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純粋な瞬間

母が座る車椅子を押す
映画の登場人物が兄に重なってしまう
ライブで、一番好きなバンドに会えた喜びで叫ぶ
美しい音楽に息を呑む
恋に落ちる瞬間を経験する

言葉になる手前の感情に触れたとき、それはとても純粋な瞬間だと思う。

そんな、記憶に残る強烈な経験でなくても、
例えば、都会から自然豊かな田舎に帰ったとき、
ビルとは違う山々の稜線や、育ったままの木々や、急峻な流れの川を遠目に見たり、
もしくは、
海の方まで少し歩いて、水面に映る夕焼けと逆光の富士山を見たり、
そんな、何の定義もなくただ綺麗だと感じるときは、やはり純粋な瞬間だと思う。

いや、純粋であって欲しいのだと思う。
あとから言葉を付けられる感情に、何も混ぜたくない。
そういう感情で満たされた時間のことを、例えば幸せと定義してみようか。

そうすれば、悲しかった出来事も、幸せの残影に思えてこないだろうか。

逆に言えば、不幸とは、
純粋な瞬間が訪れなくなることだ。

歳を取るのが嫌だとしたら、そんな不幸と向き合うことになるからだと思う。
年を食ったとき、若者の感性を羨むのは、そういう事情からではなかろうか。

妙に経験や言葉を多く知っているから、純粋な瞬間を味わう間もなく、通り過ぎてしまう。

さて、なぜそんなことをグチグチと書くのか。
また一つ年を取ってしまったから、という詰まらない落ち。