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2000年 三度目のポルトガル旅行

 ポルトガル好きの電子掲示板仲間がリスボンで年越しカウントダウン・オフ会をしようということになって行った三度目のポルトガル旅行。
 今回は、初めてロンドンにストップオーバー。ポルトガルではエヴォラ、コインブラとアヴェイロに行ってみた。

1 ロンドンでストップオーバー(12/27)


 今回取れたエア・チケットはBAのロンドン経由だったので、ロンドンのクリスマス・イルミネーションを見てみたいと思い、ロンドンに2泊することにした。初めてのストップオーバー。ホテルはインターネットで予約。キャンペーン中で通常1泊60ポンドのところ49ポンドのホテルにした。

 空港のイミグレで、”How long~”と聞かれたので、”ツウナイツ”と答えた。その後、”Why?”と言われたので、どうして2日しか滞在しないのだと聞かれたと思い、トランスファーでリスボンへ行くって言えばいいのかなと思って、答えを考えていると、「モクテキ」と言われた。 

 ホテルまでは地下鉄で移動。郊外の古い家には煙突がついているが、煙突の上には植木鉢を逆さにしたようなものが置かれていた。到着時は雲に覆われていた空も青空が広がるようになったが、16時頃には暗くなり、ホテルにチェックインする頃は真っ暗だった。

 ホテルの建物は外観は立派だった。中は迷路のようで両側に部屋があり、あまり用をなさない非常扉を2度通過してたどりついた部屋は、値段なりのものかと思われた。ベッドサイドの小物入れの引出は閉めてもすぐに開いてしまった。床が水平でないのだった。
 そのうち大事なことに気が付いた。暖房用の放熱板はあるが、目盛りが最大なっているのに全然あたたかくないのだ。調べてみると、パイプが冷たい。フロントで拙い英語で「部屋が寒い、ヒーターが働いていない」と言うと、前の人が何かして行ったのだろうみたいなことを言った。ほかにも重要なことを言ったのかも しれなかったが判らなかった。何とかしてくれと言おうとしたが、とっさに言葉が出なかったので「What shall I do ?」と言った。すると、これから出かけるのな ら、帰ってくるまでに何とかしておくというようなことを言った(ように思った)ので、鍵を預けて外出した。

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 近くの「麺、粥」と看板の出ている中華料理屋で麺と粥を食べてから、地下鉄でピカデリー・サーカスに行った。ピカデリー・サーカスから少し行った広場に、回転木馬や絶叫マシーンのほか輪投げのようなローテク・ゲームがあり、老いも若きも、子連れもカップルも楽しんでいた。
 通りにはクリスマスの電飾。クリスマス過ぎると飾りが撤去されてしまうのは日本だけのようで、大部分の国では1月6日まで電飾などはそのままなので、 まだ楽しむことが出来るのだ。

 ホテルへ帰ると、部屋には電気ストーブが置かれていたが、スチームの放熱板のほうはあいかわらず冷たいままだった。とりあえず寒さはしのげるので、風呂に入って眠ることにした。飛行機ではあまり眠らなかったのに、いつものことながら、なかなか眠りにつけなかった。


2 ロンドン散策(12/28)

 ホテルの質素なコンチネンタル・ブレックファーストを済ませてホテルを出たのは9時半頃だった。BBCの天気予報ではくもりのち時々晴れ。気温は-2℃~2℃。仙台の真冬と同じ程度の寒さだ。
 道路は濡れていて、公園の草の上には雪がうっすらと積もっていた。はく息が白い。陽は昇ったばかりというような明るさだった。街並みがこじんまりとして奇麗だ。いい感じ。

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 まず、地下鉄の駅で地下鉄の1日券を買った。ゾーンによって値段が違うが市内のほとんどの観光地はゾーン1、2の3.5ポンドで行けるので、それを買った。シティバンクのカードでキャッシングしているので詳細のレートは分からないが約600円くらいか。
 ケンジントン公園に行ってみた。有名なハイド・パークに隣接する広い公園だ。前夜降った雪がうっすらつもり、ジョギングする人や、乳母車を押して散歩する家族連れ、東洋系の観光客などが思い思いに散歩したりしていた。
 ロンドン名物ダブルデッカー・バスでトラファルガー広場へ。1台目は人が乗り過ぎたようで、車掌が立っている人の数を数えて制限を超える人をおろしていた。1階は5人までしか立って乗れないらしい。
 2台目に、争うように乗ったのは、ほとんどがカメラなどを持った観光客だった。1階席が満席近かったので2階へあがった。2階席からハイド・パークや街並みを眺めながら、トラファルガー広場へ。トラファルガー広場でほとんど降りるのではないかとの予想を裏切られ、2階席からは誰もおりなかった。バス停の 表示を見て、あわてて降りるということになった。

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 まず、ナショナル・ギャラリーに入る事にした。ナショナル・ギャラリーでは絵よりも作者の名前に目が行って、知ってるとか知らないとか、愚かな見方をしてしまった。そういえば、フェルメールの絵もあるはずだと、フェルメールの部屋へ。大阪のフェルメール展で見たものと同じような雰囲気の絵が2点展示され ていた。
 近くの部屋にあった「覗き部屋」というのが興味深かった。箱の中に部屋が描かれているのだが、両側の覗き穴から見ると、椅子などが立体的に見えるのだ。
 もっと見たいと思ったが、また訪れることもあるだろう、いやきっとまた来ようと思い、そこを後にした。   

 ナショナル・ギャラリーの前はトラファルガー広場。ノルウェアーから贈られたという巨大なクリスマスツリーがあった。広場には鳩の群れと、大勢の観光客。鳩のエサ屋があって、図々しい鳩はエサをやる人の手や肩や頭にとまってエサをねだっていた。

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 広場からビッグベンが見えたので、その方向に向かって歩くことにした。途中のホース・ガーズ前には、近衛騎兵隊の門衛を撮る観光客が群れていた。道を下って行くと左手にテームズ河の大観覧車が見えた。その大観覧車が見える道路脇に立て看板があり、何やら書いてあったが、そういえばクルド武装勢力がこの観覧車を占拠したことがあったと、少し前にニュースで聞いたことを思い出した。とりあえず写真におさめて、あとで読んでみることにした。

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 ビッグ・ベンの近くも観光客で混雑していた。対岸からの眺めが奇麗らしいとの連れの薦めで、混雑を逃れてすぐに橋を渡った。橋を渡る人の数もかなり多く、人の流れは対岸の大観覧車のあるあたりに続いていた。
 大観覧車は動いていたが、人は乗せていなかった。

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 地下鉄でロンドンブリッジまで移動し、ロンドン・ブリッジを渡りながらタワーブリッジを眺めた。タワー・ブリッジまで歩く元気は、もうなかった。橋をわたり地下鉄でホテルに戻ったが、地下鉄を乗り間違えて30分ほどロスしてしまった。同じホームに違うラインの電車が来ることに気が付かなかったのだった。

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 ホテル近くのイタリアンレストランで遅い昼食。勘定書のサービス料含まずと印刷してあるところがボールペンで丸をつけられていたので、チップを含めて支払った。
 ホテルの近くのコンビニのような店で買い物。ロンドンに寄ったのにギネスを飲まなかったのかと誰かに言われそうで、ギネスの缶ビールも買った。
 ホテルに着いたのは16時過ぎだったが、もう暗くなっていた。ちょっと一休みのつもりでベッドに横になったが、気が付いたら夜中の12時。近くの部屋で男同士の口論が聞こえた。 「チェンジ・ルーム、OK!?」しか聞き取れなかったが。
 その後、スチームの暖房機が暖かくなった。さっきのクレームのせいなのかと思った。暑くなったので、バルブを調整した。

3 リスボンへ(12/29)

 ロンドンは2泊だけで、その翌日は14:20のBAでリスボンへ。快晴。ホテルに荷物を預けても取りに戻る時間がないと思い、荷物を持って少しだけ観光することにした。スーツ・ケースでなく少し大きい、リュックにできるバッグにしたから出来ることだ。

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 地下鉄でヴィクトリア駅へ。休日ダイヤなのか、電車はすぐには来なかった。連れがヴァッキンガム宮殿を観たいというので、まず、そこへ行くことにしたのだが、結局時間的余裕はなく、そこだけで終わった。
 9時半頃なのに、太陽光度は低く、建物の上に朝日はあたっていたが、道路には陽はあたらず、ところどころ凍っているようなところもあった。ヴァッキンガ ム宮殿の近くの道路には観光バスが何台か停まっていて、宮殿の前には観光客がむらがっていた。

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 柵の向こうに衛兵の詰め所が見え、ちょうど衛兵が交代した後のようで、3人の(と思ったけど2人かな)衛兵が建物に入っていくところだった。 いわゆる「衛兵の交代」とは違う。門扉の大きい紋章とか、錠の部分の彫刻が印象的だった。
 地下鉄で空港へ。今度は間違えずに乗り換えることが出来た。

 ヨーロッパ便の多くはヒースロー空港のターミナル1から出る。出発時刻には早いので、モニターにはまだ搭乗便は表示されていなかった。よく見ていると、チェックインをどこでするのか、モニターに表示されていなかった。成田では航空会社のカウンターに行けばよかったし、リスボンではチェックイン・カウンターの番号がモニターに表示されたのだった。少しあせった。時間はあるから、聞け ばいいことなのだけれど、うろうろ歩いて調べてみた。みなBAのようだけれど、ワールドトラベラーって何?よくわからない。と言う事で、結局インフォメーションみたいなカウンターで聞いてみた。バッゲージがあるかないか聞かれ、あるというと、これこれのカウンターに行きなさいと言われた。
 チェックインを済ませて余裕も出て来たので、となりのターミナル2まで散歩したりした後、昼食にした。フィッシュ・アンド・チップスとも思ったが、ちょっと高く、手持ちのポンドでは足りなかったので、サンドイッチですませた。
 そうこうしているうちに搭乗の案内。機内で出された軽食はチキン・サラダだ ったが、ちょっと塩味がきつすぎて最悪。昼食をとっておいてよかった。
 隣の席のロシア人。コーヒーをこぼして「エクスキューズ・ミー」

 イミグレでは、出入国カードを書くことなく通過。日本からEUで乗り継いだ場合は入国審査は省略されるという(EUシェンゲン協定と言うらしい)ことだったが、ロンドンに寄ってきた場合も同じということなのだろう。
 名前を書いた紙を持って、出迎えの現地ガイドとタクシーの運転手がいた。今回は、イベリア専門の旅行会社のパックツアー(チケットとホテル2泊、迎えつき)にしたのだ。現地のガイドのに「Do you speak English?」と聞かれた。
 タクシーとホテルのバウチャーをガイドに渡し、現地の旅行会社のホテルバウ チャーをもらって、天気の話などをしているうちに、タクシーが来た。ガイドさんが運転手に行き先を確認して指示を出して、そこでガイドさんの仕事はおしまい。
 リスボンは雨。道路脇の気温表示は22℃となっていた。

 リスボンのホテルはパック・ツアーのホテルの延泊にした。
 昨年春に出来たばかりのそのホテルは新市街の地下鉄の近くの、名前もそのまま駅名と同じ、間口が狭くて奥行きのある、ホテルだった。部屋もそれなりの広さで、コンシェルジェはいなかったが、フロントで客の要望などに応じているようだった。TV 画面で前日までの電話や冷蔵庫使用の勘定を確認出来るという最新のシステムとなっていた。
 ホテルの近くには小さなパステラリアがあっただけなので、夕食をとりに旧市街まででかけた。
 リスボンの地下鉄は、改札にゲートがなく、自動販売機で買ったチケットに自分で時刻を刻印する機械を通して入るというもので、料金も安くどこまで乗っても1回100エスクード(=約56円)、1日券はなんと270 エスクードという安さだ。この安さと気軽さが、リスボンに何度も来させる要因 の一つかもしれない。
 旧市街の中心ロシオ広場は、半年前に来たときと同じく、まだ工事中だった。 ロシオ広場のとなりのフィゲイラ広場も工事中だ。広場をつなぐ通路から見える サン・ジョルジェ城を見上げて、またリスボンに来たのだと実感した。

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 レストランや店の並ぶバイシャ地区を歩いているとき、一人旅らしい日本人女性とすれ違った。こちらを見て、何か言いたそうな雰囲気ではあったが、おたがいに会釈しただけだった。通りの上にはクリスマスの電飾。ベルの形をしたものや、単純な光のすだれが並んでいた。

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 レストランに入った。英語のメニューを持って来られたが、ツレはガイド・ブ ックを見ながら選ぼうとしていて、該当するものがなくて困惑していた。でもポルトガル語のメニューを頼むだけの気力はないようだった。ということで、定番のカルド・ヴェルデ(じゃがいもベースでチリメンキャベツが入ったスープ)を 頼んだ。ぼくはヴィーニョ・ベルデと鶏のグリルにした。手をつけなければ料金はとられないパンと生ハムがあるので、それをいただけば十分。生ハムは少し乾 燥していたけれど空腹は最高の調味料、ということで美味しくいただいた。
 ヴィーニュ・ヴェルデは最近日本でも輸入しているものだった。そのことをウ ェイターに英語で言うと、驚いた顔をしていた。 

4 晴れている間にエヴォラへ(12/30)


 朝、青空が広がっていた。このまま良い天気が続く保証はなかったが、遠出す ることにした。
 ホテルのフロントで、エヴォラ行きのバスターミナルの位置を聞く。たぶん、 昨年迷ったすえにみつけたところのはずなのだけれど、2冊のガイド・ブックで表現が少し違っていたから、確認しようと思ったのだ。すると、何を勘違いした のか、グレイラインバスの観光チケットを持って来たので、自分達で行くと言っ たら、理解してくれたようで、バスターミナルの場所を地図上で教えてくれた。

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 やはり昨年迷ったすえに行ったバスターミナルだった。昨年はガイド・ブックの位置が古い位置を表示していて、おまけに地下鉄の駅の表示もそのままだったので、迷いに迷ってしまったのだった。
 出発便の表示をモニターで確認し、チケットを購入した。バスの番号と場所が表示されているので非常に分かりやすい。
 同じバスに日本人はほかに3組乗った。直前にバスに乗ろうとした日本人らし い女性2人が運転手に何か聞いていたが、チケットを買えといわれたのか、1人 はチケットを買いに走ったようだ。出て行くバスを見送りながら、困ったようにしていた彼女等はその後どうしたのだろうか。次のエヴォラ行きは2時間後のはずだった。
 バスは闘牛場の横を通り、水道橋の下を通って、海のようなテージョ川にかかる4月25日橋を渡って、ベレン地区を右手に見ながら、南に走った。
 テージョ川の向こう、という意味のアレンテージョ地方の、コルクやオリーブの木が広がる風景の中を、太陽を右手に見ながらバスは西に向かって進んだ。
 前の席の1人旅の日本人男性は、文庫本を読んでる様子。景色を観ないで本を読む事もないだろうにと思うが、それぞれの旅のスタイルがあるから、よけいな お世話か。
 途中のバスターミナルで小休止があった。ポルトガル語がわかるらしい日本人女性が2人降りていったが、バスが動き出しても乗ってこなかったようだった。 その連れらしい一人があわてて(3人連れのよう)運転手に「ウェイト!」 と言ったが止まる気配がなかったので、彼女はあわてて運転席に近寄っていった。 ぼくはとっさに「えしゅぺーれ、あき!」と叫んだ。聞こえたかどうかわからな いが、バスが止まり待合室から二人が出て来て置き去りにされずにすんだ。

 昼すぎにエヴォラに着いた。 

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 バスターミナルから少し歩くと城壁があり、道路は城壁の中に続いていた。 エヴォラは城壁に囲まれたローマ時代の街だ。そのまままっすぐ歩いていくと広場があった。 この広場の隅にインフォメーションがあるのだが、閉まっていた。 時計を見ると12時30分。閉まった直後だった。

 広場から、まずローマ人が作ったというディアナ神殿へ行った。 神殿には数人の観光客がいて写真を撮ったり石柱を見上げたりしていた。 ぼくたちも神殿にのぼって石の柱などをすぐ近くで見たり、写真をとったりした。 2世紀末に作られたということだが、石とはいえ野ざらしのままでいいのかなどと思った。

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 昼食は小さなパステラリアで。カテドラルは12時から14時までは閉まっているので、 時間を潰すためにあてもなく歩いてみた。小さな小路を歩いていると、ポルトガルのいくつかの街の小路が、 どこか共通点を持っているように思えた。 平坦でないことといい、両側の家の作りや2階の窓の感じといい、初めて来たのにどこかで見たような気がするのだ。


 そのうち城壁の外へ出てしまった。ちょっと大きな病院があった。 城壁に沿って歩き、また城壁内はいり、ゆるい坂を登ると、 昼食をとったパステラリアに出た。
 14時になったので、カテドラルへ行った。中に入ると八角形のドーム。その左右のバラ窓が、美しいのだと、 連れはガイドブックに紹介してあるモノを観ようとチェックしていた。 そういえば、天正遣欧少年使節の誰かがここのパイプオルガンをひいたとガイドブックには書いてあった。 宝物館に入ったときに、祭壇の上の聖歌隊の席のようなところに入ることが出来て、 たぶんそのパイプオルガン、をすぐ近くで見ることが出来た。
 ということで宝物館を見たのだけれど、あまり印象はない。むしろ回廊に出てそこから、 テラス式の屋根へ登って眺めたアレンテージョの風景が印象に残った。

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 次はサンフランシスコ教会へ。ついでに恐いもの観たさで?隣の人骨堂へ行ってみた。 人骨がモザイク壁の材料という感じで使われていて、それほど不気味とは思わなかったが、 柱などに使われている頭蓋骨は、やはりちょっと気持ちのいいものではなかった。 子供と一緒に記念写真を撮っている人がいたりして、ちょっとその神経が理解できなかった。

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 観光はほぼ終えることにし、連れが広場で焼き栗を買った。 「かんと・ふぃーか」と聞いたら「にひゃくごじゅう」と答えられて、笑ってしまった。 栗は、皮が白くなっていて、むき易く、自然の甘みがあり美味しかった。

 バスターミナルへ。出発の30分前に着いたのに予定のバスの券は買えず、 1時間半も後のチケットが渡された。もう一度、街を見てこようという元気もなかったので、 バスターミナルのベンチで待つことにした。夕方になると寒くなり、 コートを来てこなかったことを少し後悔した。
 夕日が沈む西の空に飛行機雲が2~3本広がった。 飛行機雲が広がって消えないというのは、上空が湿っているからなので、 夕焼けではあるけれど、良い天気は期待できない。


 帰りは、来たときとは違って、ヴァスコ・ダ・ガマ橋を通る特急バスだった。 橋からのエキスポ跡地のナショナル・パークの夜景が美しかった。
 20時ホテル着。ちょっと休んでから食事にと思ったが、二人とも爆睡してしまった。   

5 アルファマ散策(12/31)


 空模様がいまひとつなので、これまで2度リスボンに来たのにゆっくり廻れなかったアルファマに行ってみることにした。
 フィゲイラ広場のチケット売り場でバスと市電の1日券を買い、市電28番に乗ってアルファマ方面へ。
 カテドラルの左脇を登り、前回北ときには降りたサンタ・ルジア展望台を通り過ぎて、 広場の先の線路の分岐点で右に下がっていった。
少し大きな教会の前でおりて、その教会をのぞいてみた。 中では日曜日のミサが行われていたので、邪魔をしないようにうしろで少しだけ見学して、早々にそこを出た。
 曇り空ながら雨が降りそうで降らないというお天気だった。狭いアルファマの路地を歩いた。
 いくつかの家ではこの曇天でも洗濯物がベランダからなびいていた。
 狭い路地を、たまに自動車が入ってきたり、こんな狭いのに電車が通るのかと思うようなところを、 電車が通っていったりした。

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 電話ボックスがあったので、日本に電話しようかななどと思って電話器を見ていたときに、 観光客らしい白人男性に「にほんのとおなじでない」と言われてびっくり。
 咄嗟に何か気のきいたことばを返してやろうかと思ったが出てこなかった。 

 サンタ・ルジア展望台の横の階段を降りて下に行くと、狭い路地に果物を出して売っている店があり、 さらに行くとおみやげ店がいくつか集まっているところがあって、広場に出た。 すぐ近くにはファドとポルトガルギター博物館があった。 大型バスも何台か停まっていて、団体客が何組か来ていた。 なかには日本人の団体もいたようだった。

 その後カテドラルまで歩き、地図を見てこれからどこへ行こうかと考えているときに、 おばあさんが寄ってきて道を教えようとした。 とくにどこかへ行きたいというわけでなかったので、地図上で「アキ?」と言って、 「ここは地図上ではここか」みたいなことを聞こうとしたが、いろいろ喋られて、あたりまえだけれど、 ほとんど理解不能なまま「おぶりがーど」と言って別れた。

 少しさまよってから、ホテルに戻って昼寝。地下鉄の電車から降りるときに、 今回のオフ・ミーティングの提唱者の銀チャンと会った。近くのホテルに泊まっているのは知っていたが、 電車の同じドアで顔をあわせるなんて、どのくらいの確率なのだろうかと思った。

6 カウントダウン・オフ会(12/31)

 ホテルで少し休んでから、旧市街の待ち合わせ場所のホテルへ向かった。
 ホテルのロビーに入ると、何度かの東京や猪苗代のオフ会で会ったメンバーが何人かいた。 リスボンで会うことが出来るなんて、想像していなかっただけに、不思議というか地球が狭くなったというか、変な感じがした。


 総勢17名が集まったので、予約してあるエビカニ横丁のレストランへ移動した。 ところが予約したはずの店は、何故かほぼ満席のようだった。 隣のレストランで、「じゃぽね、じゃぽね」と一生懸命呼び込みをしていた。 始めは無視していたのだけれど、 予定のレストランがダメだというのが分かった時点でそちらに行くことにして中にはいったところ、 10数人分のテーブルがリザーブされていた。予約した店がそちらに回したということだったのだろう。

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 乗せ上手がいたのか、そのレストランのウェイターのひとりが、手品を始めて盛り上がってしまった。 やんやの喝采を受けてワル乗りしたそのおじさんが、誰かが持っていた「個人旅行」を開いて示した頁に、 そのおじさんの写真が乗っていた。何人かは、サインを書いてもらったりしていた。


 ポルトガル大好き間ばかり集まって話をしていたので、気が付いたらあっと言う間に3時間が過ぎていた。 世紀越えのカウントダウンは世界文化遺産のベレンの塔付近であるということなので、そちらに移動することにした。

 市電に乗るのは初めてという人もいたようだったが、市電が来たのでみんなで飛び乗った。 ドイツ製の2両連結の新型車両。チケットを持っていない人は中の自動販売機でチケットを買った(ハズ)。 ほとんどの乗客はカウントダウンの会場のベレンまで行くようで、それなりに混んでいた。
 電車から降りて会場のベレンの塔に向かって歩いたが、あいにく雨が降っていた。すれちがう人たちがいて、 あきらめて帰る人たちなのか気になった。

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 ライトアップされた世界文化遺産のジェロニモス修道院を通り過ぎ、発見のモニュメントを左に見て、 ベレンの塔近くまで来ると、歩道橋は鈴なりの人だった。 ベレンの塔まで渡るのは無理と考え、道路をはさんだところで日付が変わるのを待つ事にした。 ベレンの塔付近ではロックのライブが行われていた。
 時計を見ると、0時まで15分くらいあった。幸運なことに、この時には雨は止んでいた。 時々ベレンの塔のほうから歓声が聞こえた。2分前、何か、盛り上がっている雰囲気が伝わってきた。 1分を切った。オフの参加者の誰かが、スクリーンに文字が見えると言った。数字が反対に見えた。 それまでライトアップされて輝いていたベレンの塔が暗くなったり、紫色になったりした。 カウントダウンの開始だった。数字を数える声が聞こえていたハズだが、自分達も声を出していたので、 英語だったかポルトガル語だったか記憶にない。
 数字がゼロになった瞬間にベレンの塔付近からドーンと花火が上がった。それまで道路を走っていた車はすべて停止していて、 車が一斉にクラクションを鳴らしていた。シャンパンをあける人がすぐ近くにいたらしく、頭からかぶってしまった。 しばし花火を眺め、思い出したように写真を撮った。デジカメではないし手持ち撮影なので奇麗に撮れるわけはないのだったが。 空いっぱいに広がった花火の小さな光の群れが風にのって頭上を通り過ぎて行った。

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 花火が終わると、思い出したように車が動きはじめた。その後ディスコ大会が続くようなのだけれど、 あまり関心なしということで帰ることにした。ここでオフ参加者それぞれの性格の違いが現れ、 帰る方向と反対側へ行って列車かタクシーで帰ろうというグループと、 とにかくリスボン方面へ歩いていこうというグループに分かれた。 リスボン方面へのグループはさらに、満員覚悟の市電に飛び乗った組と5~6キロの道のりを歩いていこうという組に分かれた。

すりに狙われる!


 ちょうど市電が来たので飛び乗った。乗る位置が分からないで並んでいた人たちを差し置いて乗った格好になってしまった。
 身動きがとれないくらいの満員状態だった。一人の男がぼくに向かってなにか話し掛けてきた、と言うよりは何かとがめるような喋りかただった。ぼくは1日券を持っていたから、チケットを買う必要などないし、身動きがとれない状態では買うこともできない。言っていることも分からなかったので聞き流していた。
 その後、別の女がチケットとかわめきながら、人をかき分けて近づいてきてぶつかったので、ぼくは自分の身体をささえられずに倒れそうになってしまった。 その女は、人をかきわけて移動し、まわりの人に悪態をつきながら乗降口近くまで行った。先の男が、後を追うようにして移動していった。
 途中で乗客がだいぶ降りてから、ドイツからオフに参加していたBさん夫妻が乗り合わせているのが分かった。話をしているうちに、行くときにも乗っていた3人組のすりがいたということを聞いて、あの時ぼくが狙われていたのだと初めて気が付いた。サイフは上着の内ポケットで無事なのは確認していた。
 Bさん夫妻のホテルとはすぐ近くのホテルだったので、地下鉄で帰ることにしてホームで話をしながら待っていた。待つこと30分あまり。やっと電車が来て、ホテルに帰り着いたのはちょうど2時だった。

7 雨のナショナルパークへ(1/1)

 朝、身仕度を整えようとして、連れが、「そう言えば昨夜、小銭入れを持っていたわよね」と他人事のように言った。カウントダウンの花火を見に行ったベレンで、水を買いたいと言ったので、今回旅行用のサイフを持って来なかった連れに小銭入れを渡したのだった。中には500エスクードか1000エスクード札1枚といくつかのコイン、日本円でもせいぜい数百円が、入っていたはずだ。
 市電の中ですりとられたのだった。連れは、金額よりもすりとられたのが悔しいと言っていたが、ぼくは、小銭入れが惜しかった。

 雨模様の中、いままで行ったことのないカルモ教会とビッカのケーブルカーに行くことにした。
 鉄道の駅の近くで東洋系の男が路上で携帯電話のケースを並べて売っていた。前回来たときに比べて、傘売りが、おじさんおばさんだけでなく、東洋系の若い男が増えているのに気が付いた。路上の商売にも東洋系の進出が目立っていた。
 カルモ教会は、バイシャ地区にあるサンタジュスタのエレベーターで登った横にあるのだが、現在は連絡橋は閉鎖されていて、エレベーターでは行くことが出 来ない。前回来たときは、エレベーターの上の展望台から青空を背景に、カルモ教会の廃墟を眺めていた。カルモ教会は1755年のリスボンの大地震で倒壊したままの姿をさらしているのだ。改修工事は続けられているはずだ。元日なので中にある考古学博物館は当然閉まっていて入れなかった。壊れた屋根が少し見え るだけという何ともつまらない?ものだった。

 カルモ教会から少し歩くと、カフェの前にポルトガルの詩人ペソアの等身大の座像があり、観光客のカップルが記念写真を撮っていた。さらに行くと別の詩人 カモンイスの名前のついた広場があるのだが、なんとここも工事中だった。
 連れが来ないので、どうしたのかとふりかえると、若い女性と話をしていた。あとで聞いたところによると、これからパリに帰るのだけれど、国際電話のかけかたが分からないので聞こうとしたのだとか。日本人でよかったと言っていたそう だけれど、連れも相手が日本人でないと答えれられなかったし、実は前日国際電話をかけていたので、教えてあげる事が出来たということのようだった。

 午前中の目的のひとつ、ヴィッカのケーブルカーの乗り場の前には、傘売りのおじさんたちがたむろして、おしゃべりに夢中。雨がちょっと降りはじめたが、あまり商売熱心でないようで、ぼくは傘を持っていなかったのに、売ろうとしなかった。
 乗ろうと思っていたのに、ケーブルカー(電車)はちょうど坂道を下っていってしまった。写真を撮ったりして、下の電車が登ってくるまで待ったが、登ってきた電車が、すぐには動く気配がなかったので歩いておりることにした。線路の 両脇には民家があり、電車がすれちがうところは玄関の近くまで線路が迫ってい た。

 坂をおりたときに雨が少し強く降ってきたので、バスか市電に乗ろうと待っていたが、どちらもなかなか来なかった。雨が少し小降りになったこともあり、歩く事にして歩きはじめた時に、何かが額にぶつかり、眼鏡にぶつかった。道路に落ちたものを拾ってみると、マッチ棒の燃えカスだった。なんで、こんなものが と歩きながら考えて、上を見上げると、2回のベランダに2人の男がいてタバコ をすっているのが見えた。「バカヤロー」と言ったが、小さい声だったし、聞こ えても「バカリョウ」(鱈)と言われても何のことかと思われるだけだったかも。
 地下鉄でホテルまで帰って、午前の部はおわり。

 元日の午後、ホテルに戻って少し昼寝をしたあと、地下鉄で万博跡地に出来たナショナル・パークへ行った。出かけるときに、連れを傷つけるような失言(暴言)で、昼食後まで口を聞いてもらえなかったという事件はあったが(^_^;)、今では良い思い出?
 スーパーマーケットも、元日は閉まっていたが、いくつかの店やレストランは開いていた。広い公園を、連れは、つかず離れず歩いてついてきた。ぼくは、あてもなく歩き、広いテージョ川にかかる長い長いヴァスコ・ダ・ガマ橋を眺めたり、ロープにぶらさがっている動いていないテレキャビンを眺めたりした。
 遅い昼食をレストランでとることにした。英語のメニューだった。アレンテージョ風ポタージュを注文した。スープではなくポタージュと書いてあったように思う。レシートにはアソールダ・デ・ガンバとあった。ガンバはえび。アソールダはアレンテージョ風スープのことで、これは初めてポルトガルに来てセトゥーバルの豪華ポザーダに泊まったときにレストランで食べたものだ。コリアンダー、ニンニク、塩とオリーブ油で味付けし、パンとポーチドエッグを加えたアレンテージョ地方のスープ。あのときは目の前で、パンと卵を加えてくれた。
 注文して出てきたものは、味はまさしく、アソールダだったが、姿はパン粥。 味には問題はなかったが、想像していたものとのギャップは少し大きかった。
 小銭がなかったので、紙幣で勘定をすませ、隣の客がしていたように、チップを、つり銭とレシートを持ってきた小さなトレイに置いた。なるほど、こうするとスマートだ。チップの必要なレストランにあまり入る事がないので、いつもチップに戸惑うのだったが、面倒なときはこうすればいいのネ ^_^;  食欲も満たされ、仲直りもしたので、テレキャビンで水族館へ行くことにした。

 万博跡地のナショナル・パークは、海のように広いテージョ川に面した広大な敷地に作られ、 パビリオンの一部が残って、テーマパークのようになっている。
 元日のこの日は、家族連れやカップルなどで結構にぎわっていた。
 結構広いので川に沿ってロープウェーがあって、4人乗り(と思った)のテレキャビンが午後から思い出したように動いていた。 水族館まで少し距離があったのでテレキャビンに乗って移動した。

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 水族館の入場料金は1700エスクード(8.48ユーロ、約900円)であ り、ほかの料金もそうだが日本に比べるとかなり安い感じがする。生活感覚的には円とエスクードは同等と考えたほうがよいのかと思ったりする。
 リスボン水族館は、ヨーロッパで最大の水族館だということであり、見応えのあるものだった。大阪にある海遊館と同じ建築家による設計だそうで、 中央に巨大な水槽を置いて周囲に通路を配置した作り方は、海遊館とおなじだった。海遊館の水槽には、岩などの飾り物?はなかったと思うが、リスボン水族館の巨大水槽の中には岩や海草があって、 ほんとうの海の底らしくしてあった。少し暗くて、水槽の反対側まで見通すことが出来なかった気がするが、岩の間を同じ小魚が数匹、 何度もくり返し鬼ごっこをするように泳いでいる様を見たりするのは楽しいものだった。
 水族館を出たのは夕闇の迫る頃だった。
 その日、この旅行ではじめて熟睡出来た。

8 コインブラへ(1/2)

 リスボンを離れて一泊でエクスカーションの予定の日。 リスボンの南にある海岸に行こうと考えていたのだが、雨が多かったので水の色があまりきれいではないと思い、行き先を変更してコインブラへ行くことにした。
 ホテルにスーツケース1個を預け、25リットルのリュックに1泊分の身の回りの物など詰め込んで、 地下鉄でバスターミナルへ向かった。
 バスターミナルに着いて、出発予定の行き先と時刻を表示しているモニターを見ると、コインブラという文字がまったくなかった。先日このバスターミナルから持ち帰った時刻表には09:30コインブラ行きがあったのに、それがない。時刻表をよく見ると日曜日をのぞくとあり、1月2日もその扱いかと思わざるをえなかった。時刻表を示して、「コインブラ、ドイシュ」と言い、10:30のコインブラ行きの切符を買う事ができた。 切符には時刻と行き先のほか、バスの番号と乗り場番号が印刷されていた。それによると、バスは3台あり、行き先はchavesという ことのようだった。地図で調べると、シャーヴェスはコインブラよりさらに北の、スペイン国境に近い町だ。
 正月をリスボンで過ごしたと思われる息子を見送りにきた父親が手を振っているのが印象的だった。
 バスはテージョ川に沿って北上し、途中で川から離れて「ファティマの奇跡」で有名なファティマ近くの丘陵をぬけて行った。 テージョ川の近くの農地は農道が水に浸かっているところがあった。
 湖があふれて、湖岸の道路だけでなく、建物近くの道路まで浸水し、木立が水の中に立っているというような、 不思議な光景の丘のふもとの小さな町があった。水防工事をしている様子でもなかったのが不思議な気がした。

ホテル・アヴェニーダ
 バスはコインブラのバスターミナルに着いた。行き先がシャーヴェスとなっていたにもかかわらず、乗客全員が降りて、 大きな荷物をバスの横から取り出していた。バスは前部がダブルデッカーで後部の1階部分は荷物室だった。このあとバスに乗る人がいる雰囲気でもなく、 いったいシャーヴェスって、何なのだろうと思った。
 道路に出ると、タクシー乗り場に大きな荷物を持った人たちが並んでいた。街の中心まで遠くないし、荷物も重くないので歩く事にした。 丘の上にコインブラ大学の時計塔が見えた(と思う)。
 コインブラの鉄道駅は二つあり、街の中心にある駅はA駅で、特急などが止まるB駅は市街地から離れている。 6月に来たときは、B駅付近から川の北の丘の上に広がるコインブラの街を遠くに眺めただけだった。 まさか半年後に来ることが出来るとは思ってもいなかった。
 駅前で、近くを見渡すとちょっと格調の高そうなホテルが目についた。 とりあえず泊まるところを確保しようと、そのホテルまで行ってみた。 英語で泊まりたいと言うと、ダブルベッドならあるという。価格表を見るとシングルが12000エスクード(約6700円)で、 ポルトガルとしてはちょっと高そうな雰囲気なので、やめた。 あとでわかったことだが、そのホテルには日本人の団体客が泊まっていたようだった。
 次に目についたのが、そのホテルから少し歩いて橋を過ぎたところにあるホテル。英語で応対してくれた。 部屋を見たいと言わなかったのに、部屋を見せると言って案内してくれた。 最初の部屋でここでいいと言ったが、もう一つ見せるといって案内してくれたのが、道路に面した大きな部屋からつながる少し広い部屋。ちょっとしゃれたアンティーク家具があり、そこからも川が見えた。 少し広すぎるのと、ベッドがダブルベッドというのが問題だとは思ったが、そういう部屋に泊まって見るのもいいかと思った。 値段は前の部屋と同じかと聞くと、ちょっと高いと言い7000エスクード(約4000円)だとのこと、その部屋に決めた。
 パスポートを渡すだけでチェックイン完了。暖房は温熱ファンヒーターなので、少し寒そうな気もした。 あとで「個人旅行」にその部屋の写真が載っていることが分かった。 「個人旅行」には築100年以上を経た、歴史的趣ある建物と紹介してあった。

コインブラ 対岸へ
 ホテルも確保したので、遅い昼食をとりに外へ出た。

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 橋を渡ったところにあるレストランに入った。何を食べたか、つれあいのメモには、

アロース・デ・タンボリル(あんこうのリゾット)、カルド・ヴェルデ、ミネラルウォーター、ビール、プリン、ティラミス、コーヒー

 と書いてあった。コロッケとハムはテーブルに出ていたが、食べなければ請求されない。


 満腹感で幸福な気分にひたりながら、新サンタクララ修道院への登り道を歩いた。 道端に祠のようなものがいくつかあり、中に何かの像があったが、どういうものかよく分からなかった。
 登り道の途中で、モンデゴ川の向こうの丘の上に広がるコインブラの街を眺めた。ちょうど太陽の光が街全体を明るく包み、 すばらしい眺めだった。二人で「いいねぇ」と言っていると、上から降りてきた白人男性が日本語で「いいでしょ」 と言って去っていった。突然の日本語に、またしても「とっさのひとこと」が出てこなかった。

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コインブラ大学
 新サンタクララ修道院の隣の軍事博物館は、建物の前に戦車があり、入り口には歩哨が立っていた。興味がないのでパス。
 修道院の前から改めて、陽に照らされて明るく映えている、アルカソバの丘の上に広がるコインブラの街を眺めた。 修道院のあたりは建物で陽がさえぎられて影になっていたからか、いっそう美しく見えた。
 坂道を降りて橋を渡り、とりあえずコインブラ駅まで戻った。 時計を見ると午後4時半になろうとしていた。「個人旅行」によると、コインブラ大学は14時~17時となっていたので、 タクシーでコインブラ大学へ行くことにした。
 旧大学への入り口「鉄の門」をくぐると中庭に出た。川の向こうからも見えた時計塔が正面にあった。 日本人と思われる若いカップルと彼等を案内す るポルドガル男性、それと数人の観光客が歩いていた。
 礼拝堂に入ってみた。壁も天井も見事な装飾で、圧倒された。右側の壁には、多分パイプオルガンが、 これまた金ぴかに飾りたてられてあ った。

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 礼拝堂の左隣が有名なBiblioteca(図書館)。閉まっていた扉が開いて、中から年配の男性が顔を出した。 チケットを買ってきなさいということらしいので、急いでチケットを買いに行ったが、案内版がなくて少し戸惑った。時間があまりなかったので、 「らいぶらりーおんりー」と言ってチケットを買った。
 図書館に入ると3人のフランス人観光客と一緒になった。先程の男性が説明してくれたが、言葉が分からないまま、 しぐさや聞き覚えのある単語がたまに出てきて、それなりに分かったような気がした。
 上のほうの棚の本を取るためにのぼる階段の扉を開けてみせてくれたり、壁側にある狭い読書室に入って、 本を読む格好をしてみせてくれたり、てい ねいに説明してくれた。
 あとで分かったことだが、「歩き方」には17:30までとなっており、チケット販売が30分前で終わるということのようだった。 ガイドブックは1冊だけに頼るのはやめたほうがよいようだ。
 図書館を出ると、西の空が薄い茜色になっていたが、空には雲が広がっていた。


コインブラの夜
 旧コインブラ大学の門を出て、さてどうやって下の街まで降りようかと考えた。 バス停留所があるが、どこ行きのバスに乗ればよいのか分からなかった。バスの通る道には、 トロリーバスの架線らしい線が張られていたが、トロリーバスは見掛けなかったなぁ、などと思いながら、 ふと見上げた木に黒いマントの切れ端がひっかかっていた。黒いマント姿の学生が見たかったが、冬休みの大学構内は閑散としていた。

 ガイドブックの地図を見ると、ホテルまで歩いても近いようなので歩くことにした。狭い一方通行の坂道を、時々車が通っていった。
 ホテルの近くまで10分とかからなかった。そのままホテルに入ると出るのが億劫になると思い、街を散歩することにした。 夕闇が迫って、通りにはクリスマスの電飾が明るさを増しはじめていた。

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 振りかえると橋の両側にはサンタクロースの電飾が街路灯の上に連なっていた。通りは道路を横断する電飾で、暖炉に靴下の絵柄や、プレゼントの箱の絵柄だった。若者が二人、三脚を使って写真を撮っていた。

 通りを歩いて市庁舎のほうまで歩いてみた。通りの両側には店が並んでいた。市庁舎前の広場で焼栗を売るおばさんがいた。焼栗の機械は手でハンドルをまわして空気を送り、 炭火の火力を強めるようなしくみになっているようで、それを見ているのも面白いものだった。
 連れが、このあたりにコインブラファドを聞かせるバーがあるはずで、そこに行ってみたいというので、探してみた。 道に迷って工事中の現場に出てしまったが、コインブラでも比較的大きな工事がされており、 コインブラよお前もかと言いたくなってしまった。
 バーも、その近所のレストランも閉まっているところが多かったので、あきらめた。
 ホテルへの帰り道、パステラリアで最中のようなお菓子がショーウィンドウに並べられているのを見つけた。

9 雨のアヴェイロ(1/3)


 コインブラからリスボンへ帰る途中で、アヴェイロに寄ることにした。コインブラA駅からB駅まで普通列車で行き、B駅で乗り換え。スーツケースをもって、リスボン行き特急アルファに乗り換えるためにあわてて走っていく人が何人かいた。
 ポルト行きの電車が、どのプラットホームから出るか分からず、少し不安になっていた時に、駅舎に近いホームに吊リ下げてあるモニターに、乗るべき電車の行き先と時刻、ホーム番号が表示された。 乗客がそれを見て移動を始めたので、ぼくたちもホームに移動した。雨はまだ降っていた。
 30分でアヴェイロに着いた。アヴェイロはコインブラとポルトの間にある水の都。 運河には海藻肥料を運ぶモリセイロという、極彩色の絵で飾られた小舟が浮かべられている。 それを見るのと、駅の壁のアズレージョを見るのが、アヴェイロに来た目的だった。


  アヴェイロの駅に着いたときに、日本人団体客が駅へなだれ込んできた。電車で移動するようすでもなかった。 カメラを手にしている人が多いのを見ると、アズレージョを見にきたのだろう。

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 駅のホーム側の壁、ホーム側にあるトイレの壁それと駅舎の壁に青色のアズレージョがあった。 夏に来たときに特急アルファの窓からちらりと見たそれとは印象が少し違って見えたのは、雨のせいだろう。


 雨のなかを運河へ向かって歩いた。中央分離帯に並木が続く道路をまっすぐ行くと、運河に出た。 モリセイロがすぐ近くに2隻浮かんでいた。その少し先に3隻違った色の小舟が浮かんでいた。 雨だったからか、残念ながらそれほど奇麗には見えなかった。

 観光案内所に行って地図をもらった。先客は男性一人女性2人の日本人連れ。 男性が英語でいろいろ聞いていたようだった。聞くとアヴェイロを拠点にあちらこちらに行っているとのこと。 ちょっと情報交換。北のほうはずっと雨だったようだ。
 外に出ると日本人の団体を載せたバスが泊まっていた。その日の朝コインブラ駅の近くのホテル前に停まっていたバスだ。 アヴェイロ駅に来たのもこの団体かもしれなかった。

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 あらためて雨に濡れているモリセイロを見た。観光客用に係留してあるという感じなので、少しだけ興ざめ。 そんなことを言うと、ポルトのワイン運搬船ラベーロも、同じことが言えるのだけれど。
 観光案内所で貰った地図をたよりに雨の中を少し歩いてみた。 教会の壁にもきれいなアズレージョがあったが、晴れていればもっと鮮やかに見えたかもしれない。
 別の運河に出た。その運河の北には塩田が広がっているはずだったが、雨の中を歩きたくなかったので引き返した。
 ふたたび中央運河。観光案内所の近くの中央運河に港の事務所があって、見る場所によっては水の上に浮かんで見えるという。 その建物の壁は塗り換え中で、これもガイドブックの「美しい色彩の建物」とはちょっと違う感じ。
 昼食はガイドブックにあった連れが行きたいというレストランを探すことにした。

 雨の中、レストランを探したが、見つからなかった。駅まで来てしまったので駅の近くのレストランで妥協することにした。
 入ったレストランは、地元の人たちで賑わっていた。メニューには手書きで2種類くらい書いてあるだけ。
 どんなものを食べているのか観察したが、魚のようなものか、肉のようなものとしか分からず、手書きの文字は判読のしようがなかった。スープ2つと、メニューの2つのうちの1つ、それとビールを頼んだ。大盛りの肉が出てきた。ふたりで食べてちょうどよいくらいの量。 何の肉か分からなかった。連れが、羊かなぁと、言っていたが、羊は薄く切って焼いたジンギスカンしか知らないが、初めての味だった。 1900エスクード(約900円)。チップは不要の庶民のレストランのようだった。
 駅でリスボンまでの特急アルファのチケットを買った。 チケットを買うときに、窓口の駅員がポルトガル国鉄のピンバッジを見せて、要らないかというしぐさをしたので、記念に2つ買った。

10 リスボンへ・帰国


 特急アルファに乗るのは2回目。半年前にポルトからリスボンへいったときとまた同じく、中央の向かいあった席になってしまった。 広軌なのだけれど、座席は左右に2列ずつ、後部の席は前を、前部の席は後を向いている。 車内の気温と外の気温の表示や速度の表示がされるが、外の気温は15~6度。リスボンを離れるときにバスからも見えた、水浸しの畑や木立の景色が見えた。 夕刻にはリスボンの手前の万博跡地のオリエンテ駅に着いた。そこで降りて、スーパーマーケットでおみやげの買い出し。
 地下鉄で移動し、ホテルへ再チェックイン。 預けておいた荷物をホテルマンが部屋まで持ってきてくれたので、チップを渡した。TVでサッカーの試合をやっていたのでそれを観戦。何の試合か覚えていないし、夕食をとったかどうかも、今となっては記憶にない。

帰国(1/4)

 リスボンからの帰国便は、ロンドン経由の早朝の便。08:15発なので、2時間前を目安ということで、5時半にはホテルを出ることにした。
 ホテルのチェックアウト手続きを済ませて、タクシーを呼んでもらった。フロントの男性から、英語で「エヴォラへは行ったのか」と聞かれた。エヴォラへ行くバス・ターミナルの場所を尋ねた人だった。
 「バスで行くことが出来た。素晴らしい街だった。」と言ったあと、もうちょっと気の利いた感想を話そうと、少し考えていたら、言葉が続かなくなった。 彼は、わかったわかったというようなそぶりで、無理して下手な英語を喋らなくてもいいよというように優しく、ぼくが話そうとするのを制してくれた。
 ちょうどタクシーが来たので、荷物を持ってもらってタクシーに乗り込んだ。 サンキューと言ったか、オブリガードと言ったかは覚えていない。それにしても、もっと英語話せるようになりたいものだと、改めて感じさせられた。
 リスボンはその朝も雨だった。飛行機は、海のようなテージョ川を北に飛び、万博跡地の公園を左に見ながら更に高度を増して行った。 増水し、川と岸の境があいまいになっているテージョ川を見ながら、この次はいつ来る事が出来るのだろうかと考えていた。

==おわり==

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