比べると少ないけど(それでも、これだけ影響が出るし騒ぎになる)次の新種のウイルスが、逆の流行のし方をしないとも限らない。
だとすると、これからは「常に、新種のウイルス性の流行病に備えて生きていく」生活様式にならざるを得ないんじゃないだろうか。
そういう時代に私たちは生きているんだと思う。
一時しのぎの対策は、よほど緊急の場合以外は意味がないし、今たちゆかなくなっている業種は、コロナ騒ぎが沈静化したとしても、規模が元に戻ることはないから、しがみつかずに新しい道を探した方がいい。
人がたくさん集まったり住んだり生活したりしなくていいように、適度に分散して暮らすのがいい。
それでなくても、超高齢社会・少子化のあとは人口減だろうから、飲食業も旅行業も観光業も、規模は小さくなる。そこで自分の店(仕事)が、続けることを必要とされているか~ということだと思う。
そして「勤める所がなければ仕事じゃない」「お金がなければ幸せになれない」「大都市に住まなくちゃ」「仕事をしないやつは、だめなやつだ」などなどの思い込みを一旦捨てる。
意識のチェンジをしないと、この試練は乗り越えられずに、悲観して追い込まれ、自ら命を絶つことにもなる。「コロナで死んでる人よりも、自殺者の方が多い」この言葉のあとには「だから、自殺しなくていいようなマインドになるにはどうすればよいか」と続かなくちゃ。
「インフルエンザに比べればたいしたことないから、騒ぐな」じゃなくて 「インフルエンザ対策は、これからのウイルスと共生する社会の予行演習だったと思って、コロナという本番に対処する」
「コロナの犠牲者より自殺者が多い、だから、感染が広がっても仕方ないから経済を回せ」じゃなくて「コロナで失業しても、死ななくても済む社会の仕組みと、意識チェンジの啓蒙をしよう」
コロナで失業し、田舎に引っ越して、なんとか生きている私が考える、これからの生き方です。
また明日。
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