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線を引いたのは、ぼくだった。

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春は、いつも夏に向かって走ってく。
もっと、ここで遊んでいたら良いのに。

「叶わない恋だね」と春に言うけど、聞く意味を持たない。なら、いっそ、応援でもしよう。もし叶えば、周りから「異常だ」って言われるかもしれなけど、それもそれでいいじゃないの。

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私は、生まれてから、たくさんの線を引いてきた。
子どもと大人、国語と算数、できるとできない。線を引くと引くほど、明確なものになっていく。そして、別々になっていく。私とあなたを離してしまうんだ。

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‘’知らない‘’から出会えない。
私は社会人になるまで、セクシャルマイノリティの方と出会ったことがないと思っていた。しかし、性教育について勉強して発信し始めると、急に色んな方と出会うようになった(そして自分も自分で新しい自分に出会った)。そうか、出会わなかったんじゃなくて、私が知らなかっただけなんだ。知らないことは、無意識に線を引いてしまい、私とあなたを離してしまうのかもしれない。

そして、今日も、私は自分の手で、線を引いてしまっていた。

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梅雨が休憩に入る。
今日は晴れだ。学校から帰ってきた子どもの第一声はいつものあれになる。「公園に行こう!!!」だ。

そこで、児童ホームの前で2列になる。しかしながら、2列で歩くのが難しく見える方がいる。Aさんと呼ぼう。そんな時は、私がAさんに優しく声をかける「さぁ、一緒に行こうか」と手を差し伸べる。そして、手を繋いで2列で歩く。

そう、2列が難しければ、配慮すればいい。そう思っていた。

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そんなある日、いつものように、2列で並んで公園に向かった。ふと、Aさんを見ると、Aさんはお友達と一緒に手を繋いで歩いていた。「あれ、2列で歩けるんだ」とびっくりした。

そうか、私が線を引いてしまったのか、と気付かされた。
私がAさんと2列で歩くことで、Aさんの2列で歩く練習の機会や友達と一緒に歩く機会やコミュニケーションの機会を、私が奪っていたんじゃないかと反省した。ときに‘’配慮‘’は、人と人とを遠ざけてしまう時があることを学んだ。

私は、児童ホームの責任者として、全部やろうとしていた。「宿題を終わらせてあげないと」「少しでも外で遊ぶ時間を確保しないと」「あれやってこれやって」…。

でも、もっとみんなに頼ろうと最近思う。「みんなが宿題しやすい環境ってどうやったら作れるんだろう?みんなどう思う?」「みんなで2列に歩いたら安全かなぁと思うんだけど、どうやったら2列にみんなが歩けるだろう。うーん」

一緒に悩もう、一緒に考えよう、そして一緒にアイデアを出そう。そして一緒に居心地のいい児童ホームを作ろう。

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困っていることや悩んでいることを溜め込むと、それは無意識に私とあなたとの間に線を引いて遠ざけてしまうのかもしれない。だから、さらけ出す。すると、みんながその線を消そうとしてくれる。

私の在り方は、イエナプランのビジョンに沿っているだろうか?
それは、いつも子どもから教えてもらっている気がする。

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