見出し画像

原付ライダー青春グラフィティ (11)

11.Zundapp(ツェンダップ)RS50 SUPERの話

 ちょっと前に、経済紙の企業の倒産を伝えるコーナーで「(株)村山モータースが倒産」という記事を読んだ。倒産したのは2018年というから、まだ2~3年前の話だ。輸入バイク販売では有名な大手ショップだっただけに、ちょっと感慨深く読んだ記憶がある。古いバイク乗りで「村山モータース」の名前を知らない人はいないだろう。渋谷にあった村山モータースと言えば、ノートンやトライアンフの輸入代理店として一世を風靡した知る人ぞ知るショップだった。

 村山モータースの話で書き出したからと言って、別にノートンやトライアンフの話を書こうというのではない。ここで書きたかったのは、ツェンダップ(Zundapp)というバイクメーカーのスクーターの話である。

 1980年代の初め頃だったと思う。バイクショップで知り合った知人から、「乗らなくなった輸入スクーターがあるから買わないか?」という話を受けた。輸入スクーターというから、てっきりベスパかピアジオあたりだと思ったら、何と「Zundapp(ツェンダップ)」という西ドイツ(東西ドイツの統一前)のバイクメーカーの50ccスクーター「RS50 SUPER」だと言う。社名はなんとなく聞いたことがあったが、詳しいことは知らないし、またスクーターを作っていたことも知らない。それで現物を見に行ったら、そこには一見ベスパのような、そしてとても50ccとは思えないほど車格のいいダブルシートの黄色いスクーターがあった。非常に興味を覚えて乗ってみたいと言ったら、特に問題がなく走るから乗って構わないとの答えで、早速試乗してみることにした。

 2スト空冷単気筒、分離給油のスクーターだが、なんと4速ミッションだと言う。フロア部分にペダル式の変速機がついており、初めての構造なので慣れるのに時間がかかったが、30分ほど乗り回していたら、どうにか乗れるようになった。ちょっと乗っただけでけっこう力強く速いバイクだということがわかる。オーナーの話だと全開にすれば70km/h以上は出るという。ただ、いろいろ話を聞いてみると、とにかく故障というか小さなトラブルが多いらしい。頻繁にキャブの調整も必要とのことだ。でも、彼が言うには「村山モータース」で買った正規輸入品なので、村山モータースへ持ち込めば修理はしてくれるとのこと。あの村山モータースがスクーターの輸入代理をしているとは知らなかった。それなら安心と思い、値段交渉が折り合ったので譲り受けることにした。

 このZundapp RS50 SUPERは、その後1年間くらい乗り回していた。オーナーの言う通り、それなりにトラブルもあったがどうにか走っていた。非常に珍しいメーカー、珍しいバイクなのでもっと注目を引くかと思ったが、走っていても停めておいてもほとんど誰も気に留めてくれない。遠目に見たらまあ「ベスパ」に見えるし、車体カバーにある「ZUNDAPP」のロゴは、メーカー名とは思われなかったらしい。せっかくダブルシートがついているのに2人乗りできないのも不満だった。

 結局、1年後ぐらいにこのバイクをどうしても譲って欲しいという人が現れて、僕が譲り受けた価格の5割増しほどの値段を提示してきたので売ってしまった。

 本稿を書くにあたってあらためて調べてみたら、このZundapp(2文字目はアルファベットのuではなくuの上に点があるウー・ウムラウト)という会社は、1917年にニュルンベルクで創業されたバイクメーカーで、Wikiによると「…第二次世界大戦後、会社は小型の機械の製作に軸足を移しスクーター、ツェンダップ・ベラを開発した。最後の大型オートバイは1951年に発売されたKS601である。排気量は598ccで2気筒エンジンだった…」とある。これもWikiによれば、ツェンダップのスクーターとモペッドは当初は売れ行きが良かったがやがて売り上げは落ちて1984年、会社は破産して廃業し、生産設備は天津のオートバイ製造会社へ売却された…らしい。1960年代から70年代にかけてこのベラを始めRシリーズなど何種かのスクーターが日本に輸入されており、現在でもそれなりに愛好者がいるらしい。オーナーが集まった団体もあるという。いや、長年バイクに乗ってきたが知らないこともあるものだ…と、つくづく思った。

 本稿では原付バイクの話を散々書いてたきたが、原付と言えば多くの人がまず思い浮かべるであろう「スクーター」の話はほとんど出てこない。僕が基本的にスクーター嫌いだからだ。まずもってマニュアル操作の変速機のないバイクは好きではない(ちなみに「アメリカン」というタイプのバイクも嫌いだ)。そんな僕が過去に自分で購入した唯一の国産スクーターは、1981年に発売されたヤマハ・ベルーガ(Beluga)80である。2スト80ccにしては非力で遅かったこのバイクは、数年間所有していた。バイクで大きな事故をやって入院し、退院した後のリハビリに通うのに、このベルーガ80に乗っていた。まだ松葉杖無しで歩けない頃、自宅のある練馬から赤羽橋の済生会中央病院まで、松葉杖を積み込んで毎日のように乗っていた。足元のフロアがフラットで広く、ホームセンターなどで大きな買い物をして持って帰るのには便利なバイクだった。

 「自分がほとんど乗らなかった」こと以外の、本稿でスクーターの話をあまり書かなかった大きな理由のひとつに、70年代にはスクーターというジャンルのバイク自体があまり存在しなかったという事実がある。1960年代以前には富士重工のラビットやホンダのジュノオなどの比較的大型のスクーターが流行った時代があったが、70年代には姿を消していた。手軽なファミリーバイクとしては、最初に1976年にホンダが発売したロードパルがヒットし、それに対抗してヤマハが発売したパッソル(1977年)、パッソーラ(1988年)が、新時代のステップスルータイプのスクーターの嚆矢となった。現代に通じるステップスルースクーターとしては、1980年発売されたホンダのタクトが最初の大ヒット商品であろう。いずれにしても、70年代から80年代初め頃に盛り上がった原付バイク文化の中で、スクーターの存在は小さなものだった。そして僕自身も、80年代以降のバイクライフも含めて、ファミリータイプのスクーターにはほとんど乗ることが無かった。

 これはスクーターではないが、一時期ダイハツ・ソレックス(SOLEX)というモペットに乗っていたことがある。ソレックスは、フランスの「シクロ」である「ソレックス3800」を、ダイハツが日本でノックダウン生産して販売していたものだ。小さな2サイクルエンジンでゴムローラで挟んだ前輪を駆動する…というもので、自転車と同じようにペダルで漕ぐこともできた。0.4馬力のエンジンで自動遠心クラッチ、最高速度20km/hとの触れ込みだったが、体感ではそんなスピードが出なかったような気がする。ちょっとした坂道でもエンジンだけでは登らず、ペダルをこぐ必要があった。当時住んでいた坂道の多い練馬の豊島園周辺では、あまり役に立たない代物だった。カタログ上の最高速度は18km/hであったため、保安基準の特例として速度計や方向指示器、尾灯、制動灯などは装備されていなかったが、乗るには一応原付免許を必要とした。

 バイクメーカーでもないダイハツが何故モペットなどを売り出したのか、今となってはよくわからない。ホンダの例の「ラッタッタ」(ソフィア・ローレンが出ていたCM)、あのロードパルがヒットしたから対抗で売り出したのかと思ったが、ダイハツ工業がソレックスの販売を始めたのは1974年からだ。ロードパルの発売は1976年で、ヤマハのパッソルも1977年発売だから、それらが発売されるよりも前から売っていたことになる。不思議な話だ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?