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北村薫『六の宮の姫君』: 現代の「六の宮の姫君」と、その処女性

これは作品の否定ではない
エンタメとしては面白い。さらりとした文体で編まれながら、福音のように挿し込まれる一文。リズミカルに浮遊/着地を繰り返しつつ真相へと至っていく構造が小気味よい。そして物語の集大成として描き出される芥川と菊池の友情は、春の宵のように切ない。それでもこの作品は気軽に本棚にしまうわけにはいかない。これは〈私〉の成長物語であってほしいと、願ってやまないためだ

そんなわけで、北村薫『六の宮の姫君』を読んだ。読書好きの大学の友人が長年勧めていた作品で、ようやく手に取った。現在、〈私〉とちょうど同じ4回生なので、ある意味いいタイミングだったかもしれない。

さて、この物語は数々の小片からIFの情景を投映する書誌学ミステリーだ。注意されたいのが、言うまでもなくこの作品は解釈のひとつに過ぎない点である。実際の芥川と菊池がどのような関係にあったのかは、全て蓋然性の下に収まりうる。断片から浮かび上がるポリトーナルであったはずの世界は、北村によって緻密にコントロールされている。まるでアリアドネの糸にように。

が、そこは本題ではない。言いたいのは、その線形な誘導が〈私〉に対しても行われていることだ。誰によって? もちろん、円紫によってである。

「でも、誘導されつつでも、円紫さんと同じ結論に辿り着けたのですから、自分で満足しています」(257ページ)

このように、円紫が〈私〉を誘導してることは文中で明らかにされている。それこそが「円紫さんと〈私〉シリーズ」なのだがーーこれが作品にひとつの翳を落としている。

 これを紐解くヒントになるのが、〈私〉の処女性である。
〈私〉は聡明な女子大生だが、恋愛・性愛に疎い。「玩具のお城めいた屋敷の建物の前」で男女のやり取りを見た際、彼女は

どきどきした。バッグのバンドをきつく握り、足早に通り過ぎた。(241ページ)

としている。他にも、

いわゆる《恋愛》をしておきたかったという、もどかしい口惜しさもある。こればかりは努力して出来ることではない。(12ページ)
縁があるものなら、あの人とまた会えるのではないか。
そして自問する。
例えば今生で会えなくとも、生まれ変わって会えるかもしれないよ。……それにね、あの人に会えなくとも、本さえ読んでいれば、いつかは、あの奇妙なページに会えるかもしれない。(245ページ)

と語られる。

何事かを追求するのは、人である証に違いない。(20ページ)

とすら言っているのに!

これらの描写と円紫との関係から、〈私〉という人物を知ることができる。
〈私〉はあらゆる人間的な毒を逃避し、また毒から守られている(就活や卒論テーマが棚からぼた餅であったことも印象的)。
彼女は、「言葉」という脱臭されたメディアを介してしか世界を見ていない。翻せば、都合の良い世界ばかりを摂取し、そうでないものは動物的に回避する原則が、自他によって整えられている。その例こそが、冬休みに一日一冊読んだ本であり、円紫の小粋な説明だ。現実に等身大で参加せず、書籍や他人に痛みを仮託する中身のなさが、〈私〉の正体である

〈私〉は現実に向き合わない。言語化された好物を摂取しつづける。どこかで見たような気がしないだろうか。そう、芥川龍之介の『六の宮の姫君』である

しかしそれをどうする事も、姫君の力には及ばなかつた。姫君は寂しい屋形の対に、やはり昔と少しも変らず、琴を引いたり歌を詠んだり、単調な遊びを繰返してゐた。(芥川龍之介『六の宮の姫君』一)

 もちろん、その帰結も当作品にある。

「蓮華はもう見えませぬ。跡には唯暗い中に風ばかり吹いて居りまする。」
「一心に仏名を御唱へなされ。なぜ一心に御唱へなさらぬ?」
 法師は殆ど叱るやうに云つた。が、姫君は絶え入りさうに、同じ事を繰り返すばかりだつた。
何も、――何も見えませぬ。暗い中に風ばかり、――冷たい風ばかり吹いて参りまする。」
 男や乳母は涙を呑みながら、口の内に弥陀を念じ続けた。法師も勿論合掌した儘、姫君の念仏を扶けてゐた。さう云ふ声の雨に交じる中に、破れ筵を敷いた姫君は、だんだん死に顔に変つて行つた。……

いま一度、「日常の中にある謎が少しずつ《私》を成長させる(創元推理文庫・帯)」というコピーを読むと、その空虚さが浮き彫りになる。
〈私〉は、〈私〉の「力には及ばなかつた」ことから、「日常の中にある謎」が解かれない状況から、そして不条理な痛みを伴う現実から、逃避している。そうした棘のない温室のなかで、はたして〈私〉は成長しているのか? ちょうどいいタイミングで現れ、〈私〉を誘導して飄々と帰っていく円紫は、〈私〉が姫君と同じ末路を辿る可能性を考えていない

 円紫は言う。

「人は、いろいろなことを考えるものですね」(168ページ)

円紫が〈私〉にいろいろなことを考えてほしかったのなら、真に〈私〉の成長を望むのなら、彼女を現実に突き放すべきだった。自力で念仏するよう勧めた慶滋保胤のように。あるいは円紫が〈私〉を支える恋人や家族になるべきだった。言葉では表現し得ない芳醇な世界を、弱毒化しながらでもいいから教えられるように。わたしが読む限り、円紫は〈私〉に対症療法をしつづけているように思えてならない

"A Gateway to Life" ーー『六の宮の姫君』の副題である。大学を卒業する彼女は大きな分岐点に立っている。彼女は何を胸中に抱き、どんな現実を歩むのか。「人生の門出」にいる〈私〉の行方は、誰も知らない。

***

ここから脱線。上のように書いたが、自分は〈私〉がどんな世界で生きてもいいと思う。自分の論は明らかに現実に重きを置きすぎている。

ここでひとつ言っておきたいのは、冒頭にも書いたが、これは作品の否定ではないのだ。この〈私〉でしか表現できない世界もある。そうした世界も鋭く詩人を惹きつけるだろう。僕が言いたいのは、『六の宮の姫君』という作品は、丁寧に拵えられた〈閉じた城〉であったという確認にすぎない。このことは『六の宮の姫君』に限らず、どんな作品でも同じである。そういうわけだから、「開城しろ」「現実味を出せ」なんてことは言わない。まして、〈私〉は誰かとセックスして痛みを知るべきだとか、下世話な主張をするつもりは毛頭ない。

件の友人には有栖川有栖の『江神二郎の洞察』を貸そうと思う。「除夜を歩く」を読んだことのある諸兄姉は、ああそういうことねと思われることだろう。

「幽霊も名探偵の推理も、非実在の幻ですか」
「〈閉じた城〉の中やからこそ見られる幻かもな」(有栖川有栖『江上二郎の洞察』創元推理文庫 365ページ)


2018/10/31 ヘッダ画像は創元推理文庫より引用

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