集合体としてのわたし

最近、わたしは、1人で生きてきたなどと、到底思えなくなっている。

このあいだ、楽器を演奏して喜ばれ、褒められた時には、とても、冷静だった。
「演奏が良かったのは、わたしの力ではない」と思った。

なぜなら、演奏会に参加できたのは、よっちゃんの紹介のおかげ。
よっちゃんの紹介があったのは、その前によっちゃんも交えて行った、会食でヴァイオリンを弾いたから。
ヴァイオリンを弾いたのは、会食でみんなで、歌おう、という提案からの流れで。
会食があったのは、周りに親しい友人がいたから。
以前にも集まったりして、親交を深めたから。
なんとなく、近くに住んでいるから。
趣味が合いそうだから。
その個人個人の趣味、思想は、その人が、今まで出会ってきた人やモノ、両親に大きく影響を受けている。

このように、どんどん、因果を考えていくと、
なにも、1人で決断して行動して、出来たことは、全然ないのだ、と、わかる。

それが、わかると、わたし、という存在は、
木村文子という存在は、個人では無く、個体を超えた集合体であることが、わかる。

木村文子という存在自体、集合体である、と。

木村文子は、集合体である、と。

そう考えると、
自分という存在が、どんどん、透明で曖昧なモノに思えてくる。


わたしという集合体。

わたしという集合体。

わたしという集合体。


さらに考えると、
あらゆるものが、集合体であることが、みえてくる。



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