絵に描く人体の話

はじめに――「薄筋をどう描くか」問題

 先日、漫画家の知人さんから「エロ絵でよく描かれる薄筋について、どう描くのが良いのか」みたいな相談を持ちかけられた。 自分なりの意見を述べたのだが、ここでは、その時に言い切れなかったことや、思い出したことなどを含めて、補完した内容を書き留めておきたい。

 まずは、「薄筋」について知人さんに述べたことを書いておこう。 これは、恥骨結合との関わりをどう描くか、という話になる。
 すこし面倒な話だが……胴体における恥骨結合の位置は、個人差がけっこうある。 女性器が「上つき」だとか「下つき」だとか、あるいは「ドテ高」だとか、股間の形状に個人差があることは、エロ絵を描く人達にはよく知られているであろう。 つまり恥骨結合の位置や薄筋の付き方、見え方は、人によりまちまちなのだ。

 顔つきや体つきに個人差があるということは、筋肉や骨の「形」に個体差があるということにほかならない。 したがって薄筋の付き方や見え方も、とうぜん個人差がある。 だから、絵を描く人は、何を参考にしたかによって、違う形の薄筋を描く。 そのような絵をたくさん見た結果、「薄筋はどう描けばよいのか」という悩みが生まれる。
 これを問題だとするならば、この問題の解決法を、私は知らない。 単純に、「その人物の薄筋は、その人物の体の形によって決まるものとして描く」だけである。

 人体のほかの部位についても同様である。 頭頂の形、耳の形と位置、目の位置と形、鼻の位置と形、口の位置と形、顎の形、首の形と長さ、腋を形成する腱、手と指の形、胸郭の形、乳頭の位置、腹筋の形、肛門の位置、膝の形、足の形……すべての部位に、同じこと――それらはすべて人によって「形」が違う――が言える。

肉体の「定まった構造」について

 ヒトに限らず、生物(植物や動物や細菌など)の肉体には「定まった構造」がある。 この構造を見ることによって、われわれはこの生物とあの生物が違うだとか同じだとかを判断しているし、幼体と成体と老体、あるいは両性を見分ける手がかりにしている。

 人物やキャラクターの絵を描き続けていると、そのうち、「解剖学的に正しい人体」というものが気になりはじめる。 全身の骨の名前を憶えたり、筋肉の名前を学んで描いてみたりするのは、絵描きの「あるある」だ。 そのような考えと行動は「踏むべきひとつの段階」なのだが、その先には落とし穴がある。 なぜなら、人体には「正しい」と言える「形」など無いからである。

 人体(や、生物の肉体)に見られる「正しさ」は、それぞれの部位の「関係」に見られるものだ。 薄筋は恥骨結合とつながっている、という「正しさ」はある。 これらの「正しさ」が組み合わさったものが、肉体の「定まった構造」となる。

 しかし、恥骨結合の形に正しいと言えるものは無いし、薄筋の太さや長さにも正しいと言えるものは無いのだ。 もし、或る絵描きが、複数の解剖学の書籍をまじめに読んだならば、それぞれに載っている骨や筋肉の形が少しずつ違うことに気付くだろう。 そして実際の骨や筋肉も、そうなのだ。

 「それぞれの部位が正しい関係でつながっている」という「定まった構造」――頭は首で胴とつながり、腕は肩で胴とつながり、脚は股で胴とつながる……このような「つながり」さえ正しく描けば、そこに「人体と認識できる絵」が描き出される。 われわれが「棒人間」を人間だと認識できるのは、棒人間に見られる「定まった構造」が、人体と共通していて、かつ、ネコやクジラやゾウとは異なるからだ。

「正しい形」が無くても「正しく描ける」

 繰り返すが、骨や筋肉に「正しい形」というものは無い。 骨の「正しい」個数とそれぞれの名前を憶えたとしても、幼児が大人になれば骨は個数が増えてしまうし、老人になれば今度は減っていく。 骨だけでなく、肉体のすべては年齢によって形が変わるし、性差も個人差もある。
 分かりやすい例を出すと、どう考えても、ジャイアント馬場と、私の骨とを比べたら、どれひとつとして同じ形はしていないはずだ。 ではどちらの骨の形が正しいのか、と問うてもほとんど意味が無い。 しかしどちらも、鎖骨と肩甲骨はつながり、恥骨結合と薄筋はつながっている。 「定まった構造」は共通している。 だから、ジャイアント馬場も、私も、人体を持った人間として認識されている。

 絵を描くにあたっては、部位の形の正しさを求めるよりも、幼児っぽい幼児を描けたり、老人っぽい老人を描けたり、キャラクターごとの個性を描き分けられたりするほうが、益が多い。
 部位の形に正しさは無い、部位の関係に正しさがある――それをきちんと分かっていれば、棒人間に個性を出すこともできるし、単純なキャラクターでも、リアルなキャラクターでも、体を「正しく動かせる」。 単純なキャラクターは、往々にして肘や膝が「折れ曲がる」のではなく「曲がる」ように描かれるが、そうであっても、上腕と前腕のつながりや、腿と脛のつながりさえ正しく描けば、そのキャラクターのアクションを「正しく描く」ことができる。

 したがって、キャラクターを描き分けるために、骨や筋肉の形なんて変えても構わないし、むしろそうするべきだ、とすら言える。 骨も筋肉も、その「形」には個人差があり、正しい「形」など無いからである。
 キャラAは腕が長い、キャラBは指が長い、キャラCは頭が長い……それは骨の形からして、それぞれ違うことを意味する。 ケンシロウのび太は、2人とも人間だが、骨と筋肉の形はかなり違うものとして描かれているし、この2人のアクションは、「それぞれの『定まった構造』」に従って描かれるはずである。

「正しい形」をきわめても益は少ない

 正しい「形」という捉え方にこだわりすぎると――たとえ全裸にして全身を剃毛しても、違う人物は違って見えるはずだが――、キャラの描き分けは、服装と記号(髪型、髪色、刺青など)でしかできなくなってしまう。 これは絵描きとしてはあまり得では無い。 エロ絵を描くとき、すべてのキャラが同じ形の薄筋を持っていても構わないかもしれないが、すこし不自然だ。 たとえ一卵性多胎であっても、クローンであっても、生育歴やクセなどによって肉体の形は違ってくるのだから。

 SF的な要素を作品に持ち込んで、「この2人はまったく同じ形の肉体を持っていて、それは同じ環境で育てた、同じ遺伝子と同じ性格の2人だから」という設定描写はもちろん「有り」だが、絵の作り方、見せ方としては特殊なケースと言える。

おわりに――形は好きに描けばよい

 もし「正しい形」があるのだとすれば、描く人の好みの「形」がそれであろう。 「この形の薄筋がエロくて良い」と思うなら、その人の絵としてはそれが「正しい」。 「解剖学的に間違っている」と言われても、気にする必要は無い。 描き手が直したいと思えば直せばよい。
 世に溢れているエロ絵のなかに、解剖学的に正しい鼻や歯や爪や眼なんて見たことが無いし、それで困るということも無いのだ。

(了)

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