アカデミア炎上あるある

Twitterをやっていると、アカデミアの人々が頻繁に同じような話題で炎上しているのを見かける。炎上したくないのであまり人が見ていないところに書いておくが、これもTwitterで誰かが拾い上げると炎上してしまうかも。実際突然noteが炎上するのもよく見てきた。そうなったら悲しいね。こわいなあ。


この記事は何ヶ月か書いては下書きに入れ、書いては下書きに入れを繰り返していた。なぜこんな現実的で夢のないことをここに書こうと思ったのか、最初の動機は覚えていないが、最近、なんとなく漠然とした未来のことを考えていて、なんとなく自分のいる場所がもっと居心地の良い場所になってほしいと、そうおぼろげに思い続けている。制度という社会的な問題と、個人の人生が重なり合って複雑な音がしている。アカデミアを去る/ろうとする知り合いもたくさんいる。私は(特に博士号取得者に)そういう人生の多様性が許容されていくことはとても良いことだと思っている。しかしアカデミアに残ろうとする一人の人としてなんと言葉をかけてよいかわからないのだ。最近よく「学校の卒業式で抱く寂しさと同じだ」という比喩を使っている。自分と違う道を行く同世代に、応援したい気持ちと、この日々を終わらせないでという気持ちが交錯して、結局あたりさわりなく「元気でね」とか言ってしまうあの時間と同じなのだ。社会制度としては、是非みんなアカデミアから出て行って活躍してほしいと思う。でも、ひととひとの付き合いとしてもし許されるなら、行かないで、と、一度くらいは言わせてほしい。特に何の役にも立たないかもしれない基礎研究を頑張っている同世代に、そんな社会の役に立つところに行かないで、と。それは寂しさ以外の何者でもないのだ。私に引き止める力はない。せめて、何度も何度も振り向きながら消極的に出ていく人を引き止める制度があったらいいなと思う。そんなことを思って書いている。私にも、社会と個人の区別はいまいちきちんとついていない。私たちは制度に生かされているのだ。

Twitterには文句と喧嘩しかない、と思うことがある。それを建設的にするにはどうすれば良いのだろうと思うのだが、残念ながらあまり有効な手段が思いついていない。

この記事を書こうと思ったきっかけは女性限定公募にあったと思う。そもそも、アカデミアには女性の研究者が少ないのだ。それを限定で公募しても絶対数が増えるわけではない。その大学に女性が増えるだけである。しかし、理系の研究者には本当に男性が多い。学会などで少し(かなり)気持ち悪く居心地が悪いと感じるが、私も数字の上でそちらに加担している側なのでなんともいえない悲しい自己嫌悪に陥る。自分が存在していることは、それ自体が女性研究者にとって居心地の悪い場所を作ることに加担しているのだ、と本当に常々感じている。結局のところ、自分の思想の根底には男ばかりの空間への居心地の悪さと、その空間を構成する一員であることへのある種の後ろめたさしかないように感じる。しかしそういった思想を表明するとそれはそれでボコボコに叩かれそうなのでめったにそこまで明確な意思表示はしない(できない)。

女性研究者が比較的多い学部があれば、女子学生はずいぶんと進学しやすくなるし、そういった場所には女性の学生さんが継続的に入学してくるはずである。その点、ある一つの組織だけに注目すれば、男性を追い出して女性を増やした方が良いのである。もし、何世代もの時間をかけてゆっくりと変化させていくということをここにも許容するのならば、女性限定公募を行った研究科で学位を取得した女性の研究者が、いろいろなところでその後も研究を続けてもられば、100年後くらいにはアカデミア全体でもだいぶ状況はまともになっているかもしれない、と思う。

ただ、「女性研究者が比較的多い学部があれば、女子学生はずいぶんと進学しやすくなる」と書いたが、必ずしも個人レベルではそうでもないこともあるので、そこは制度設計という観点からは難しいところである。下駄を履かせられるのが嫌だという意見ももっともだし、女性の知り合いには男ばかりの空間にいるほうが居心地が良いという人もいる。まぁでも一般的には、自分が異質であることが初めからわかっている空間に飛び込んでいくのは、そう簡単なことではないし、数字だけ見れば、先に述べたことはそれなりに正しいのだろうな、と思う。私も個人レベルで「女性がもっと増えた方が良い」と思っているし、「なにか選びたい進路があるが、性別を理由に断念せざるをえないケースが多い状況は是正されなければならない」と考えているから、そういう考えに至るのかもしれない。社会とは個人の集合である。

ある種の犠牲をはらうことに耐えられるかという問題でもある。女性限定公募で職を得た研究者は「女性限定公募で職を得た研究者」というラベリングから解放されることはない。女性優遇のように見える措置でも、その当事者だって大きな犠牲を払っている。これは、それは将来を良くするためには今の世代が犠牲を払わなければならないという思想に賛同できるか否か、だと思っている。私は賛同できるが賛同できない人もいるだろう。

私の研究室ではここ1年でだいぶ女子学生の皆さんが増えて、半分とは言わないが結構な割合になった。補足すると、これは単に配属された学生が皆さん女性だったというだけで、unexpectedな結果にすぎない。女子会が開催されている、というような表面的な変化もまぁあるが、それ以上に、これまでいた女性のメンバーを見ていると、多かれ少なかれ以前と(悪い意味ではなく)変わったと感じることもある。とにもかくにも数を増やすということは、一定の効果を短時間でもたらすということがよく理解できた。その変化が必ずしも良い変化ばかりではないということは、もちろん付言しておくが、数の問題は侮れないということは、いずれにしても心に留めておきたい。

いろいろこの問題にも思うことはあるが、限定公募に応募資格のある女性の方々には、使える制度は何でも使っていただきたいというのは、心の底から思う(これが入試となるとまた話は別なのかもしれない。当事者の心情として、仕事をゲットすることと受験する大学を選ぶことはだいぶ違いそうだ)。たまにこれもTwitterの話だが、女性限定公募という制度を批判することと、その制度を利用する研究者を批判することを勘違いしている人を見かける。使えるものは何でも使うべきである。

実際、現代の大学運営において様々な要因で有利なので、大学という組織は女性の研究者に来てもらいたいと思っている。しかしそれを平気で「女性だから仕事に困らないと思う」「女性だから有利に採用してもらえる」と、若手の女性研究者当人に向かって口にする(しばしば、男性の)(しばしば、それなりに地位のある)教員を何度も目に/耳にしてきた。その構造は、様々な側面において「会社の雑用は事務の女性にお願いする」と何も変わらない。端的にはもっと思慮深い発言を、ということになるのだが、そう言うレベル以前に、その人そのひとの置かれた状況にもっと寄り添えないものかと感じる。入学試験での女子枠や女性限定公募の話題で、「下駄をはかされてその場所に来た人間だと思われたくない」という女性の意見はもっとも一般的な反応の一つであって、それで採用される方の身にもなってくれ、という感じではないだろうか(なお、仕事は仕事、生活の術なので、使える制度は何でも使っていただきたいというのが私の考えだが、それだって部外者の勝手で当事者性に欠ける意見であることに変わりはない)。女性限定公募は、それによって失われる男性の雇用機会よりも、女性限定公募であるがゆえに応募を躊躇っている女性研究者の存在のほうが、ずっと深刻な問題だと思っている。そのラベリングに耐えられるか、というのは、多くの人にとって応募する際のひとつの検討事項に挙がるだろう。女性限定公募はいずれ、アカデミアの男女比率が1:1に近づいてきたら撤廃されるべきものである。その過程で、なんのために女性限定公募をするのかということを、制度としては明確にして欲しいと思う。数字をよくするというのも運営上は必要だろうが、それで女性の学生を増やし、次にいろいろなところで研究機関に残ってくれる人材を育てるというのが根本的に求められていて、そういった立場をはっきりさせて、目標を掲げてやってもらえたらもう少し良い制度になるのではないかと思う。ずいぶん理想主義的な意見であることはわかっているけれど。


ほかのアカデミア炎上あるあるには、研究費が地方大学にはあまり分配されず、旧帝大をはじめ実力があるとされる大学に集中しているという問題がある。この問題の根は深い。一見、学振(あるいは文科省)はすべての研究者に平等に機会を与え、その中で選ばれた人が、結果的にそういう大学でしたよというふうに見えるからだ。これは富の再生産ともいうべき現象であることは言うまでもないが、その他にも地方大学や私立大学にはそもそも博士過程に進学する学生が極端に少ないという事情がある。研究の担い手がいないから、大きなラボと同じような仕組みでは研究が進められないということだ。私もこうした問題は深刻だと思っているが、お金配りだけではどうにもならないところがある。たとえば博士学生への支援を拡充すれば博士に進学する学生は増えるだろう。しかし、激増するかはわからない。たとえば、慶應や早稲田、明治など、有名どころの私立大学の博士学生支援は、現状でも金額だけ見れば東大のそれより手厚い。しかし、博士に進学する割合には差があるだろう。トップと呼ばれるこれらの私立大学での状況がそうであれば、さらに地方の大学などでは、単に経済的な支援だけでは変えられない壁がある。「みんな大学院行かないから、行かない」「みんな就職するから、就職する」……これは東大の理学部で耳にする「みんな修士はいくから、修士までは最低行く」と構造的に何ら変わりない。これは空気であり文化なのだ。どれもこれも、数年で変えることはできない。その組織の人間が少しずつ入れ替わっていくような、ひとの人生が重なり合うようなオーダーの時間スケールでしか変えることができない。

関連して、大学教員は薄給であるというのもよく炎上するトピックである。ここで稀によく見るのは、大学を離れて企業に行った知り合いはたくさん稼いでいるのだから自分もそれくらいもらえるべきであるという主張である。自分の能力にどれくらいの自信があるのかわからないが、違う場所で働くには違う能力が必要である。言うだけタダである。労働者が待遇の改善を求めること自体はきわめて自然なことで、実際大学教員というのは高給な職ではないので、良いことだと思う。しかしTwitterで文句を言う以外の方法はないのか。私は明確な答えを持たないので、もう少し考えたいが、少なくともインターネット上で文句を言っていれば給料が上がるというのはあまりに浅はかな考えで、もっと実効的な手段を行使するべきだ。まぁ、私はまだ学生なのでその辺りの解像度はだいぶ低いが、しかし学生への支援だって本当は学生がもっと上げてくれと言うべきなのだから、学生なのでという言い訳もイマイチ通用していないような気がしている。

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