物語を行動規範に落とし込みたい
物語を詳細に知りたい
それをもって、行動規範に落とし込みたい
そういった考えはわからなくもない
理屈だけを考えれば
たった1人の人間の物語を参考に
全く異なる『私』の行動規範に
落とし込むというのは
無謀といえる
だがしかし
人間は、これをこよなく愛している
とすら思える
感染した人たち
一人一人のキャラクターや行動を
具に知ることで
あるものは教材にするが
あるものは自らとの違いを
浮き彫りにすることで
非難したり、安心したりする
他人の物語に
寄り添うのではなく
単なる感情移入をしているように映る
統計学を駆使して
データ全体として
傾向を見る方が
よほど、行動規範を定めるのには
適しているだろうし
なにより
一人一人の個人を特定されずに
済むと感じる
情報の受け手の
満足や興奮のために
個人の生活をつまびらかにすることが
適切なアプローチなのだろうか?
それでも
医療従事者のなかにも
『個人情報を保護した上で、できるだけ詳細な行動を公表すべきだ』と力説する人が少なくない。
年齢、職業、家族構成、一緒にいた人のキャラクター、利用した店舗や施設、勤務先…。
もう、名前と住所さえ言わなければ、個人情報に当たらないとでも言いたいのか?という具合に
細かい物語を描き出す
その情報を受け取る人間は
細かい物語にさらに、想像を膨らませ
興奮したり、安心したりする
『けしからん』
『許せない』
『私は大丈夫』
私たちも症例報告というものをして
学びを得ることがある
医療に限らず
経験から、学び、行動規範に落とし込むのは
慣れ親しんだ方法だ
それは
気をつけるヒントを与えてくれるが
より良い方法を見つけるのには
不向きなのところがある
1つの事例を深掘りして
わかることは多いだろうが
深掘りする過程や、得た情報を共有して
次に活かすには
その事例に関わる全ての人が
事例に対するリスペクトが必要なのだと思う
刺激や安心材料を
他人の個別事例に求めるのは
もっての他だと感じている
ただし
このことを、あらゆる人々に
理解してもらうことは難しいことだ
人は物語に
興奮や安堵を求めている
かくいうわたしも
メディアのなかの
作られた物語にすら
興奮したり、安堵したりして
その行き場のないサリエンシーに
困ってしまうことが少なくない
メディアからの情報が
消耗品だとされる所以である
入ってきた情報に
興奮が生まれることは
生き物として自然なことである
その『自然的態度』なるものを
いかにして
『私は今、入ってきた情報に興奮しているな』と
俯瞰して
不用意な言動という反応をせずにいることが
大切なのかもしれない
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