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ちょっと自分を甘やかしてみるね

子どもの頃の記憶は、もう限られたものだけになってきた。そこには何かしらの感情がセットで付いてくるのだけど、思い返すとその大半が「悔しい」という気持ちかもしれない。もちろん嬉しいも悲しいも記憶はあるのだけど、鮮明なのはやっぱり悔しさ。トラウマまではいかないものの、なんだか今でも心がぎゅっとなってしまう。


国語や算数の問題。求められている答えが出せなかったら不正解。なんで?となる気持ち、今ならわかる。当時そうやって「なんで?」と思えたこと自体が素敵だし、「自分なりの答えを持ちたい」という決意のタネがちゃんとあったってことだし、それを今ちゃんと認められているのも、良かったなあと思ったよ。(何様)

私はたぶん、求められている答えが自分の答えだと信じてた。自分なりの答えがあることすら気づいていなかった?そんな感じがしてる。
だから、その答えにどうしても納得いかなかった「悔しい」という気持ちが、強烈に残っているのかも。


いわゆる「良い子」だった。小学生のころ、事情があって宿題ができなかった日に、周りの子に「あのはなこちゃんが宿題を忘れるなんて」って言われたの。しかもわりとクラス中に広まって。ビッグニュースかのように。それくらい良い子だったんだろうね(笑)
宿題は忘れてたわけじゃない。音読できたら家の人にはんこを押してもらわないといけないやつだったんだけど、母が風邪で寝込んでてもらえなかっただけ。そんなこと?って今なら思うけど、当時はそんなことが誰にも話せなかった。母にも父にも言えなかったし、先生にもクラスメイトにも言えなかった。
なんで言えなかったんだろう。でもほんっっとに悔しくて恥ずかしくて黙っちゃった。もう一生の終わりかのようにしばらく落ち込んでた。

「良い子」が崩れて怖かったのか、言い訳だと思われたくなったのか。言われた通りにやるのが正解で、良い子で居続けることが絶対だと信じてたのが、揺らいだ瞬間だったのかもなあ。うまく言えないけど。


仕事に慣れてきたころ、当時の上司(私の仕事だと、店長)がわりと自由にさせてくれて、なんだか好き勝手やれて、それがすごく楽しかったの。私の仕事には根拠があんまりなくて、知識も乏しくて、感覚で動いてたけど、スタッフとも店長とも仲良くやってたし、売上もちゃんとあった。でもそこに別のところから、基礎知識がしっかりある、本当にしっかりした人が入ってきて、こてんぱんにされた。
いや、そんなにやられたわけじゃないんだけどさ。こてんぱんにされた気分になったのは、指摘されて言い返せなかったから。私がどうしてこんな売り場にしたかっていう、根拠がちゃんとなかったから。今書いてて気がついたけど、なんとなく良い感じにやってただけで、自分の行動には自信がなかったんだと思う。


私は自分の行動に、自分なりの理由と自信をもちたいのかもしれない。自分なりの答えを考えようともしなかったり、なんとなく良い感じにこなしたりしていた時を経て、そう思うようになったのかも。
何でも選べる今だからこそ「どうしてそれを選んで行動したのか」を自分の中でちゃんと納得しておきたい。

あー、その気持ちがちょっと強すぎるんだな。何事もフィーリングタイプだった私が、理由やら根拠やらを自分に求め続けてる。だから苦しくなるのかな?だからすぐに「いや待ってこのままでいいのか」とか思うのかな?

ちょっと自分を甘やかそう。甘やかすというより、許すに近いか。フィーリングでも生きてこられたから大丈夫って言い聞かせることにしよう。


そもそもこんな、人生にじっくり向き合ったこと今までなかった。向き合える環境にいられて、豊かだなあと思う。いろんな人とお互いの話を聞き合えるのも、すっごく楽しいよね。わかる。

答えが見えないのは苦しい。でも「答えがなければ失敗なんてない」って言葉をもらえてホッとしたよ。ありがとう!

#さやかとはなこの交換日記

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