見出し画像

昭和下町DIARY(第22話):経済成長のかげで

第二十二話  いのち誕生


 昭和三十二年十月十三日早朝、徹夫が産声をあげた。
私の初めての血を分けた肉親だ。嬉しさは何にもたとえようがない。ただただ自分が幸福で、いえ世の中すべてが幸福で薔薇色とはこういうことをいうのであろう。


退院時、五反田から山手線の満員電車に乗り込み、真っ白な産着の赤ん坊を抱いて座っても、
「みなさん、
この子は男の子で私が産んだんです。
みなさん、見てやってください。この可愛い顔を」
私は大声で叫びたかった。堂々とした自信たっぷりの声で。
隣に座る一之も私の思いが伝わるかのように、終始ニコニコ、笑顔がはちきれそうだ。左足の付け根も、出産と同時にケロッと痛みがなくなる。
脱腸ヘルニヤとかで、お腹の重みで腸が外へはみ出してしまっていたとのこと
「これでは痛かったでしょう」
逓信病院という大きな病院でも何の対策もない、治療もない、原因もわからないならどこの病院も先生も同じなのかもしれない。

私が幼児の時、泣きわめいた原因はこのお腹の壁から腸が押し出される、脱腸ヘルニヤの痛みのためだったのだ。

 安穏な至福の時が流れる。
やわらかい秋の日差しは、私たち親子の幸せをそっと包んでくれているかのよう。
普通なら実家で静養する所を、お義母さんの世話になる。
血が荒れているからと毎日おかゆと梅干だが、お乳も出てありがたかった。

一之は姓名判断の本と首っ引きで、徹夫と命名。毎日会社から飛んで帰ってくるのか、尚帰りが早い。そして一番風呂に赤ん坊を入れてくれる。
風呂が好きなのか徹夫は泣く事もなく、真っ赤な顔をしてウットリしている。
その宝物をバスタオルをもった私が風呂場へ迎えにゆく。
オムツは、浴衣を何枚もほどいて縫ってある。木綿は貴重な存在だ。あさのは模様の着物も元気にすくすく育つように、ガーゼとか綿で作られていて、肌着のガーゼは縫い目を外側にし、直接肌に当てない。
親は子供によっていろいろな事を教わる。
子育ての経験によって親になり、人間性を積んでゆき成長していくものだと、つくづく感じた。

やがて私も順調に回復しいつもの、おさんどん生活が始まる。

数日後のある日、家族と共に夕餉の食卓についたとたん隣の四畳に寝ていた徹夫が、急に激しく泣き出した。
私はサッと立って、様子を見に行こうとしたら
「清子さん行かないでいいわよ。あれは甘えで泣いているんだから。いちいち抱いていたんじゃぁ抱き癖が付いて、こっちの用ができなくて、しょうがないからね」
とお義母さん、更に
「私は五人のこどもを育てているんだ。私の言う事をきいていればいいのよ」
いくら新米の母親でもあれは甘えで泣いているのではない位分かる。
喉が張り裂けんばかりに、声をからして泣き続けている。何かを一生懸命訴えているのだ。
だが食事中の息子たちも
「そうだそうだ、母ちゃんの言う事を聞いていれば間違いないんだ」
そんな雰囲気に圧されて私はとうとう、徹夫の傍に行ってやれなかった。
従順で、おとなしくて、働き者の良い嫁。どうしてそんなもの最愛の子供のためにかなぐり捨てなかったのか。

「徹夫ごめん」
心の中で詫び私も一緒に泣き通した。
ご飯など喉に通らない夕食は、惨めでとにかく悲しかった。


毎日の家事は山のようにあった。
それなのに便所の前の暗い僅かの廊下を、きれい好きな次郎が
「ねえさんここはちゃんと磨くと黒光りするんですよ」
四方の庭は一寸目を離すと、草で一杯になる。
「ねえさん庭の草はいつも高箒で掃いていると、
生えてきませんよ」
ありがたいご指示だが、こちらもこまねずみのように、動き廻っております。

終始寝転がっている一之に、草の一本も抜いてくれれば助かると言うと、青々していて、いいじゃないかと話にならない。
暮れには大掃除、庭の竹やぶから笹の葉を切ってきて、天井のすす払い、畳みも拭いてすっかりきれいになると、隣の部屋で火鉢を囲んでいた、お義母さんと次郎が火鉢と共に移動してきて、又何やら楽しそうに話に花を咲かせている。
家族みんなで住む家なのだから、暮れの大掃除くらい何故一緒にやらないのか。家族とは何なのだろう。
そんな思いも口に出しては言えず、やがて暗くなる頃は、どこの部屋もきれいになり、夕飯の支度にとりかかる。

翌日は障子の張替え。
十六枚の障子の中には桟もぼろぼろ、その修繕から始め、立て付けの悪い障子は敷居にはめ込んで、柱にピタッと寄せたまま、障子を張ってゆくのだと一之から教えられた。
そんな大掃除中に一之の本箱の引き出しから、真っ白いギブスの右足をニヨキッと前に突き出した一之の写真を見つけ、どうしたんですかと聞くと、
「勤めの帰り、酔っ払ってひき逃げされたんだ」
と言う。
かすりの着物を着て照れくさそうに笑っている写真だが、当時、どんなに大変だったろう。
膝上からすっぽりと長靴をはいたようなギブスをして、川向こうの北千住の接骨院名倉まで、急の坂道を自転車で登るのは二十五歳の若さだから出来た事であろう。

給料は六割に減らされ、治療費にも出費が重なり、生活がゆきずまって、それで畑だった裏の土地を人に貸したんだと、一之は話す。
その裏の家は鷲津メッキという工場で、いつも電話を掛けさせてもらったり、取次ぎもしてもらったり世話になっていた。
私は今まで家とか土地とか、全く関心なく生きてきたように思う。
貸地・貸家・借地・借家の区別もつかず、いわゆる不動産という言葉も知らない無知そのものだった。

私の大事なのは家族である。家族の温かみ以外なにものをも、望んではいなかった。
その温かい家族の長であるお義母さんが、
ある日
「清子さんはこの家や土地が欲しくて、この家に嫁に来たんでしょう。そういう所だけはしっかりもんなんだから。ねえ、みんな」

息子や娘をとりいってのその言葉に、私は驚愕のあまり声も出ない。全身をしたたかに打ちのめされ、涙をのむ思いでただじっと耐えた。

姑や子姑の多い家族に憧れて嫁に来るものなど、実際には皆無に等しいかもしれない。
でも現にここに一人いる、無能で無知でばかな女がここにいるのだ。

氷ついたような心にただひとつ、徹夫の無心な笑顔が私を救ってくれる。

今まで何のために苦労してきたの。
幼い頃から四人の継母を持った私。
函館の飢餓と継母のいじめ時代、
そして五反野時代、嫉妬に狂う叔母の仕打ちにもめげず、とにかく生きてきたその労苦を今生かさないでどうするの。我慢、我慢、
我慢なら慣れっこの私ではないか。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?