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原付ライダー青春グラフィティ (6)

6.50ccスーパースポーツの系譜

 1960年代後半から1980年代初頭にかけての原付一種50cc分野では、個性的なバイク、そして高性能スポーツ車が大量にラインアップされていた。ここでは自分が直接乗る機会があったマシンの話を中心に、1960年代後半から70年代末頃までの2ストスポーツ車、特にロードスポーツ車の歴史を見てみよう。

 1962年、ロードレース世界選手権に初めて50ccクラスが誕生したが、その50ccクラスでは60年代を通して2スト車のスズキと4スト車のホンダが熾烈な争いを繰り広げた。ホンダは、スズキの2スト車に対抗するため、2気筒DOHC4バルブ、単気筒でもDOHC4バルブという精緻で複雑な4ストエンジンを投入したが、あまりに高価で整備性が悪いがゆえに、そのまま安価な市販車に反映することができなかった(当時市販された「CR110カブレーシング」は17万円)。一方でスズキに代表される2スト車は、安価な市販車への技術のフィードバックが容易であった。結果として、1960年代後半から70年代にかけての小排気量市販車、特に2スト50cc原付車は、「パワーを引き出す」「速く走る」ために、レースで培った最高レベルの技術が詰め込まれた。2スト車のメーカーは、様々な高度なテクノロジーを詰め込んだ「小さいけれど速いバイク」を競って市場に投入したのだ。この時代に発売された50ccスーパースポーツ車の主役となったのは、空冷2スト単気筒のバイクである。

 エンジン性能と最高速度規制以前という点から見て、原付一種50ccスポーツバイクの頂点に位置するのは、1980年代初頭に発売されたヤマハRZ50、スズキRG50、ホンダMBX50、カワサキAR50の4車種だろう。全て2スト車だ。これら4車種は最高出力が7.2馬力で並び、以後7.2馬力を超える最高出力の50cc車が市販されることはなかった(1989年以降はこの7.2馬力が自主規制値となっている)。

 むろん、80年代はその後も高性能50ccロードスポーツ車の開発は続き、1987年に発売されたホンダNSR50など今に残る数々の名車が生まれた。ブレーキやサスペンション、電装系などの進化も続いた。しかし1983年以降は50cc原付の最高速度は60km/hに抑えられ、高性能車のすべてに速度リミッターが搭載される。むろん、法的な問題を無視すればリミッターを外すことは可能だったが、それでも1984~5年以降に市販された50ccスポーツバイクの多くがエンジンの出力を落としたりキャブレターを小型化したり、ミッションを6速から5速に落としたり、次/2次減速比を変更したりと、意図的な性能ダウンを行った。

 つまり、7.2馬力のエンジンに加えて、水冷化、6速ミッションの搭載、高性能ディスクブレーキ、サスペンションの高性能化など、現代のバイクにつながる一通りの装備を備えた高性能50ccロードスポーツバイクは、1982年にひとつの頂点、完成形に到達したと言える。

 この頂点に至るまでの60年代後半から70年代の2スト50ccスポーツ車開発と市場拡大をけん引したのは、何といってもスズキとヤマハの2社だ。ホンダは2スト参入時期が遅れるし、カワサキは基本的に原付一種の市販にはあまり興味を示さなかった。

 この60年代後半から70年代にかけての2スト小排気量車の開発競争を担ったスズキとヤマハは、言ってみれば「SY戦争(僕が勝手に名付けた)」を繰り広げたと言ってもよい。

 この時代の市販原付スポーツ車高性能化の背景には、前述したようにロードレース世界選手権50ccクラスでの日本車の活躍があった。50ccクラスは、1962年から1983年の22シーズンにわたって開催された最少排気量クラスで、4スト、2ストの排気量50cc以下のマシンで争われた。この50ccクラスでは、1962年の開催初年から日本メーカーが圧倒的な強さを見せた。特にスズキは60年代後半まで2スト50cc車で勝利を重ね、日本の小排気量2スト車の完成度を世界に見せつけた。

 まずは、そのスズキから見ていこう。スズキの50cc市販スポーツ車の原点となる空冷2サイクル単気筒車で印象に残っているのは、1967年に販売されたKS50だ。KS50は、僕がバイクに乗り始めた1972年頃にはまだけっこう多くの中古車が出回っていた。同じ1967年に発売されて僕が人生で初めて購入した中古バイクである実用車のK50と全く同じエンジンで、4.5馬力、4段ロータリーミッションのバイクだ。正確には、僕が購入したのは1969年にモデルチェンジした後のK50Gである。実用車らしく3段ロータリー式のミッションだった。そのK50に乗っていたから、ベースとなったKS50のエンジンの優秀さはよく知っている。K50は50cc車としてはパワー・トルクともに申し分なく、故障が少なくて整備性もよかった。日帰りツーリングで長時間走っても熱ダレを起こすことなく、初心者ライダーには乗りやすくてよく走る優れた原付バイクだった。

 KS50の後、1968年に登場したのがAS50。本格的なスポーツ・スクランブラーで、リターン式5段ミッション、6.0PS/9,000rpmの高回転高出力エンジンを搭載していた。カタログ表記によれば、最高速度95km/h、0-200m加速13.15秒と50ccクラスでは当時最高の性能を誇った。「当時」という枕詞をつけなくても、その後70年代後半に相次いで登場した50ccスポーツ車と比較しても遜色のないエンジンスペックであり、高性能50ccスポーツ車の原点とも言えるバイクだと思う。それにしても、60年代のバイクの広告やカタログには「最高速」「加速」の数値が誇らしげに明記されていたのだから、今となっては隔世の感がある。当時は「速さ」こそが、高性能の証だった。ちなみに、60年代後半から70年代にかけての50ccロードスポーツ車のカタログスペックは、どのバイクも「最高速度95km/h」で横並びとなっていたのが面白い。

 そしてAS50の後継車は1970年に発売されたAC50。2スト6馬力のエンジンをプレスバックボーンフレームに搭載、エンジンの基本性能はAS50と同等だが、スタイルが大幅に洗練された。「スクランブラー」を名乗るだけあって、モトクロスレースに参加するための多彩なキットパーツが用意されていた。ちょうどこの時代に、モトクロスブームが起こっていたのだ。

 AC50に続くのが1973年に発売されたGA50。補強用ダウンチューブを追加したプレスバックボーンフレームに、2スト・ロータリーバルブのエンジンを搭載した50ccフルサイズスポーツ車だ。6ps/9000rpmのエンジンを搭載し、車重は82kg、前後17インチタイヤをはいていた。中・低速トルクも重視したセッティングになっており、オンン・オフを問わない走りやすさが高い評価を得た。このGA50が1977年に発売されたRG50へと進化していく。

 RG50はスズキ独自の「パワーリードバルブ方式」の空冷2サイクルエンジンを搭載し、最大出力 6.3ps/8500rpm 最大トルク 0.53kgm/8000rpmを発揮した。スポークホイール仕様でフロントには機械式ディスクブレーキを採用したカフェレーサータイプのロードスポーツ車で、ヤマハRD50、4ストのホンダCB50-JX1と並んで同時期の50ccロードスポーツを代表する存在となった。

 ヤマハは、世界GPの125ccクラス、250ccクラスで2スト車で勝利を重ねていた。そのヤマハの50ccスポーツモデルの原型となる最初のバイクは、1964年に登場した50YF1だ。2スト・ロータリーバルブのエンジンを搭載、サスペンションはフロントにナイトハルト式、リアがスイングアームにツインショック。翌1965年には、フロントにテレスコピックフォークを採用し、分離給油のヤマハオートルーブを装着したYF-1Dとなった。

 次いで1967年にヤマハ初の50ccスポーツ車として登場したのが、ヤマハスポーツ50F5-Sだった。スズキKS50のライバル車だ。2スト・ロータリーバルブのエンジンは5馬力を発揮、ロータリー式4速ミッション、テレスコピックフォーク、アップマウントされたマフラーを装備した。その50F5-Sのバリエーションモデルとして1968年に発売されたのが、ヤマハトレール50F5-Cだ。

 続いてヤマハからは、50ccクラス最高のスーパースポーツを名打って、1969年にFS1が発売された。空冷2スト単気筒ロータリーバルブのエンジンは6.0ps/9000rpm、5段ミッションを介して、最高速95km/hというカタログスペックで登場した。馬力も最高速も同じ、スズキAS50のライバル車である。

 そしてこのFS1こそ、1974年頃に僕がK50の次に中古で購入したバイクである。また、初めて5段リターン式の変速機を体験したスポーツバイクでもある。5速ミッションを操ってスポーツ走行することの楽しさを教えてくれたバイクだった。当時、本当は出たばかりの後継車のFX50が欲しかったのだが、貧乏で予算が折り合わなかったので中古のFS1を買ったのだ。このFS1の6馬力のエンジンは非常によく回り、高速も伸びるもので、カタログ通りの95km/hはともかく実際にメーター読みで90km/hは軽く出て、ツーリング時に走る郊外の国道の速い流れにも十分に乗ることができた。加速も、それまでに乗っていたK50より格段によかった。何より、FS1はタンクの形、シートの形状、一文字ハンドル、アップマフラーなど、今思い出しても抜群にカッコよかった。道端に停めたFS1をうっとりと眺めたものだ。このFS1に乗って、毎週末のように往復100~150kmの日帰りツーリングに出かけたのは懐かしい思い出だ。

 そして1972年にFX50が登場する。FS1からフルチェンジ。ダブルクレードルフレームに新開発のピストンリードバルブエンジンを組み合わせ、最高出力6.3馬力を誇る。直線的なタンク形状は、後継車のRD50とそっくりだったが、それもそのはずで1974年に発売されたRD50は、FX50の輸出仕様車をベースにしたものだった。

 ヤマハの2スト車の中でも長く販売された名車とも言えるRD50は、1974年にFX50のフロントをディスクブレーキに変更し、FX50の欧州市場での名称であるRD50の名称で発売された。これもまた当時同居していた彼女のために中古車で購入した思い出深いバイクである。エンジンの基本性能はFX50と同等だが、細かい改良が加えられた。買ったのは旧タイプだったが、このRD50は1974年に前輪ディスクブレーキ化、77年にヘッドライトの光量アップ、80年にCDI点火を採用するなど進化を続け、長期間に渡って販売された。GT50(ミニトレ)と並んでヤマハの50cc車を代表するバイクとなった。

 1970年代も終わりになって、やっとホンダが2スト50cc市場に参入してくる。それが1979年に発売されたMB50だ。MB50はホンダとして初めての2スト50ccロードスポーツモデルだった。

 ホンダの50ccスポーツ車は1971年から4ストのCB50系を市場に投入しており、1973年にCB50JXを1976年にCB50JX-Iへと進化していた。CB50JX-Iは6.3ps/10500rpmと最高出力では2スト車に並び、ショートストロークで、ピストン、カムシャフト、バルブ・スプリングなども高速回転向きに設計され、5速ミッションを搭載していた。しかし、同じ馬力の2スト車には明らかに加速で劣り、戦闘力の低さは否めなかった。

 ホンダが満を持して投入した2スト車のMB50は、最高出力7.0psで5段リターンミッション、タコメーター、フロントに油圧式ディスクブレーキを装備する意欲的なバイクだった。前後18インチホイールに大柄なバックボーンフレームの斬新なデザインも話題を呼び、ライバルとなるスズキ、ヤマハの2スト車に一気に追いついた。翌80年にはハンドルがセミアップタイプのMB-5を発売して、これも人気となった。

 このホンダの7馬力の2スト車MB50、MB-5の発売がきっかけとなり、翌年の1980年代以降はライバル車となるスズキRG50E、カワサキ初の原付車AR50、ヤマハRZ50など、次々に最高出力7.2psのフルサイズ50ccモデルが発売され、2スト50ccスポーツモデルの開発競争が激化していった。一方で1983年に原付の最高速が時速60km/hに規制されたので、リミッターを解除しない限り7.2psの動力性能をフルに楽しむことができなくなった。だから規制前の1981年に発売された7.2psフルスペック車であるスズキRG50E、カワサキAR50、ヤマハRZ50、そしてホンダMBX50は、先に書いたように、いずれも50cc高性能スポーツ車の最後の輝きとなった。

 さて、本章の最後に4スト50cc車の話、つまりホンダの話を少し書いておこう。先に「ホンダは、スズキの2スト車に対抗するため、2気筒DOHC4バルブ、単気筒でもDOHC4バルブの精緻で複雑な4ストエンジンを投入したが、あまりに高価で整備性が悪いがゆえに、そのまま安価な市販車に反映することができなかった…」と書いたが、だからと言ってホンダが50cc市販車分野での高性能ロードスポーツの開発・販売をあきらめていたわけではない。高価な市販レーサー「CR110カブレーシング」の後継モデルとして1967年に発売された4スト50cc車、ベンリイSS50はOHCマシンながらかなり尖った性能を持っていた。

 僕がバイクに乗り始め、スズキK50G、ヤマハFS1と乗り継いでいた頃、ホンダの50ccロードスポーツと言えば、1971年に発売された4スト単気筒のベンリイCB50だった。タコメーターを装備した豪華な雰囲気の原付だった記憶がある。カタログでは最高速95km/hなどとうたっていたが、2スト車と比べて加速は鈍く、個人的には特に魅力のないバイクだった。しかし、このCB50の前にホンダが発売していたSS50は、実に興味深いバイクだ。

 SS50は、最高出力6.0ps/1万1000rpm、最高速度95km/h、5速リターン式ミッションなど、カタログ値では同時期の2スト車と遜色のない性能を持っていたが、興味深いのはそうしたカタログスペックだけではない。SS50には高圧縮型ピストンやハイカムシャフトなど、当時のホンダの少数生産のレース用パーツとして知られた「Y部品」が随所に組み込まれている。SS50は、同じくレース用パーツ「Y部品」を多用した1965年発売のCS50とともに、60年代のホンダが性能面で優位な2スト勢にいかに食い下がろうとしたかを物語るマシンである。

 結局その後のホンダは、コストの問題などから平凡な4スト車であるベンリイCB50へと移行し、1979年に2スト車のMB50を発売するに至る。

 本章の最後に、ロードレース世界選手権の小排気量クラスにおけるスズキとホンダの争い、そして極小シリンダーエンジンの開発の歴史について補足しておこう。

 初めて50ccクラスが設けられた1962年の世界GPで、125、250、350ccの3クラスを制覇したのはホンダだ。しかし、50ccクラスは2スト車のスズキがメーカーチャンピオンとなった。翌1963年には一時ホンダがワークス活動を縮小し、50cc、125ccの両クラスでスズキが2スト車でメーカーチャンピオンを獲得した。その1963年の12月、世界選手権ロードレースの最終第12戦として初の日本GPが鈴鹿サーキットで開催された(50、125、250ccの3クラス)。この年、50cc、125ccは既にスズキがチャンピオンを決めていたが、このレースでホンダがシーズン途中から開発していた50ccと125ccの多気筒マシンを投入して、両クラスの王者スズキに挑んだ。この日本GPの50ccで初登場・初優勝したのはホンダの50cc 2気筒DOHC4バルブの「RC113」だった。そして125ccクラスにも初の4気筒マシン「RC146」を投入したが、こちらは2スト車のスズキが勝者となった。

 以降の50ccクラスは、1964年がスズキ、1965年1966年がホンダ、1967年、1968年がスズキがそれぞれメーカーチャンピオンとなるなど、2スト車のスズキと4スト車のホンダの争いが続いた。

 先に「極小シリンダー」について書いたので、余計な話だが125ccクラスについても書いておく。1964年、ホンダは4気筒のRC146で125ccクラスのメーカータイトルを獲得。そして翌1965年は、世界初の5気筒125ccロードレーサー「RC148」を投入したが、2ストのスズキにタイトルを奪われた。この「RC148」のエンジンは、空冷4スト125ccで並列5気筒。1気筒あたり25cc。DOHC4バルブで最高出力は34PS以上/20500rpm、最大トルクは1.22kgm/19300rpmと超高回転型のエンジンである。

 スズキも2スト50cc車で極小シリンダーの2気筒エンジンを開発していた。64年の世界GP50ccクラスでは単気筒車でホンダを破ったが、65年に実戦に投入した2スト2気筒の「RK65(16馬力/16,500rpm)」はホンダ車に負けてしまう。続く2気筒マシン「RK66」は1966年の日本GPで優勝するが、同年のメーカーチャンピオンもホンダであった。なお、この時代は倒産直前のトーハツも50ccクラスで走っている。後に50ccは単気筒、125ccは2気筒以下にレギュレーションが変更され、極小シリンダーを搭載したレーサーの開発競争が終了した経緯がある。

 ホンダは50ccクラスで4スト単気筒ながらDOHC 4バルブの「CR110カブレーシング」を開発、保安部品を付けた5速ミッションの市販車を販売し、8速ミッションのレース仕様車を国内外のレースに投入した。

 しかし、1960年代の世界ロードレース選手権の戦績を見る限り、50ccクラスでは概ね2スト単気筒エンジンが最も完成度が高くて速いという結果が出ていた。そして冒頭で書いたように、その2ストレーサーに投入された技術は、容易に市販車にフィードバックすることが可能だった。一方で4ストは50ccで多気筒もしくは、単気筒でもDOHC4バルブという極めて高コストで整備性が悪い精密機械のようなエンジンを搭載せざるを得ず、価格と整備性が重視される市販車へのフィードバックは事実上不可能だった。これが1960年代後半から1970年代にかけての50cc市販車の搭載エンジンの動向を決めた。この時代にスズキやヤマハ(ヤマハは世界GPでは125cc、250ccクラスで2スト車で結果を出していた)が市場に投入した原付50ccの2ストスポーツバイクは、レースで培った実績と技術が盛り込まれた高性能車だったが、ホンダは2スト車に対して絶対性能が劣ることを承知で市販車には4スト単気筒でDOHCではなくOHCエンジンを採用せざるを得なかったわけだ。

 余談だが、ホンダは世界GP小排気量クラスで採用した多気筒、DOHC、4バルブエンジンの技術を60年代後半以降の50cc車には投入できなかったが、同時期によりコストの吸収がしやすい大排気量車に投入した。それがCB350four、CB400four、CB500four、CB750fourと続く、高性能大排気量マルチの市販車群の成功につながる。


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