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やがて来る喪失感を前に

「あのパン屋、もうすぐなくなるらしいよ」

TwitterではないSNSで繋がっている自転車仲間から、続々と噂が立った。そうこうするうち誰かが店頭に貼られていた紙をアップし、噂は確定情報へと変わった。

自宅から約30km、駅からも程遠い住宅街の中にあるパン屋。車か、それこそ自転車でなければ行けない場所にあった。それゆえか駐車場にサイクルラックを用意してくれていて、イートインができるテラス席もあって近隣の自転車乗りの定番スポットでもあった。そして、そういう店のパンは美味しいと相場が決まっている。車での来客もひっきりなしだった。

だから疫病下においてもいつもそのテラス席は大賑わいだった。その密っぷりを敬遠して、通常の練習コースから少し外れることもあり最近は足が遠のいていた。

そんな店が、閉店することとなった。理由はわからない。疫病が関係してるのかもしれないし、原材料費の高騰の影響かもしれないし、その他煩わしいことになったのかもしれない。理由はどうあれ、近隣の胃袋も担っていたくらい大きなパン屋なので、その決断に至るまでに、そしてその後も相当なパワーを要したのは想像に難くない。

土日のテラス席はもう終わったというので、仕事を休んで平日に行ってみることにした。しっかりおなかを空かせるため、いつもの練習コースに加えて、登り坂をふんだんに取り入れたコースを走った上でそのパン屋に向かった。これはパン屋へのリスペクトだ。汗まみれのダンディズム。

いつもは自転車がぎっしりくくりつけられているサイクルラックも、その日はからっぽだった。当たり前だけど、金曜日の朝8時半にロードバイクに乗ってパンを食べに来る人なんてきっとそんなにいない。SNSにアップされていたように貼り紙が入り口のドアに貼ってあって、やっぱりほんとに閉めるんだ、と思う。

閉まる直前とはいえ、パン屋なので棚には焼きたてのパンが並ぶ。しかしどことなく品揃えが少ない気もする。僕が大好きなチーズとしらすを混ぜたものを載せてカリカリになるまで焼いたパンは売っていなかった。かわりに、太めのウインナーが乗ったホットドックと、リンゴの4つ割がカスタードクリームと一緒にゴロっと入ったパンを買った。後者は最後に来た時に初めて食べてもう一回食べたいと思っていた、この店のスペシャリテ的なパンだった。

ガラガラのテラス席に一人座り、パンを食べる。食べながら、避け難くいろいろなことを思い出す。初めて連れてきてもらった日のこと。散々しごかれて方々の体でこの店に辿り着いて休憩した後、しごきパート2が始まったショップ練の日のこと。ロングライドを計画した日のこと。同年代と思っていた仲間が実はひとまわり以上上だと知った日のこと。最近厳しいんだよねと、今はもう自転車に乗れなくなってしまった仲間がこぼした日のこと。

その日そこに着くまでの間、パン屋がなくなることの何がこんなに、平日に休みを取るほどに寂しいんだろうとずっと考えていた。そして一人参り、あたかもお通夜かのごとく在りし日を偲んでいるうちにそれがわかった。ここが食べ物屋だからだ。

感覚とセットになった思い出は強い。特に食べ物は五感全てを伴いながら、否応なしに体に浸入してくる。身体性を伴った記憶は、もはや肉体と不可分になり、なんとなく常にそこにあるものになっていくのだろう。そんなことは絶対にあり得ないのに。寂しさの正体は、常に共にあったと思い込んでいたものが突然奪われるような錯覚だったのだ。

この流れだとそんな日々の小さい幸せを大切に生きよう、みたいな話になりがちだけど、そんな日常の小さな幸せファンクラブの皆さんには申し訳ないことにそれをやるにはちょっと日々が忙しすぎる。現にチーズとしらすを混ぜたものを載せてカリカリに焼いたパンのことなんて、仕事やら生活やらありとあらゆるものの間に挟まってペッチャンコになって仕舞われていた。

ただそれでも、ペッチャンコを引っ張り出して思い出すことができた。大事なのは感じて体験することそのものなんだろう。どこかに仕舞われていれば、何かのきっかけに引っ張り出してこうやっていろいろ触ったりできる。人生の豊かさとはそういったものの多寡だよ、とそれっぽい人に言われたら今なら信じてしまいそうな気もする。

自転車用のウェアでそんなに長居するわけにもいかない。食べ終わって、テラス席からレジに向かってごちそうさまでしたと声をかけた。絶賛何かの作業中の店員さんはこちらをチラッと一瞥してありがとうございましたぁと返してきた。まあ、最後とはいえ現実はこんなもんだろう。ただこういうささやかな思い出すらもきっと存在を忘れるくらいにどこかにちいちゃくちいちゃくしまわれて、何かの拍子で引っ張り出されてまたこねくり回される日が来るのだ。

より長く走るための原資か、娘のおやつ代として使わせていただきます。