バーニングマン2023振り返り Day2-仲間が集まった

月曜日

朝、目が覚める頃までには、ガラガラだったオープンキャンプエリアにも次々と新しい人たちがやって来ているだろう、という僕の予想は完全に外れた。昨日の夜に比べても、チラホラと車が増えている程度で、大きなRV(キャンピングカー)が近くに停まって、僕のテントを風や日差しから守ってくれたらラッキーだな、なんて考えは甘かったようだ。

バーニングマンのチケットを手に入れるのは、いつもはなかなか大変なことだ。オンラインで数回に分けて行われるチケット販売では、通常数秒も経たずに1回数千〜数万枚のチケットの行き先が決まってしまう。(単純な早い者勝ちではなく、ある程度の購入希望者をプールした後抽選になるらしいが、いずれにせよチケットは瞬殺)

運良く購入画面まで進めた人は、そこで1人2枚までの入場券(と、車用のパス1枚まで)が購入できる。僕はいつも大体1人で参加するのだけど、とりあえず入場券は2枚買っておく。必ず、誰かチケットを欲しがる人がいるからだ。僕が前回参加したコロナ前の2018年あたりまでは、額面の数倍、いや10倍でも買いたいという人が多くいた。もちろんそういった高額転売は原則3「Decommodification(商業主義の否定)」を掲げるバーニングマンの禁忌事項の中でもとりわけ忌避感が強いものの1つで、まともなバーナーは知り合い同士の譲り合いや、バーニングマン公式サイトのチケット転売システムを通じて定価でチケット移譲を行う。

今年は何故かチケットが多く余り、転売目当てでチケットを購入した人だけでなく、キャンプメイトのために1枚でも多くとチケットを確保していた参加者が、タブついたチケットの行き先に頭を悩ませている様子が、facebookに数多く存在するバーニングマン関連各グループで散見された。去年の悪天候に懲りた初心者が逃げ出したからではないか、というのが多くの人の推測だった。僕もこれまでで初めて、余分に購入したチケットの行き先に困り、共通の知り合いを通じてDにたどり着いたのだった。

メッセージのプロフィール写真に映るDは、退役軍人のような影と精悍さを感じさせる複雑な表情をしていて、お世辞にもフレンドリーな人物には見えなかった。少し古い写真だったのだろうか、歳の頃は60代半ばに見えた。青みがかった蛍光灯の薄暗い光に照らされたDからは、ちょっととっつきにくそうな印象を受けた。

それでも、Dの参加12回のバーニングマンに関する知識と経験から僕が学べることは多そうだし、僕は出会うべき人と人を繋げる「縁」の力を信じてきた。長い低迷の期間から、こうやって再びバーニングマンにこれるくらいまで僕が復活できたのも、いろいろな人との不思議な縁に助けられてきたからだ。

こういった奇跡を信じるバーナーは多い。”Playa provides”と彼らはいう。望めよ、さらば与えられん。バーニングマンの会場で、奇跡的な偶然の出会いや、その後の人生を大きく変える出来事を経験したという人は多い。そうした体験が現実に起きるからこそ、バーナー達はここに戻ってくるのだ。いや、そういった体験を現実のものにするため、予定調和を目指すデフォルトワールドとは正反対の、人間が快適に生きるのには全く相応しくない場所へ、僕たちはわざわざ苦労してまでやってくるのだ。

果たして、Dと僕は驚くほどの共通点を持っていた。まず、Dの元奥さんは日本人で、親戚周りで長い間日本を旅したこともあるということ。それに、双極性障害の娘さんと、どのように接したらいいか悩んでいることは、自分と弟の関係性を思わせた。何より、アル中で15年ほど行方不明になった挙句、離島のアパートで1人変死した自分の父が生きていれば、ちょうどDぐらいの年頃だったことは、Dとの旅を通して度々僕の鼻腔の奥の血液をツーンと熱くつまらせた。全く尊敬できなかった父との精神的な和解は、今回僕の裏テーマでもあったのだから。しかも、Dは現在アルコールの問題を乗り越えるためAA(アルコール中毒患者の自助会)に通っているというではないか。BRCにもAAのキャンプを見つけ、足繁く通っていたのは印象的だった。また、実際に会ったDは、写真から受ける陰鬱な印象とは正反対の、ドラゴンボールの亀仙人を思わせる陽気なヒッピー爺さんだったのにも、心の底からホっとした。(本人は自分のことをヒッピーだと思ったことは一度もないと明言していたことも追記しておこう)もうすぐ誕生日を迎える74才だと言うのにはビックリしたけど、彼とならこれからの1週間うまくやっていけそうだと思えた。

まだまだ新鮮な弾力を保った冷えたミニトマトを朝食につまみながら聞くDの身の上話が2週目に突入しかけたちょうどその頃、黒いフォルクスワーゲンのSUVで颯爽と現れたのがAだった。彼女の登場には、「kabooom!!(ババーン!)」とアメコミ調の効果音がつきそうな勢いがあった。ショートパンツから剥き出しの太腿にはタトゥーのマシンガンが収められ、胸にはそれが彼女の名札であるかのように”BAD GIRL”と彫られていた。

人生そのものがバーニングマンで、生まれつきのバーナーだと嘯く彼女は、ウォルマートのセールで「タダ同然」で買ったという、おもちゃのような大型テントを持ってやって来た。明らかに一度返品されたものを格安で放出したB級品で、付属のペグは最初から曲がっているし、テントを支えるメインのポールも貧弱で、今年のチケット余りの原因とも言われる、去年のような強烈な砂嵐が再び襲って来たら、簡単に凧のように舞い上がってしまいそうだった。

古参バーナー達の間では、テントやシェードなどの構造物をしっかりと地面に固定して、時折起きる強い砂嵐に飛ばされないようにと、30cmほどに切った鉄筋をテントペグがわりにするということが推奨されている。もっとも、それを実際しっかりやっている個人バーナーはかなり少数派だと思うが、それでも彼女のテントは、生まれつきのバーナーのものにしては随分粗雑に見えた。とにかくDと2人で彼女を手伝って、ふにゃふにゃなテントを建てることには成功した。彼女のテントは、昔のアニメサザエさんのエンディングに出てくる家のように、風に吹かれるたび大きく左右に揺れ、まるで踊っているようだった。来週のエクソダス(会場からの脱出)まで無事ここに立っているかどうか見ものだな、と密かに思ったけど、言わないでおいた。そうなったらそれはそれで面白いではないか。

次に現れたのは、Eだ。Eは、確かテキサスあたりで成功したビジネスを2つほど売却したばかりの、リッチで恰幅のよい髭面の男で、これまたある典型的なアメリカ人像を象徴するようなキャラクターだった。買ったばかりのピカピカなRVでバーニングマンに来てしまう程のワイルドさを誇らしげに話し、皮肉に気づかずバーニングマンだけで使う偽名「プラヤ・ネーム」に「Dollar」を選びたがる Eは、少しバーニングマンには場違いに見えた。デフォルトワールドで彼と出会ったら、僕たちは友達になったか分からないが、ここでの彼は悪い奴ではなかった。Dollarついでに僕の事を「K-money」と呼びたがったのにはちょっと参ったけど、たかが名前くらい、彼の好きにさせておいた。すぐにK-moneyからmoneyは抜け落ち、僕はただのKとなった。

Eは、いわゆるアメリカン・ドリーム的な成功が自分と家族、特に奥さんとの幸せに繋がらなかったことで、葛藤を抱えていたようだ。勝手な推測だけど、それが今回初めてのバーニングマンへの参加に繋がったのだろう。彼の、自信に満ち溢れているようで、ところどころに自虐的な皮肉が込められた独特のユーモアセンスには、どう反応していいのやら悩まされることがよくあった。どうせ誰かが何かコメントする前に、彼は自ら大きくガハハハと笑い飛ばして、一体その皮肉が本当はどこに向けられていたのか、曖昧にしてしまうのだけど。細々とながら自分の事業を抱えている僕がEに共感できる部分も少なくはなかった。また、彼の奥さんとの不和、子供に対する愛情などを聞くにつれ、自分の両親と幼かった自分を思い出さずにいられなかった。

こうやって、D、A、Eと僕の4人が、なんとなく今回のキャンプメイトとして集まったような形が出来上がった。これも、原則5「Radical Self-expression(徹底した自己表現)」の現れなのか、出会って1日にして、平均的な日本人が知り合って5年かけてもしないような突っ込んだ話をするのには流石に戸惑ったけど、そこまでの自己開示をしてですら、誰も人の人生に対してそれほど気にかけていないことがなんだか心地よかった。日本であれば、「あれはした?」とか「こういう風に考えたことはある?」とか、あげくの果てには「うーん、あなたにも悪いところがあるような気がするんだよね」とか、当事者ならとっくの昔に自分でも何度も試してみて、まったく役にたたないことにうんざりしている「クソアドバイス」の嵐が巻き起こるところだ。と僕が言うと、Eは「危ない!これから一つクソアドバイスしようと思ってたところだった」とガハガハ笑った。彼のこういうところは嫌いではなかった。

Aとは、特に仲良くなることができた。出会った瞬間から、その予感はしていた。彼女がノリに乗ってきた時に発する、自分で勝手に発明した独自のスラングを多用する高速マシンガントークは、半分も理解できたかは怪しいが、日本/アジア文化をリスペクトするという彼女のユニークな感性と、タフなストリートで育ったというエネルギッシュさの奇妙なブレンドは、バーニングマンのキャンプメイトとして理想的だった。彼女も波瀾万丈だった自分の人生に一区切り付け、自分の生きたい人生をデザインし直すためのゼロポイント地点として、今回のバーニングマンを捉えている点でも、彼女に共鳴を覚えることは多かった。彼女は3回目、僕は4回目という、だいたい似たような経験値もプラスに働いた。

彼女の「ストーリー」は正にドラマチックで、まるで何本かの映画のあらすじを聞かされたようだったが、ここには記さないでおく。でも、確かに彼女のサバイバル能力と知識は、この後、週の後半の悪天候に際して僕を大きく助けてくれた。あの頼りないテントですら、結果として日本からスーツケース一つとソロテントだけ持ってきた物資の少ない僕にはありがたいシェルターとなった。彼女がいなかったら、今年のバーニングマンは全然違ったものになっていただろう。彼女の方でも、そのように思ってくれているようなのはとても嬉しかった。”What a gal…(大したギャルだ)”DはAを見てよく言っていたが、これには僕も同感だった。

皆と話をしているうち、僕は「テンプル」が恋しくなってきた。そろそろ日も暮れはじめて、テンプルが最も美しく映える時間帯を迎えつつある。

「マン」がバーニングマンの象徴であり支柱であるとすれば、「テンプル」はバーナーの精神を包み込む、心の拠り所だと言えるだろう。どのような宗教を信じている人も、あるいは信じていない人も、自分の人生から消えてしまった大切な人に祈りを捧げることができる神聖な空間だ。

燃え盛る炎に包まれるマンのイメージが強く、バーニングマンという名前からも、最後にマンを燃やしてイベントは終わり、と思い込んでいる人は多い。しかし、バーニングマンの最後を締めくくるのは「テンプル・バーン」だ。ド派手なお祭り騒ぎとなる「マン・バーン」と違って、この「テンプル・バーン」は厳かな儀式だ。マンは、燃えるというよりはほとんど大爆発で、業火に包まれるといった方が正しいが、テンプルは、この1週間の全てのバーナーの想いを深く包摂するかのように、ゆっくりと、時にパチパチと火花をはじけさせながら焼け落ちる。歓声はほとんどあがらず、暖炉や焚き火の火を囲むように、しんみりと、ため息をかさねるようにして、最後まで残ったバーナー達に見守られる。

テンプルが一番好きな場所だ。というバーナーは多い。今年は特に、僕の気持ちもテンプルに向かっていた。僕はみんなのように、人前で自分の人生を語ることは苦手なので、テンプルで1人静かに、今は遠い存在となってしまった、僕を現在の僕たらしめた人たちに想いを馳せる方が好ましかった。どうやってここでの1週間を過ごそうか、事前に想像を膨らませていた時、テンプルで瞑想して過ごす穏やかな時間は、真っ先に頭に浮かんだことの一つでもあった。

残念ながら、月曜日のテンプルは、初めてプラヤを訪れた観光客のような人たちで溢れていて、ガヤガヤと騒がしくしたり、写真を撮りまくったり、テンプルの澄み渡った空気が全く感じられなかった。昨日のマンといい、僕はまだ自分の心の中に、違和感が残っているのを感じていた。何だかいつもとは違うバーニングマンにいるような感覚と言っても良かったかもしれない。僕は早々に退散して、自分のキャンプへと戻ることにした。まだ1週間は始まったばかりだ。これから何度でも戻ってくることはできる。

最初から、飛ばしすぎるのはやめよう、と僕は思った。会期直前にプラヤを襲ったハリケーンヒラリーの影響もあってか、BRCはまだ未完成に見えた。会場に散在するアートの数も規模も、僕が最後に参加した2018年に比べて半分とまではいかないまでも、だいぶ物足りない感じがした。毎年オープンまでに間に合わないアートも多く、水曜日あたりから徐々に盛り上がってくるのが常なので、それまで体力を温存しておこうと、ポジティブに捉えることにした。

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