ギャンブルについて

ギャンブルは良くない?

古今東西
運まかせにする遊びは
数多あるのだ

私たちは
運を抜きにして
生きることなどできない

人生のあらゆることが
自らの努力の賜物と
自己決定による選択だと
言いきれるのだろうか?

生まれもっての所与
財産や家柄、体格、運動機能
知能、居住地など
抗いようない運なのである

周りの環境
他者からの支援、協力
与えられた教育
運、巡り合わせを挙げれば
キリがないのである

運に任せることを
楽しむという姿勢も
ある程度は必要なのである

ギャンブル依存も問題だが
努力依存もまた問題なのだ

ギャンブル依存は
世の中から疎んじられ
ひどい場合には
病気として扱ってもらえるが
努力依存は
褒め称えられることすらあるので
ブレーキが効かない
そして、他人にも
同じような努力依存になることを
強く要請しかねないところがある

自分の幸せのために
競争に没頭する人が
称賛される一方で

自分の幸せのために
運にかけることに
没頭する人は
かくも非難の的になる

競争も
運任せも
人間にとっては
遊びと言える

興奮や快楽を求めて
やることに過ぎないのだ

競わなくとも
何かを産み出して
より良く工夫することはできるはずで

そこに
競争原理というものを
当てはめざるを得ないのは
人間に何かをさせるための
動機付けともいえるし
いや、たまたま、競争好きな人間が
争った結果、産み出されたものが
世の中のために繋がるという
経験の繰り返しで、いつしか
競争原理こそが、社会が進歩する
ための唯一の原動力のように
履き違えてしまっているのかもしれない。

ある人間が
ギラギラしていると
周りの目からみても
そう思えるとき

彼は
遊んでいるのだと思う

それは
競争の遊びなのか
運任せの遊びなのか
陶酔の遊びなのか
模倣の遊びなのか

いずれにしても
ただの犠牲に苦しんでいるのではなく
幸せになってやるという
ギラギラしたものがあるだと思う

お手本通りの
理想的な結果を答として
用意されていて
そのために、何をすべきかも
用意されていて
その通りに努力をして
安全運転で、理想的な社会を作ることで
最終の目的を達成することは
できるかもしれないが

プロセスを楽しむことが
できるだろうか?

ちなみに
私はギャンブルは嫌いだ
自分ではしない
ギャンブルをしている人も
好きにはなれない

それでも
ギャンブルが悪で
競争は善であるという
前提で話をするのは
好ましくないと
へそ曲がりな考え方を
してしまうのである

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