自分のココロ

自分のことが嫌い

本当は嫌いになりたいわけなんてないのに
外見も外に現れる内面も
人から認められることなんて少なくて
むしろ馬鹿にされて

だから自分のことが嫌い

認められたかった
それでいいよ って言ってほしかった
手を差し伸べてほしかった

でもそんな人が何年経っても現れるわけなくて
本当は認めてくれている人がいても
口にすることなんて少ないし

生きることが怖かった
失っていくばっかりに思えて
傷いて 傷ついて
死にたかった

もし映画みたいに自分の命ひとつで
人類が救われるならば
喜んで名乗りをあげたかった
自分は役に立ったって思ってもらえるから

でもそんなフィクションみたいなことはないから
頭の中ではムカつくやつを全員殺して
自分も死のう
なんて思うこともあった

これ以上認められないのも怖かった
だから藁みたいな頼りない自分なのに
それにすがってしまった
チャレンジなんてできるはずもなく
できないことはやらない
ちょっと頑張ればできることもやらない

充実感なんてなくてモチベーションもわかない
だから何にもやらない

思えばそんな20年だった。
大学3年生。21の夏まではそんな人間だったなぁ。

極めて考え方もアクションもネガティブ。
自己承認欲求のカタマリ。

でも、自分で言うものなんだが、不思議と嫌われているわけではなかった。

ネガティブな感情を人に対してネガティブに吐き出さなかったことが全ての始まりだし、それは当時の自分の主体性と性根の現れだったのかもしれない。

ネガティブに吐き出すことで、暴力・暴言に走ったり、不誠実な行動をするケースは世の中で多々あるのだと思う。

もちろん自分がそういった行動が全くなかった訳ではないし、時々ブラックと言われるのは、こうした部分の現れなんだろう。

話を戻すと、ネガティブな状況にあっても、自分はネガティブな状態にある人に気づき、助けられる人でありたいと願ってた。自分が認められない分、認め、助け、心に気づき、言動に表せる人間に。

受けたことを自責で捉え、ポジティブに変換できる才能と反骨心はきっとずっと持ってた。

そうやって人を認めることで、知らず知らずみんなに何かを与えていたから、みんなはそれを返してくれたんだと思う。

求めることじゃなくてプラスを与えることから全ては始まるんだ
振り返ってみると、そう気づいた。

ヒトでもコトでもそうなのかもしれない

自分がプラスの気持ちでアクションを起こしてみて、失敗したって成功したっていい。でもそれが起点になって始まるコトってたくさんある。

そうしたら。いつしか自分の自己承認欲求は満たされてた。

自ら与えて、波を起こす。

もう自らのためではなく、純粋に誰かのために。

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