思考トライアル:例の身長発言で炎上案件

どうも身長160cm、人権なし男です。自称、身長偏差値30台(純粋に平均からの分散の意味合いで)とネタで言うことが多かったですが、他者を侮蔑するために使ってはいけませんわね。

昔はいやでいやでいやでしょうがなかった身長も今の年齢あであれば、もはや気にならない。素敵な妻も子供もいるし。身長が低いという別にポジティブではないがその事実を受け入れてどう行動するかは自分で選べるわけで。

身長が低い人間は結局変えられない身長という事実(それが劣っているという評価)に執着して、卑屈になっていくマインド(少しのことでも自慢げにする。勝っているところをこれ見よがしにアピールするとか、、、)が良くないのだろうと。


話はそれたが。評価基準が少ない世界に生きていると、身長等わかりやすい評価の頭の中のシェアが大きいのだと思う。そしてプリミティブな観念が生きる幼い世界、知性が発達していない世界では、それが自然発生的に生じる評価基準になっていく。子供が身長高いことを誇るみたいに。

「170cm以下だと人権ない」

この言葉の炎上はヒューマニティと動物的本能の戦いとみておるのです。


動物的本能

大きさ=強さである。これは事実だと思う。ボクシングが階級で分けられているのも、そうした理由でしょう。種を残すことを本能として持つ動物として、大きい個体を好むのは至極当然のことのように思います。

あくまで個人的なリサーチでは身長が低い女性は軒並み背の高い男性にあこがれると思っております。そこには本人のコンプレックス払拭ということもありそうですが、それ以上に種の生存本能として、より強いもの=大きいものを求めるという本能が生きてそうだと思うのですね。

かの女史は身長が高くない、ならば背の高い男性にあこがれるのは当然と言えます。(個人的リサーチとそして)

偏見が混じっている気がしますね。ごめんなさい~。。。

人権ってなんじゃ?

人権って、ないですよね。

こんなことを言うと爆発炎上しますが、あくまで定義された概念であり、自然界にはないという意味合いで、ない。あるなら、犬権、猫権、牛権、虫権、、、、なんだって生ずるはず。あくまで、人間が動物的本能のままで活き、その(ずる)賢さゆえに生まれた階層構造(所有・地位・身分)に対するアンチテーゼが人権じゃないですかね。

人権は人間が自分たちの持つ認知構成力・概念構成力を活かして作ったものであり、歴史的な流れを受けて叫ばれたとても大切な思想だと思います。ヒューマニティですね~。

職業属性として

自分もゲームが好きでして。昔は固執していたところもあった気がします。「常日頃人権ないと考える人たちから浴びせられる侮蔑の視線」に耐えられなかった自分が、「死んでも生き返る・自分を批判されることもない」、「ただ快であり楽である」そんな世界に逃げ込んでいたのが、固執の原因だと今となっては思います。

現実世界よりも圧倒的に変数が少ないのですよ、ゲームは。そして変数があっても定量的にパラメータを表示できるし、基本的には何度もトライができる。敵キャラの情報だってわかるし、レベルアップもわかりやすい。この先起こることやステージも調べればわかる。気に入らなければリセットすればいい。そして何より嫌いだった「自分という属性」を捨てて、その世界に入ることができる。

でも現実世界は、自分のパラメータも相手のパラメータもわからなければ、チャンスはその時しかない死んだら生き返らない。何でレベルアップしているかもわからない。先が分からなければリセットもできない。

ヘルプもない、ランダムエンカウントの極致で、超オープンワールド、ガチャやドロップで裏技はなく強い装備が手に入ることもまずない。負かりやすく敵を倒すスキルなんて、ないんですよね。そして五感すべてを使って、判断が求められる。ゲームとしては超ハードですね。現実世界は圧倒的に情報量が多いのです。それは庇護下にある学生から社会人になるにつれてどんどん大きくなる。

だとしたときにゲーマーを選ぶ職業属性はどうなのか。そりゃあ動機は様々でしょう。昔の私みたいな現実世界の変数から逃げたくなった人もいるでしょう。そんな人にとっては「自分の属性」の強いところだけを投影できるのがいいですよね。ゲームうまいってうらやましい。

ですが超ハードモードの現実世界がいやで、ゲームに逃げ込みプロになるというのが属性だとしたら、、、?もとが、現実世界が苦手なところに重ねて不幸なのは、変数が少ない世界がゆえに、学び鍛えられる範囲も限られるということ。そのなかで、ゲームがうまい・強いという絶対正義に勝るものはない。だから、現代に求められるヒューマニティを鍛えられる機会が少ないのだろうと

自分は仕事を通じて社会人になって多くの人や様々な変数の中で、人として、生き物とて鍛えられてきたという自覚があります。反面ゲームを仕事にした時に、それは得られがたいのではないかと。。。

ある種勝負に勝つ、強い、というのは動物的本能であり、それをゲームという世界に投影している。すべて動物的本能に近いところの発露であり、人権などがもたらされる高度なヒューマニティというところは遠い世界だと思うのです。


大自然や野生生物に対して、生き物としては弱いのが人間。だから知恵や周囲と共感しながら生きる。それを捨ててしまうことは、、、きっと危険な兆候であり、批判があってしかるべきことなのだろうと思うし、そういったところから違和感を持つ人が多いのだろうと思うのです。

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