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1999年 初めてのポルトガル

リスボンへ


 はじめてのポルトガル旅行は、はじめての個人旅行だった。
 12時成田発のパリ行きエールフランスに乗るために、前日に東京へ入った。出発の2日ほど前に、事故で東北新幹線が遅れるということがあったからなのだ。
 チェックイン時にスクリーンの前の席をリクエストしてみた。B747にはスクリーンはなかったのだけれど、翼付近のトイレの前の、足を伸ばせる席がとれた。

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シャルル・ドゴール空港

 シャルル・ドゴール空港で乗り換え。係員に聞いて、モニターの表示でも確認した搭乗口で待っていたが、時刻が迫ってもリスボン行きは表示されなかった。係員に搭乗券を示してたずねると、後になって変更されていたのが分かり、あわててそちらに移動した。
 パリまでは日本語のアナウンスもあったが、パリ~リスボンはフランス語、英語、ポルトガル語のアナウンスで、何を言っているのかほとんど分からなかった。日本人の乗客の数も極端に減ったようで、少し心細い感じがした。
 機内サービスがまわってきたので、シャンパンを頼むと、サーティー・フランと言われ、ワインはどうかというようなことを言っていた。ワインではちょっとアルコールの摂り過ぎになるかと思い、ジュースにした。ヨーロッパ内の路線ではシャンパンは有料のようだった。

 リスボン空港には予定通りに着いた。自動両替機があったが、使えない状態のようだったのでインフォメーションで両替の場所を聞いて5万円だけ両替した。
 タクシーでフィゲイラ広場近くのホテル・ムンディアルへ。空港にはロッシオまでタクシーで1000PTEと書いてあったが、2000エスクードだと言われ、納得できなかったが支払った。
 ホテルのレセプションにバウチャーとパスポートを示してチェックイン終了。時計を見ると22時になっていた。その日はおとなしく眠ることにした。
 


ベレン地区へ


 翌朝、6時起床。7時半にホテルを出発した。その日は妻の計画に従ってベレン地区を重点的にまわり、夜はファド鑑賞の予定。
 フィゲイラ広場では鳩の群れにパンくずをやっているおじさんがいた。広場を横切って、テージョ河へ向かう道路を歩いた。

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フィゲイラ広場からのサンジョルジュ城

 サンタ・ジュスタのエレベーターが見えたので、リシュボア・カードを買うために立ち寄った。もとがとれるかどうかは分からなかったけれど、結果的には午前中で歩くのをやめてしまったので、ちょっと損したかなという感じだった。48時間券を買って、翌日はシントラ観光で使うという方法もあるから、精力的に動いて博物館とか美術館にも行きたいという人にはお徳なカードであるようだ。
 すぐ近くのパステラリアで、軽く朝食をとろうということになった。レイテというと「ミルク」と言ってガラスのコップにミルクを入れて出してくれた。
 テージョ河の方向へ歩いていくと、コメルシオ広場に出た。フェリーから降りてきた通勤の人たちが、勤務先へと急いでいた。傘を持っている人が多かった。

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コメルシオ広場

 カイスドソドレ駅近くから市電15番に乗ってベレンへ。
 フィルムを全く持ってこなかったことに気がつき、発見のモニュメント近くのみやげ店で1本買った。
 発見のモニュメント近くに来たときに、テ-ジョ河を白い帆船がさかのぼってくるのが見えた。白い三角帆を5本あげた真っ白い船だ。いつか、あんな船で旅行してみたいものだと思いつつ、とりあえず写真だけで我慢することにした。

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テージョ河

 発見のモニュメントの上に上った。リシュボア・カードを持っていなければ上らなかったかも知れない。年寄りの観光客グループが入場料を見て引き返して行ったように。
 上まで上ると、海のようなテージョ河、ベレンの塔、反対側には4月25日橋が見え、陸に眼を転じるとジェロニモス修道院やオレンジ色の屋根が美しい街並みが見えた。下でぼくたちを珍しそうに見ていたたぶん遠足の生徒の団体があとから上ってきたので、景色を十分には堪能したぼくたちは細長い屋上から退散した。

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発見のモニュメント

ベレンの塔からジェロニモス修道院へ
 発見のモニュメントからベレンの塔まで歩いた。すぐ近くに見えたのに、結構遠かった。霧雨が降ってきた。河岸では数人の男たちが釣りをしていた。
 ベレンの塔の近くにも団体客のバスが何台か停まっていた。ベレンの塔の入り口には跳ね上げ式の橋がかかっていた。要塞として使われていたとのことで、2階には大砲がテージョ河に向けて置いてあった。

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ベレンの塔

 ジェロニモス修道院へ。正門から入った教会の本堂には修学旅行の生徒たちが多勢いたので先に回廊を見ることにした。TBSの世界遺産で見ていたせいか、あまり感激はなかったが、柱の彫刻にいろいろな物が掘り込まれているのを見て回った。

 本堂の柱はガイドブックには「巨大なヤシの木と比較される」とあったが、TBSの「世界遺産」では胡椒の木を模したものと言っていた。アラベスク形の天井をささえるその柱が、不思議な空間を作っていた。

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ジェロニモス修道院

 昼食はベレンのオ・ファガレイロというレストランで、ビーニョ・ベルデの赤とバカリャウ・ア・ブラース(干しダラと玉ねぎとポテトの卵とじ)を。小さいサイズを頼んだら赤が出てきたようだったけれど、辛口で美味しいビーニョ・ベルデだった。料理のほうは少しばかり塩辛かった。;
 その後、パステイス・デ・ベレンという有名なお菓子屋へ行ってポルトガルのエッグタルト、パステイシュ・デ・ナッタを買った。テイクアウト専用の紙の筒に入れてもらったら、シナモンの小袋も入っていた。

 市電に乗って、ホテルへ戻り、少し昼寝をしてから、夕方6時頃にファドを聞くために、また街にでかけた。

ファド・レストラン
 ホテルで少し休憩した後、夕方7時頃だっただろうか、ホテルを出てロッシオ駅付近まで歩いた。
 雨が降 ったりやんだりしていた。
 行こうとしている店はロッシオ駅の西側のバイロ・アルト地区のファド・レストラン街にある。
 地図を見ながら歩いたが、どのように行ったらよいかわからない。
 迷いながら歩いているとロッシオ駅のプラットフォームに出てしまった。
 駅の南の坂道を登っていくと広場があって、教会があった。それはサン・ロケ教会だとわかった。

 細い小路に入るのは少し怖かったので、地図を見ながら広い通りを歩いていくと、ケーブル・カーの線路と、公園があった。地図で確認するとアルカンタラ展望台だ。
 しばらくそこからリスボンの夜景を楽しむ。サン・ジョルジェ城がライトアップされていて綺麗に見えた。
 狭い小路に入った。日本人女性が一人、濡れてふやけた「歩き方」を見ながら歩いていた。彼女もファドを聞きにいくのだろうか。あるいは、レストランを探しているだけか。
 地図で確認しながら目的のファド・レストランを目指した。ある店の前で店名の入った絵葉書を渡されたので、名前を見ると「オ・フォルカード」と書いてあった。そこが目的の店だった。

 案内されて入っていくと、日本人の団体客が入っていた。ステージのすぐ近くの席に案内された。
 座ると間もなくファドの演奏が始まった。時計を見ると21時15分。

 ファディスタは女性3人、男性1人だった。いくつか知っている曲が歌われた。 「ポルトガルの四月(コインブラ)」では客に「ラ・ララ・ララ・ラー」と唱和させ、サービス精神旺盛だった。
 男性歌手ははじめ黒いマントを被って歌っていた。ああ、これがコインブラ・ファドなのだ、と思って美声に聞きほれた。
 おきまりのテープ販売も、酔いも手伝って気前よく買ってしまったが、さすがに全員から買うわけにはいかず、最後に売りにきたファディストには、要らないと言い、悪いことをしたような気持ちになってしまった。
 若いウェイターが英語で応対してくれた。相棒がトイレの場所を聞こうとして、用意して持っていった単語カードを彼に見せたときに、彼が一瞬フリーズして、戸惑っているのが分かった。どう対応してよいか分からないという様子だったので、彼が手にしているカードを見ると「気分が悪いのですが」というポルトガル語が書かれていた。^_^;
 カードの両面にフレーズが書いてあり、渡したときに別の面を見たのだった。カードの別の面を示すと、胸をなでてほっとしていた。後で彼が、同僚にそのことを笑いながら話していたのは言うまでもない。
 ファドのほかにフォークダンスも披露された。

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 十分楽しんだので、勘定を頼みタクシーを呼んでもらってホテルまで帰った。時計を見ると、もう24時になろうとしていた。

ホテル探し

 さて、リスボン3日目の朝。
 この日はEメールで予約しておいたセトゥーバルのポザーダに泊まる予定なのだが、翌日以降のホテルは確保していなかった。
 前夜ホテル・ムンディアルで部屋が空いているか聞いたが、満室とのことだったのだ。
 チェックアウトしたあと、ロビーに相棒を待たせてホテル探しに出かけた。す ぐ近くのホテルやフィ ゲイラ広場の近くのホテルに行っても空きはなかった。あるホテルで聞いてみたら、「I don't know」 といわれてしまった。さらに聞くと10時すぎに、ここに電話しなさいと言って、電話番号を教えてくれた。しかし、明日は団体が入るから、空きはないかもしれないとのこと。大きい荷物を1つホテルに預けて行くつもりでいたので、10時まで待つことは出来なかった。
 どうするか悩んだ。出来るかどうか分からないけれど、電話で予約してみよ うと思った。ガイドブックにあったホテル・リシュボアに電話をしてみた。 ぼくの貧弱な英語で通じるだろうかという不安はあったが、そんなことを考えている場合ではなかった。すると明日は空いているというので、すぐに行くと言って、電話を切った。まてよ「行く」はGOと言ってしまったけれど、よかったのかななどと考えたが、行けば分かることだ。
 ホテルに戻りタクシーでホテル・ リシュボアへ行った。「先ほど電話したものです」というようなことを言うと、すぐに分かってもらえたので、改めて土曜日と日曜日も予約し、ひと安心。デポジットを要求されたので1泊分を現金で払い、荷物を預かってもらった。
 リシュボア・カードは24時間使用できるので、それで地下鉄に乗ってバイ シャまで行き、テージョ河を渡るフェリー乗り場に急いだ。

アゼイタォンのワインセラー


 フェリーに乗りカシーリャスへ。フェリーから眺めるリスボンの町も綺麗だったが、時々小雨が降ったりして見通しは少し悪かった。
 リスボン対岸のカシーリャスに着いた。フェリー乗り場の前にはバスターミナルがあり、近くに造船所があった。
 バスターミナルの近くにはカフェのような店があった。相棒がトイレに行きたいと言った。コイン式 の楕円形の筒のようなトイレがあったので、使ってみることにした。5エスクードと書いてある。2枚しかなかったが、5エスクードがないとどうするのだろうと思った。5エスクードが数多く流通しているとは考えられなかったからだ。
 用事を済ませた後、水が流れないよと助けを求められた。以前ニフティのどこかの会議室で誰かが書いているのを読んだことがあったので、そのまま出て閉めてみれば、と無責任なことを言ってみた。閉め るとすぐに中を水で洗い流す音がした。
 バスのチケット売り場の窓口で、紙に行き先を書いて、「ドイシュ」 と言ってヴィラ・ノゲイラ・デ・アゼイタオン行きの切符を買った。「オンデ?」と聞くと指差して乗り場を教えてくれた。それぞれの乗り場まで行って時刻表を見ないと行き先がわからないのだ。全部の乗り場を確認しなくてもすぐに分かったのでひと安心。

 20分ほど待っているとバスが来た。運転手に行き先を告げて教えてもらおうとしたが、運転手は理解したかどうか、少し不安だった。約1時間で少し大きな町に着いた。そこが目的地だった。

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アゼイタォン

  「地球の歩き方」によるとバス停留所からはこの辺だというところに J.M.Fonsecaのワインセラーがあった。入るとすぐに係員が手招きした。午前最後の見学に間に合ったようだった。団体旅行などと一緒に説明を受けながら見学して回った。ポルトガル語での説明を団体のガイドがフランス語(たぶん)で通訳しながら回った。この団体とは翌々日にシントラで遭遇したのだが、先方は全く気がつか なかったようだった。
 ワインの樽を寝かしてある蔵を2つ見て回った。1つは裸電球が1つついているだけの真っ暗でかびのにおいのする場所だった。説明はまったくわからないが、樽の木の種類とか、中のワインが年代物だとか、多分そんなことを言っていたようだった。
 最後にショッピングコーナーのようなところへ行った。グラスに入れられたワインを2種類試飲した。小さ いちょっと形のかわいい瓶のワインがあったのでそれを3本とソムリエ・ナイフを自分用に買った。ワインは輸出用のラベルが貼ってあった。LANCERS という名前のホワイト ・ワイン(テーブル・ワイン)だったが、帰国後飲んでみると、スパークリング・ワインで、ビーニョ・ベルデのような味わいだった。

アゼイタオン
 昼食時なので、どこかで食事をと思った。普通の家のようなところで何人かがテーブルで食事をしているのが、道路から見えたが、看板も何も出していないので入るのがためらわれた。軽食でいいということになり、パステラリアに入って、チーズをはさんだパンとジュースを頼んだ。パンは、薪の灰がついているような、たぶん手作りのパンで、チーズは相棒に言わせると、山羊か羊のチーズではないかというものだった。

 バス停2つ先の隣町にアズレージョ工房があるはずだった。歩いていけば分かるだろうと気楽に考えて歩きはじめた。雨が時々強く振りはじめ、高速道路のようにくるまが飛ばしていた。一つの傘を二人でさして歩いていると、クラクションを鳴らされたりした。歩道のない道路の右側を歩いていたからと気がついた。反対側へ渡ろうと思ったが、くるまの数が多いわけではないけれど、高速道路のような感じなので、くるまが見えているときは怖くて横断できないのだ。道路の右にも左にもくるまがないのをみはからって横断しなければならなかった。
 雨のなかの草原に草を食みながら移動している羊の群れが見えた。羊飼いがひとり、ゆっくりと羊を追い立てていた。時間がゆったりと進んでいるような感じだった。一幅の絵のようなその景色に見とれてしまった。

 やっと隣街に着いた。「歩き方」の地図で見当をつけたあたりに行ってみたがアズレージョ工房らしきものは見当たらなかった。工房の名前をメモしてこなかったことに気がついたが、もう遅い。街のなかを彷徨することになってしまった。各家の壁には綺麗なアズレージョがあり、どこを切りとっても絵はがきになるような美しい街だった。
 突然、2階の窓が開き、女性が敷物か何かのごみを払い落とそうとした。おもわず、「こんにちは」と言ってしまった。突然のことで「ボア・タルデ」が出てこなかったのだ。女性は突然の、東洋人の闖入者に驚いたようで、固まっていた。

アゼイタォンのおじいさん

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 結局、アズレージョ工房は見当たらなかった。名前をメモしてこなかったから誰かに聞いてみるということも出来ない。あきらめて、もうちょっと綺麗な家々を眺めようと歩いていると、横丁からおじいさんが出てきたので、こんどは「ボア・タルデ」ときちんと挨拶できたのだった。何をしているのだというようなことを聞かれたようだったので、家の壁のアズレージョを指差して、「アズレージョ」を見ているのだと伝えた。すると、その老人は「アズレージョ」の発音が違うのか、2~3回「アズレージョ」と言い、ぼくたちの発音を矯正しようとした。そして、自分はアズレージョを作っていたのだというようなことを身振りで教えてくれた。さらに近くの教会を指差し、そこのアズレージョも美しいのだと、言っているように聞こえた。街のはずれにあった小さな教会は門はしまっていたが、教会の塀の内側が綺麗なアズレージョで装飾されていた。

 そのおじいさんは、別れるときに連れの手を握り、「ムイト・ボニータ」と言って妻と握手 をしているのだった。英語ではジョリーと言うみたいなことを言っていたが、「Jolly」って愉快なって意味ではなかったかと思いつつ、何を言いたいのかよく分からないのだった。

 老人とわかれて街を出て、再び道路を歩いて行くと、古いバスが何台もおいてある場所があった。バス停留所はその建物にあり、バスの燃料の給油もしている場所だった。

セトゥーバル

 しばらくしてやってきたバスに乗ってセトゥーバルに向かった。雨があがり、オレンジ色の屋根がこじんまりと集まっている美しい村が見え隠れした。アラビダ山脈のごつごつした感じの地肌の山が見えた。
 約15分で、人口約10万、ポルトガル第3の工業都市セトゥーバルに着いた。
 インフォメーションで地図をもらおうと思い、バスターミナルから河のほうへ歩いていった。
 狭い路地を歩いていくとT字路になっていたり、L字路になっていた。どこかに似ている、と思った。ベネツィアにも、このような路地があった。
 インフォメーションに入ると、床がガラスになっていて、その下には何かの遺構が見えていた。驚いて見ていると、インフォメーションのガラス越しに、おどけたようにしてガラスの下を指差して何かアピールしている青年がいた。そこは考古学博物館だった。
 インフォメーションでもらった地図は、COSTA AZULの絵地図になっていて裏側はポルトガル全土の60万分の1の地図だった。もう1枚欲しかった^_^;
 タクシーで宿泊予定のサン・フィリペ城へ向かった。タクシーは街のはずれの丘 を登っていった。城の前の駐車場についたのは4時前だった。門をくぐって行くと玄関前のテラスからはポザーダのHPで見たとおりの景色が広がっていた。

ポザーダ サン・フィリペ

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 テラスからセトゥ ーバルの街が見下ろせた。そこから目を右に転じていくと、海のような河が広がり、 その先にリゾートホテルが建っているトロイア半島が、大西洋と河を分けていた。
 到着が早過ぎたのか、レセプションには誰もいなかった。声をかけると女性があらわれた。予約確認のEメールのコピーを示すと、署名とパスポートを求められてチェックインは簡単に終わった。
 部屋は玄関のすぐ上で、見晴らしのよい部屋だった。連れは感激して、綺麗なう ちに部屋の写真を撮れと言う。広角レンズでないから、良い写真は撮れないよと思いつつ、何枚か写真を撮った。
 さて、もう一度景色をゆっくり見ようと外へ出ると、さっきまでとはうって変わって雨が降り始めていた。街並みは少しは見えたが、青い河と空はもう見えなくな った。しばらく待ってみたが、雨はやみそうになかったので、あきらめて部屋へ戻 って休憩したのだった。
 少し眠りすぎてしまい、眼がさめたのは8時を過ぎていた。8時半頃にポザーダの食堂へ行くと、テーブルの半分くらい、6~7組の泊り客が食事をしていた。日本人女性2人連れが2組いた。

 レシートがあるので何を食べたかをふりかえってみた。
 COUVERT 2ツ     パンにつけるパテなどのセット
 SALAD FRESCA C/MOL. サラダの盛り合わせ
 CANJA DE CONQUILHAS 何のライス・スープだったか忘れた
 AÇORDA DE MARISCO  魚介のアソーダ(パン粥)
 DOCARIA DA POUSADA  シュークリームのようなお菓子?
 PEIXE DIA      塩辛いハムを魚肉ではさんであった
 D.CASA DE SANTAR 035 ダンのワイン、ハーフボトル
 CAFE         コーヒー
 CHA          紅茶
 魚介のアソーダは、目の前でパンの中にえびなどの具を入れて、ぐしゃぐしゃに まぜてから、別の皿に入れてよそってくれた。合計10,400エスクード。ちょっと贅沢してしまった。

雨のセトゥーバル

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 夜中に目がさめたときに窓の外を見ると、セトゥーバルの街の明かりが雨の中ににじんで見えた。
 朝、小鳥の鳴き声で目がさめて窓の外を見ると、霧と強い雨で何も見えなかった。風も強かった。
 朝食後、勘定を済ませてポザーダを後にした。2階の客室から若い女性が偶然 こちらを見て、どちらからともなく挨拶を交わした。ポルトガルの、このような場所で偶然、同胞に出会ったことからの、親近感がそうさせたのだろうか?

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 タクシーでセトゥーバルのイエスの教会へ行った。この教会はマニエル様式のはしりといわれる、縄をあんだようなねじれた柱で有名。壁のアズレージョ?も 綺麗だった。おばあさんが一人、パンフレットを売っていたが、知り合いがやってきてお喋りをしていた。
 雨がまだ降っていた。相棒の傘だけでは濡れてしまうので、通りかかった店で売っていた折り畳み傘を買った。中国製で2000エスクードだった。
 バスターミナルを探しながら歩いていると、市場があったのではいってみた。 床のモザイク模様と壁のアズレージョが綺麗だった。
 前日歩いた迷路のような小路を歩いて、フェリー乗り場の近くを通り、鉄道の線路の近くを迷いながら歩いて、やっとバスターミナルに着いた。

霧のパルメラ

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 バスで、パルメラへ。丘の頂上にある城に登ったときは、雨はあがったものの霧でなにも見えず、一瞬晴れたときにパルメラの街が見渡せただけだった。バス停の時刻表で適当なバスがないことが分かっていたし、バス停近くにタク シー乗り場らしいものが見あたらないのも分かっていたので、ポザーダに行ってタクシーを呼んでもらった。
 タクシーの若い運転手は英語を話した。ポルトガルははじめてか。日本からか。きょうは天気が悪くて残念だね。などと言っていた。こちらも、もうちょっと気の利いたことを喋れればよかったのだ けれど、英語で話しかけられるということは予想していなかったので、イエスと か、ポルトガルが気に入ったとかいう程度のことしか喋れなかった。
 そのタクシーにはメーターはついていなくて、降りるときに換算表と距離計の数字を示された。8キロだから895エスクードとのことなので、1000エス クード札(約700円)を渡して「キープ・ザ・チェンジ」と言った。
 セトゥーバルのバスターミナルから、リスボン行きにバスに乗った。

再びリスボンへ


 セトゥーバルからリスボン行きのバスに乗ってリスボンへ。バスは高速道路を 走った。4月25日橋の手前でクリスト・レイの上部が土手の上に見えた。あれ、 あんなに小さかったのかなと不思議に思っていると、クリストレイの台座の部分が見え始めて納得。土手のすぐ上にあるように見えて小さくみえただけの錯覚 だった。
 4月25日橋を渡り、水道橋の下を通ってバスはエスパーニャ広場へ着いた。
 地下鉄に乗ってホテルへ戻ったのは午後3時を少しまわっていた。少々疲れたのでお昼寝。これまでの旅行では、この昼寝がなかったので後半になってしんど かったし、スペイン旅行ではフラメンコやライトアップした街を見ることが出来なくて、相棒から文句を言われたのだった。

 夕食は相棒がチェックしておいたバイロ・アルトにあるカジュアル・レストラ ン「ヴァ・イ・ヴォルテ」で。時間が早かったせいか、客は若い日本人女性が一人いただけだった。一人で食事をしていた彼女に、「こんばんは」と声をかける と、彼女唐突に「話は変わりますが、英国航空に乗ってらした方ですか?」だっ て。まだ何も話してないのに^_^;「いいえエール・フランスです」と言って話はそれで終わってしまった。
 スープはソーパ・ア・アレンテジャーナとソーパ・デ・マサを頼んでみた。ア レンテージャ風スープはパンが入っていて、それだけでも満足しそうな量だった。ほかにアロース・デ・マリスコス(英語メニューではフィッシュ・アンド・ライスだって^_^;当たり前か)とコジート・ア・ポルトゲーザ(肉やソーセージ、豆、野菜のごった煮)。ちょっと量が多くて、少し残してしまった。

 夕食後はオフで知り合った銀ちゃんから教えてもらったウェッブ・カフェに行くことにした。レストランの人に聞くと、すぐ近くとのこと。そのレストランと同じ通りにそのカ フェはあった。入り口から覗いてみると、PCが3台置いてあるのが見え、女性 が一人、PCの前でキーボードをたたいていた。
 1時間ほどメールを出したり、いくつかHPを見たりしてすごした。相棒はコーヒーを飲みながら、自分の旅行ノートに何やら書いていた。1時間700エスクードだった。

闘牛場


 カシーリャスのフェリー乗り場付近で見たポスターで、その日の22時から闘牛があることが分かっていた。昼間は雨が降っていたが、もう雨はあがっていたので 闘牛場へ行ってみることにした。
 地下鉄駅から地上に出てみると、すぐ近くにあるはずの闘牛場が見つからなかったので、通りかかった人に聞いてみた。最初、何を聞かれているのか分からなかったようだったので、ホテルに置いてあった闘牛のチラシを見せると、すぐそこだと教えてくれた。さらに、その日は雨で中止になった、というようなことを言ってい た。
 照明が落ちていたのでわかりにくかったが、すぐ目の前が闘牛場だった。闘牛場へ行ってみると、日曜日16時に延期と書かれたポスターが貼ってあった。

バス・ターミナル
 5月7日金曜日。朝食を早めにすませて、ホテルに大きい荷物を預けてナザレ方面への一泊のショート・トリップだ。ホテルを出て空を見上げると、雲の隙間から青空が見えた。 CNNの天気予報でも青空が期待出来そうだった。
 ところが、バス・ターミナルを探すのに時間がかかってしまい、バス・ターミナルに着いたのは、30分前にバスが出たあとだった。次のバスまで1時間半。結局2時間のロスをしてしまった。

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 それで疲れたわけでもないのだろうけれど、バスに乗り込んですぐに眠ってしまった。オビドスの城壁が車窓左手にその全貌を現した頃にちょうど眼がさめた。道路標識を見ると、あと5キロでカルダス・ダ・ライーニャとなっていた。

 カルダス・ダ・ライーニャでバスをおりてタクシーを探した。タクシー乗り場らしいところには車はなく、呼び出し用の電話があるだけだった。鉄道の駅に行ってみたが、そこにはタクシー乗り場らしいものはなかった。駅前にいた男のひとに聞いてみると、バスターミナルの近くだというようなことを言っていた。
 ちょうど昼食の時間だったのでタクシーがいないのだろうと考えて、昼食にすることにした。人が沢山はいっているパステラリアに入って、パンとジュースなどを頼んだ。

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 街で胸に写真をぶらさげて募金を集めている若い女性に声をかけられた。「英語を話すか」「障害児のための募金を集めているが、協力してくれないか」みたいなことを言っていた。二人で募金を「集めていたようで、別の人は老婆からの募金を受け取っていた。2000エスクードくらいしていたように思う。マドリッドで「エイズ救済募金」とやらで2000ペセタ取られて?しまった経験のあるぼくは、素直には協力できなかった^_^;

オビドス


 タクシー乗り場へ行くと今度はタクシーが客待ちをしていた。タクシーでオビドスまで1000エスクード。パルメラが8キロで1000エスクードしなかったのに、5~6キロなのにちょっと高いのではないかと思った。
 オビドスは快晴。ポルタ・ダ・ビラ(町の門)には信号がついていて、門の中は鍵型になっていた。門の壁と天井にはアズレージョが施されており、自動車が通ってあぶないというのに、立ち止まって写真を撮っている人もいた。

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 少し登りになっている小路を歩いていくと、突き当たりに城があった。インターネットで予約しようとしたが、予約がとれなかったポザーダだ。その近くから城壁に登ることが出来て、城壁にかこまれた、こじんまりとした街を見渡すことが出来た。城壁を歩いて周っている人が結構いた。一周は時間がかかると思い、城壁を半分ほど歩いてまわった。
 城壁の外には大規模農場が広がっていた。線路を列車がトコトコ走っていくのが見えた。

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 十分景色を堪能したので、再びタクシーでカルダス・ダ・ライーニャへ戻った。 バスのチケットを買うと、そこに来ているバスに乗れという。バスには行き先はナザレとは書いてなかったが、チケットを見せると乗れというので、すぐにそのバスに乗って、ナザレへ向かった。
 バスがナザレのバスターミナルに入るときに、バスに寄ってきて乗客を見て叫んでいる数人の女たちがいた。まるで獲物を探して、自分のものだと言い合っているような雰囲気を感じた。

ナザレのアパート


 バスを降りると客引きの女がすぐに言い寄ってきた。英語で喋っていた。良い部屋がある、見るだけでもいいから見ろという。その日は金曜日だった。海岸のほうのホテルなどで良い部屋はとれないかもしれないという気がしていたので、 見るだけみてみようかということにした。
 そのおばさんは、鍵をジャラジャラさせながら持って海と反対のほうへ歩いていった。途中まで、客の獲得競争に負けたらしいおばさんも一緒に歩いていた。
 日本にアミーゴがいて、手紙とか写真とかを持っているよと話をする。そう言って安心させようということなのだろうか。

 アパートの最上階の、海が見える部屋に案内された。ダブルベッドにピンクのベッドカバーだ。ダブルベッドには少し抵抗があったが、アパートに泊まってみるのも悪くないという気持ちのほうが勝った。
 フロアの半分に3部屋とバス・トイレとキッチン、冷蔵庫があった。1日6000エスクード、2日なら安くするとのこと。相場がわからなかったので言い値でOKしてしまった。
 カギの使い方を教えてもらった。共通部分のドアが開かなかったので別のカギと交換していたようだった。ドアを閉めて電灯をつけ、部屋にはいったら廊下の電灯は必ず消すようにと言われた。ことばはよくわからないが、そのようなことを言っていた。カギはいつ誰に返したらいいのかと聞くと、部屋にいれておけとのことだった。

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 しばらく休んだり、部屋のベランダからの眺めを楽しんだ。通りの向かい側には壁一面が青いタイルで飾られた建物があった。いくつものオレンジ色の屋根の向こうには青い海が広がっていた。太陽が沈むまでまだ少し時間があるようだった。

 さて、出かけようということになって、部屋のカギをチェックしてみようと思った。カギの使い方を教えてもらったときに、カギがうまく開かなかったのを思い出したからだ。実は成田から出発する前日に、東京にいる娘のマンションに泊まるために合い鍵を作ったのだが、作ってもらったときに、「合わなかったらレシー トと一緒に持ってきなさい」と言われたのが妙にひっかかっていたこともあった。
 内側からは開いたが、外から開けようとすると開かなかった。何度もやってみ た。一度だけ開いたが、あとは何度やってもついに開かなかった。さあ、こまった。このドアーはオート・ロックなのだった。
 オートロックなのだけれど、ドアをあけたままロックすれば、ドアは完全には 閉まらないので、その状態にして海のほうへ行ってみることにした。でも、やは り気になって、気もそぞろ。おばさんを探そうにも、あのアパートに住んでいる かどうか分からない。
 仕方がないので、アパートに戻って、善後策を講じることにした。
 食事に行っている間に閉められてしまったら困るから、別々に食べに行こうか、 それとも何か買ってきてアパートで食べようか。
 妻は、半分あきらめた感じで、「私ここにいるから、あなたが食べてきたら」 なんてことを言い始める。「それともここはあきらめて、別のところを探す?」 3部屋あるうちの一部屋は、おばさんが出入りしていた部屋だったが、ドアに はカギがかかっていなかった。テレビが置いてあったが、生活しているという雰囲気ではなかった。もう一部屋は、カギをさしてあった。その合い鍵は新品だったが、それで開くかどうか、再度試してみた。やはり開かなかった。
 こうなったら、払ったお金を惜しむより、別のところに泊まったほうがよいに決まっている。一人で宿を探してくることにした。

ナザレの夕日


 妻をひとり残してナザレの海岸のほうへ歩いていった。アパートの部屋を貸したおばちゃんがいないかと、少しは希望を持ってきょろきょろ探してみたが、見つかるワケがない。久しぶりに手にした大金を、どう使おうかと思い悩んでいるのだろうと思うことにした。ポルトガルの最低賃金のたぶん、1日分以上の金額だったのだから。
 ガイドブックでメボシをつけたホテルに行って見た。通りの北の端にあるア・クバータというホテルだ。「豪華なソファーが置かれた静かなスィートルームにオフシーズンなら5000$で宿泊できる」と書いてあった。
 レセプションで聞くと、空き部屋があると言う。見ますかというので、見ることにした。海が見える部屋は全部ふさがっていたが、真中の廊下の突き当たりにベランダがあって、そこから海を見ることが出来た。部屋も悪くない。泊まることにした。朝食込みで二人で5000エスクードだった。あとで案内を見ると通常は6500から13000エスクードということらしかった。

 アパートに帰って荷物を持ってホテルに行った。途中、4000エスクードで良い部屋があるよ、と声をかけられた。アデガ・オセアーノというホテルだったが、これもガイドブックに記載があった。先ほどは荷物なしで歩いたから声をかけられなかったのだ。このホテルのレストランでは、後で夕食にすることになった。

 砂浜に出て、夕日が大西洋に沈むのを眺めた。近郊から遊びにきていたであろう自動車の列が海岸の通りに出来ていたが、それほど混雑はしていない。まだ観 光シーズンには早いのだろうか。

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 砂浜には飼い犬を散歩させている人がいた。首輪をつけていない別の犬とじゃれあっているのを見ながら、ときどき自分の犬を呼び寄せていた。

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 夕日が海に沈んでしまったのを見届けて、夕食にした。海岸の近くのレストランへ入った。席は半分ほどあいていたが、やがて満席に近くなった。メニューを 見てひととおり頼んだ。注文を聞いて、ウェイターがシュリンプは要らないかというので、頼んだ。さらに、クラブはどうかというので、それは断った。
 ゆでたえびが皿に山盛りに出てきたときは驚いた。3~4人分くらいはありそうだった。そういえば、えびを頼むときは量に注意しろみたいなことを、何かで 読んだようだと、そのときに思い出した。
 頼んだ料理の中ではえびが一番美味かった。美味かったから許してやることにした。(自分を^_^;)
 請求書には3キロと書いてあったと思う。えびだけで、3800エスクー ドだった。
 アパートの鍵の件といい、山盛りの海老といい、ちょっとこの日はチョンボが重なってしまったのだった。
 ホテルで二人で思い出して笑ってしまった。

リスボン市内


 土曜日の昼下がりのリスボンの街は人通りが少なかった。

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 地下鉄駅から地上に出ると、ディパックを背負ったショートパンツの4人の少女たちが記念写真を撮っていた。空は抜けるような青。くっきりした黒い影を作って、彼女たちが横一列に並んで歩いて行った。
 ホテルに戻って昼寝をしたあと、リスボン市内を歩いてみることにした。


 まず、フォス宮のインフォメーションへ行ってリスボンの地図などを貰った。でも結局、個人旅行の地図を見ながら歩いたけれど。
 グロリアのケーブルカーは工事中だった。車輪などがはずされて坂になっている線路の上に放置されていた。線路沿いの壁には、いくつか絵と文字が描かれていた。

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 サン・ペドロ・デ・アルカンタラ展望台からの展望を楽しんだ。オレンジ色の屋根の向こうに緑の丘があり、サン・ジョルジェ城の城壁が見えた。
 少し歩いて、市電に乗ろうと思ったが、反対方向の電車は来るものの、目指す方向の電車はなかなか来なかった。
 開いている本屋があったので入ってみた。英葡辞典がないか聞いてみたら、ないという。あとで気が付いたが、そこはスペイン語専門店だった ^_^;
 坂道を下って歩いていくうちに、コメルシオ広場に近づいていることに気がついた。停留所に人が沢山並んでいたので電車に乗るのはあきらめた。

 いいかげん歩き疲れたので、タクシーでサン・ジョルジェ城に行った。快晴の空の下にテージョ河が光っていた。

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 城壁はそれまで見たオビドスやパルメラの城より大きなものだった。城壁に囲まれた中庭に入ると、聞いたことのある音楽が流れてきた。アルハンブラ宮殿の思い出だ。男の人がコインの入った箱を前にしてリコーダーを吹いていた。城壁に反響して、音響効果抜群だった。

 城壁を歩いていると、子どもが日本語をしゃべっているのが聞こえてきた。見ると、女の子を二人連れた日本人家族が望楼で写真を撮っていた。道を譲るときに挨拶を交わした。

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 城壁からリスボンの街並みを望んだ。陽が西に傾き、テージョ河が光っていた。4月25日橋とクリストレイが見渡せた。

 城壁から市街へ歩いて降りていく人たちが見えたが、歩く元気はなかっやので、タクシーで地下鉄の駅まで行くことにした。

 タクシーに乗ってメトロのロッシオ駅までと言うと、運転手が何か不満げに文句を言っていた。日本人がどうの、ホテルがどうのと言っているようだった。ホテルまで送るから、ホテルの名前を言えと言っているようだ。ホテルまで行くつもりはなかったから、ロッシオ駅までお願いした。
 運転手は不満そうだったが、ロッシオ駅の近くで停めた。390エスクードだったが、500エスクード札を出すと、つりはないという素振り。こちらも細かいコインはぜんぜん持ち合わせていなかった。つり銭はあきらめた。

コロンボ・ショッピング・センター


 地下鉄ガイヴォタ線コレジオ・ミリタール・ルース駅で降りて、コロンボ・セ ンターに買い物に行った。最終日に、疲れた身体にムチ打って?行くよりは、余力のあるうちに行っておこうと考えたのだ。
 リスボンの中心部をはなれると、地下鉄の乗客の中に、アフリカ系住民の割合が多くなり、身なりのあまり良くない白人もちらほら目に入るようになった。
 コロンボ・センターは、広すぎて迷いそうなところだった。パンフレットを 見ても、よく分からなかったが、とりあえずスーパー・マーケットCONTINENTE へ行った。結局そこしか行かなかったけれど。おみやげのチョコレートやいわしのパテなどを調達した。
 塩を探していると、ショッピング・カートをころがして買い物をしていた男の人が、「それは砂糖だ」と英語で教えてくれたので、「塩をさがしている」と言うと、一緒に探してくれた。それほど、でしゃばりでもないこういう親切がいい。

シントラへ

 次の日は日曜日。日曜日にシントラに行くのは、混んでいて、どうかなという気もしてはいたが、予定通りシントラへ。
 ロッシオ駅からシントラ行き電車に乗った。乗客はひとつの車両に10人もいなかった。同じ車両の離れたところに、前日サン・ジョルジェ城で会った親子が乗っていた。挨拶しようかと思っているうちに、前のほうの車両に移ってしまった。

 途中のカセム駅で電車がとまった。ほとんどの客が降りて行った。アナウンスがあったようだけれど、意味がわかるわけがない。座席に座ったままでいると、男の人が駅前に停まっているバスを指差して、「カーゴ」で行けといっているようだった。礼を言い、わけのわからないまま、駅を出て、バスに乗った。バスにはALEGUERと書いてあったが、キップを見せて乗ったから間違いではないだろうと思った。
 あの親子はどうしたのかと見ていると、プラット・フォームを歩いてくるのが見えたが、同じバスには乗らなかった。

 シントラ駅の観光案内所でシントラの地図をもらった。

シントラ王宮
 シントラ駅の壁は茶色のタイルの縁取りの中に青と赤の模様のタイルがある比較的シンプルなものだった。イスラム様式というのだろうか。

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 バスの時刻などを調べたあと、車道に沿った歩道を歩いて王宮へ行った。入場料を払おうとすると、要らないという。渡されたチケットを見ると0エスクード と印字されていた。そういえば、2年前にトレドで昼前に入った博物館も入場料は要らないと言われた。
 せかされるようにして階段を上り、王宮の中に入った。時計を見ると11時半。13時までは見学できるはずなのに、なぜか、あわただしく見てまわった。観光客が多いこともあったのかもしれない。広い台所と天蓋付きのベッドと、白鳥の絵のある部屋しか印象にない。アズレージョの部屋もあったようだが、印象が薄い。無料だったからなのかもしれない^_^;
 見学が終わって外に出ると、どこかで見たことのある女性が旗を持って団体を引率して、これから王宮に入ろうとしていた。アゼイタォンのワインセラーで一緒になった団体だった。
 バス停で434番のバスを待った。観光バスが何台も停まっていた。
 同じバス停で中学生くらいの少年2人と少女1人もバスを待っていたようだっ たが、なかなかバスが来ないのであきらめて歩きはじめた。彼らは駅まで行くよ うだった。ぼくたちも歩くことにした。
 途中、ムーアの泉で水を少し飲み、水をペットボトルに入れた。王宮へ行くと きに見たときは、車で来ている人が大きなポリタンクにいくつも水を入れていたので、寄ってこなかったのだ。
 途中で車道からはずれて小径に入った。緑の多いちょっと広い遊歩道という感 じの小径だった。径の脇でお昼にしている家族連れがいた。
 シントラ駅に戻り、バスの時刻を確認した。少し時間があるので、パステラリ アで昼食にした。馬鹿の一つ覚えのようにlaranjaと言ったら、SUMOでなくSUMOL という炭酸飲料が出された。これも、さっぱりして良かった。

ムーアの城跡
 

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 434番のバスは500エスクードで当日なら何度でも利用できるチケットがある。
 他のバスには乗るには別に料金が必要で、どのバスにも乗れるチケットは1250エスクードとのことだった。500エスクードのチケットを買ってバス に乗った。
 駅からムーアの城跡まで時刻表では10分となっていたが、実際には20分かかった。入り口前には駐車場があって、マイカーが何台か停まっていた。石の門をくぐり、倒木の下を通ってムーアの城跡へ入っていった。
 城壁をひとまわりした。緑の森のなかに散在する館や王宮の眺めは素晴らしかった。遠くには大西洋 も見渡せた。

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 城壁の中は城壁と石と木々のほかは何もないように見えた。建物は残っていないのだろうが、建物ははじめからなかったのではないかと思えるほど、城壁と石と木が、その全てであるような気がした。

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 これから行こうとしているペナ宮が、さらに奥の山の頂にピンク色の姿を見せていた。
 幅の狭い城壁があって、高所恐怖症でなくてもちょっと足がすくみそうなとこ ろもあったが、城壁をゆっくりひとまわりすると1時間が経っていた。

ペナ宮


 ムーアの城跡の入り口に出たときにちょうどバスが発車するところだった。慌ててバスに走り寄っていったが、運転手の反対側だったこともあってか、バスはそのまま走り去った。それまでは、だいたいタイミング良く乗れていたのに(リスボンのバスターミナルを見つけられなかったときを除いて)。
 次のバスまで30分待つのもバカらしいので、歩くことにした。日曜日であるからだろう、マイカーで来る人たちも多かった。ペナ宮のゲートに近づくと路上駐車の車が何台かあった。

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 ゲートを入ると、電車のような緑色のバスが停まっていたので、それに乗ってペナ宮までの坂道を運ばれていくことにした。坂道の途中で、歩いている人たちが、疲れて乗せてもらいたい素振りでうらめしそうにバスを見ていた。バスはガタガタ揺れながら坂道を登り、数分でペナ宮に着いた。

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 ペナ宮からムーアの城跡を見ようと思ったが、テラスなどは反対側にあったようで見られなかったし、ペナ宮の中の部屋からも見ることは出来なかった。
 中の見学をするときはカメラなどは持ちこめず、荷物と一緒に預けて入っていた。 贅を尽くした調度品の数々を見たはずだが、何を見たか記憶に残っていない^_^;
 いろいろな様式がごちゃまぜになって出来ている建物ということだが、どこが何という様式なのか、黄色の丸い屋根がイスラム的なビザンチン建築で、茶色のねじれたような柱がマヌエル様式だろうくらいしか分からなかった。色も形も違う建物が合体しているという不思議さ。いとこが建てたドイツのノイシュバイシュタイン城に強く刺激されて建てたということらしいが、なんとも不思議な城だ。
 帰りは、同じ道は行かないで、他の人たちが歩いていく径を下ってみた。緑の木々の間を下って行くと、ムーアの城跡に出た。数人の観光客がバスを待っていたので、城跡の入り口前の空き地で遊んでいる数匹の野良猫を眺めながら待つことにした。

 バスはムーアの城跡からペナ宮の前のゲート、サン・ペドロ教会、王宮を通ってシントラ駅まで30分かからずに着いた。
 チケットは往復買っていたのですぐにホームに入って電車に乗ると、電車はしばらくして動きはじめた。

闘牛場へ


 ロッシオ駅に着いたときには17時になろうとしていた。雨で延期になった闘牛は16時から行われているはずだった。遅いかもしれないが、いちおう闘牛場へ行くことにした。

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 闘牛場へ着いたときには、開始時間から1時間半過ぎていた。窓口でチケットを買おうとすると、英語を話す人に代わってくれて、あと1時間で終わるけどいいのかというようなことを言われた。承知して一番安い席のチケット(BANCADA1000エスクード)を買った。ちなみに、その次に高い席は2000、一番よい席は2500エスクードだった。ゲートは閉められ中に制服を着たガードマンが立っていた。チケットを見せるとゲートを開けて入れてくれた。そのすぐ近くでうろうろして様子をうかがっていた、年金生活者らしい観光客のグループが、ぼくたちがチケットを買って入るのを見て、あとからはいってきた。

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 一番安い席のチケットだったけれど、観客席の入り口にはチェックしている人がいなかったので、一番近い入り口から入った。正面の一番高い席に入ってしまった。たぶん市長などの座る主賓席の真後ろに出たようだった。トランペットを持った人が主賓の後ろの席に座っていた。その席の真向かいあたりが安い席なのだろう。ひとつのセクションに1人から数人座っているだけという寂しさだった。主賓席側の席は半分以上埋まっていた。低い柵を乗り越えて、その主賓席のあるセクションの隣に移動し、楽隊のすぐ近くで見ることにした。
   
               闘牛

 楽隊は、アルバイトでやっているという感じの人たちだった。リーダーの合図で適当なタイミングで演奏をしていた。
  闘牛場の中では黒い牛と闘牛士が対峙していた。3試合目の途中のようだった。牛は、スペインで見たものより少し小さめな感じがした。牛の角の先は落としてあって、尖っていないようだった。
 スペインでは闘牛士のことをマタドール(殺す人)というが、ポルトガルでは、直接は殺さないからだろうが、 トゥレイロ(遊ぶ人)というとのことだ。ピンクのマントで牛の気を引いたり、そらしたりしていた。

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 カバレイロ(騎士)がすらりとした白馬を華麗に操って牛の背中にヤリを刺していった。牛に追われて突かれそうになる場面もあったが、ぎりぎりのところでかわしていた。

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 赤い腹巻?をした8人の牧童が出てきた。一列にならび、勇気のある先頭の一人が前に進み出た。牛が向かってこないので、牛に近づいて挑発した。牛が突進してきて、角を掴んだが、そのまま突きとばされ振り落とされそうになった。ほかの牧童が次々に飛び掛り押さえ込んだ。

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 牛の動きを封じたあとに、一人が手に土をこすりつけてすべらないようにしていた。そして牛の尻尾を力いっぱい掴むと、他の牧童は一斉に牛から離れ場外へ逃げた。

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 牛が自分の尻尾を掴んでいる牧童を振り放そうとぐるぐる廻ったが、牧童は踏ん張ってブレーキをかけていた。何度かぐるぐる廻ったあと、牛が戦意を喪失した頃を見計らってに、その牧童も役割を終えて安全柵を越えて場外に出た。

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  その直後に場内にやや大きめの白と茶の牛が数頭放たれ、闘牛を包み込んでともに退場して行った。

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 観客からは拍手のほかに帽子が投げ込まれたりしていた。右隣の席にいた子どもたちは、はしゃいで紙ヒコーキを飛ばしていたが、闘牛がはじまっても飛ばしていて、邪魔だったのに、一緒にきているおとなたちは注意しようとしなかった。

 闘牛が終わって外に出ると、動物保護団体らしい一団が横断幕をかざして抗議のシュプレヒコールをしていた。

元闘牛士?


 闘牛場を離れ地下鉄に乗った。地下鉄を降りて、ホームのベンチに座って、夕食の予定のレストランをガイドブックでチェックしていたとき、小柄な男がぼくたちに声をかけた。親指を立てて、何か喋っていた。
 何を言おうとしているのかよく分からなかったので、怪訝な顔をしていると、闘牛場で聞いた音楽をハミングして踊りはじめた。踊っているように見えたが、たぶん、闘牛士のパフォーマンスのつもりだったのだろう。こちらも理解して、指を牛の角のようにして、分かったということを伝えた。
 彼が近寄ってきて、何か話したが、言っていることが分かるわけはない。でも身振りなどで、彼が闘牛にかかわっていたらしいことが分かった。
 突然、シャツをまくりあげて、腹の大きな傷跡を見せた。そして「ギブミー20エスクード」と言った。どういうことか分からなかったのだけれど、少しためらった後に20エスクードを渡すと、その男は右ひざをついて、何か礼を言って去っていった。
 あれはいったい、何だったのだろう?

リスボンの夜
 日曜日の夜なので、開いているレストランは観光客向けしかないようだった。

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 ガイドブックにあった、ラヴラのケーブルカーの近くのヴェルデマールというレストランに行った。ガイドブックには、「新鮮なシーフードを低料金で楽しむ」とあった。時間が早かったので入ったときは3番目くらいだったが、出る頃は満席に近くなっていた。ほとんどが観光客のようだった。
 英語のメニューもあったが、どこか違和感があった。ガイドブックに載っている料理名を確かめながら見ると、ポルトガル語のほうが分かり易い感じだ。タコの炊き込みごはん(Arroz de Polvo)などを注文した。

 ワインを注文したが、ワインクーラーが手の届かない少し離れたところに置かれてしまい、あせった。いままでは、手の届くところに置かれたことしかなく、グラスが空になると、自分でワインを注いでいたものだから。ワインをワインクーラーに入れて出されるというレストランにもあまり入ったことがないのだけれど^_^;
 すいている時は、ウェイターがこまめにチェックしているようで、気が着いてくれたが、少し混んで来たときは、間があくのだった。身分不相応のことは、するなということか、どのように対応したらよいか分からないのだった。

 食事を終わって、勘定をお願いしようと「ア・コンタ・ポルファボール」と言うと、隣で食事をしていた男性がこちらを見て笑い、そのフレーズを口のなかで復唱していた。

 夕食が終わって外へ出るとまだ明るい。午後8時をまわっていた。レストランでコーヒーを頼んだが、マシンが壊れていてコーヒーはできないと言われたのだった。どこかでコーヒーを飲もうかということになったが、どうせならと、バイロ・アルトのウェッブ・カフェへ行くことにした。

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 ロッシオ駅の横の階段を登った。ここを通るのは3度目になるが、たそがれ時は初めてだった。ふりかえると、サン・ジョルジェ城が正面に見えた。階段に沿って何軒かレストランがあったが、中には外にテーブルを出して営業している店もあった。眺めはいいけれど、ちょっと落ち着かない雰囲気だ。店の人に「グッド・イヴニング」と声をかけられた。
 ウェッブ・カフェのPCには先客がいたけれど、1台あいていた。隣のPCではメールをチェックする若者が二人いたが、すぐに終わらせてカウンターのほうへ移動していた。

 とりあえず、いくつかWEBサイトをさまよった後で、メールチェック。
 いつのまにかはいってきた時計売りの男を、カウンターにいた客がとり囲んで腕時計の品定めをしていた。


 ホテルへの帰りは、ふたたびロッシオ駅の横の階段の坂道を通った。先ほどのたそがれ時とは変わって、ライトアップされたサンジョルジェ城がその美しい姿をリスボンの夜の街にくっきり浮かび上がらせていた。

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 ロッシオ駅講内を通って、地下鉄駅へ歩いていった。夜の10時前だったけれど、日曜日だからなのだろうか、広い連絡通路にもエスカレーターにも通行人がほとんどいなかった。

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 翌朝の早い便でパリ経由で帰国。ポルトガル旅行の最後の夜は満足感の中で静かに過ぎていった。
 

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