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2021年とデザインと私

デザインと短歌が制作の二本柱だったが、昨年から短歌を作ることはなくなってグラフィックがメインになってきた。いろいろな理由があるはずだが、なんとなく言葉の方は作るより味わいたいと思う時間が増えたように思う。日常の中で接する様々な〈もの〉からビジュアルを学ぶ素養が養われてきた一方で、他人の書いたことばに触れる時間がとれなくなっていったということも大きいと思う。

2020年は誰にとっても「大変」な一年だったと思う。その一年を生きる中でグラフィックデザインという行為についてもいろいろなことを考えた。

都知事が記者会見でボードを掲げていた。社会的距離やマスク着用についてのポスターを多くみるようになった。それらはこの一年を通して私たちが向き合ってきた社会現象に対する、デザインの側からのアプローチであると云うことができる。政治権力がことばを紡ぐことが正しくない扇動になり得るのと同じで、グラフィックも見る人々に何かしらの影響を与えている。先に挙げた例に関して云えば、ことばでは伝わらないからグラフィックでという側面もあったと思う。いやでも目に入ってしまうような配色かもしれないし、かわいらしいキャラクターかもしれない(私はなんでも肯定してくれる某ペンギンが好きなのだが、最寄駅にはマスクをした某ペンギンのポスターが掲げられている)。デザイナーとしては、それがデザインの利用であるということを忘れてはいけないと思う。

世の中にはデザイナーという職業があるらしい。そのデザイナーという職業に就くと、クライアントと呼ばれる〈お客様〉から案件を取り付けてきてデザインするというのが多く見られるらしい。それは利用されるためのデザインである。もちろんクライアントワークがすべてではなくて、自分で目的を作って自分でそのためのデザインをするという場面もある。仕事ではないが、私がやってきた学園祭というデザインの場もそう云ってよい範疇ではないかと思う。

そういういまこのときに、目的が明確なデザインを私自身が手掛けることの意味が見出せなくなってきた。そういった機会は今後も訪れるだろうから、もう少し目的と制作の距離が遠いデザインをやろうと思った。一口で云えば、もうすこしアート寄りの領域の勉強をして感性を磨きたいと考えた。

というわけで、私の2021年はふたつのデザインコンペに向き合う日々から始まる。ひとつは空間デザインで、ひとつはポスターデザインだ。学園祭のデザインならデザインの目的=学園祭それ自体がすでに価値だと云って差し支えないと思うが、今はどんなところを価値と考えて、いかにそれが価値であるという(デザインを通しての)主張に説得力をもたせるかというところが大切なステップであると感じる。どちらも結果にかかわらず、何かしらのご報告はするつもりなので、それまでお待ちを。

クリエイティブな共同作業の経験を積める機会を作りにいきたい、とも思うようになった。もっとも今までも共同作業でいろいろなものを作ってきた(現在進行中のコンペも共同作業だ)が、違う分野のクリエイターとの共同作業の経験はまだない。ことばを紡ぐひと、写真を撮るひと、音を奏でるひと。ビジュアルデザインとは違う世界を見つめるひとの隣で、クリエイティブな思考をしたい。待っていてもそんなチャンスは舞い降りてこないので、なにかできたらなぁとぼんやり考えている(ところで、お誘いお待ちしています)。


この時代にクリエイターができることは、どんなことなのだろうか。社会のため他人のために何かをしたいと強く思うタイプではないが、一方で他人あってこその創作活動であるとも感じる。

私としては、来年は「役に立たなさ」を研究していきたい。自分のデザインはいくぶん夢を見がちなところがあるから、役に立つものより、役に立たないものの方がしっくり来ることが多い。使い道がなくて役に立たないけどどこか魅力のある創作活動をしていきたい。


先日、ふとしたきっかけで、2年前の自分が詠んだ短歌に触れる機会があった。当時はあまり自信がなかったのだが、役に立たない創作について考えていたときに、この歌がひとつの巧く行った例なのかもしれない、と思った。

星がしずむようなさよなら 紺色が迎えに来るならそんなさよなら
小林大輝・2018年(Q短歌会機関紙・創刊号収録)

みなさま、来年もどうぞよろしくお願いいたします。気軽に「また会いましょう」と言い交わせる日々が訪れますように。

1億円くださった方の名前を論文の謝辞に記載させていただきます