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宝塚「グレートギャッツビー」それでもなるようになる人間社会

9/17 「グレートギャッツビー」を観劇してきました。前々の記録となってしまうが残しておきたい。

原作を知らずの観劇でしたが、ポスターのイメージからは想像がつかないようなストーリー。見た目の華やかさと中身の汚さを行ったり来たり、かなりリアルな世の中あるあるに感じました。

この作品の中で絶対的な悪役はいないんだけれど、主人公ギャッツビーも含めて、学歴経歴詐称、不倫、八百長など、みんなちょっとずつ人に言えないことしてるんだよね。ヒロインデイジーも最終的にギャッツビーにひき逃げの罪を被ってもらって、それが発端でギャッツビーが殺されたというのに、初恋の愛は生きている間だけ。ギャッツビーの墓に花を投げて立ち去り、自分は旦那と普通に生きて行く。昔2人が惚れ合い愛し合った経緯、家族に反対され家出を計画する程好きだった相手、時を超えて再び出会い愛を感じた時間はなんだったんだというくらい。あっさり。
ギャッツビーの親分も「友情は生きてる間だけ」と言っていたけれど、蓋をしたいものには完全蓋をし、なかったかのように、当たり前のように生きて行く人間達をリアルに感じた。

デイジーの旦那の愛人をデイジーがたまたまひき逃げしてしまったんだけれど、その罪をギャッツビーが自ら被る→デイジーが好きで守りたいならまあ分かる
デイジーの旦那の愛人の旦那がギャッツビーを恨んで殺す→理由としては分かる
「妻と不倫した上にひき逃げしただろ!」と二重の罪で殺される→それは違う

ギャッツビーが殺される直前に「人は気づかない、でも神は見てる。神は裁かない、人は裁く。誰かがその裁きを受ける」みたいな歌をみんなで歌って最後みんながギャッツビーを指差すところ、町の背景として大きな目に眼鏡をかけた看板?それが神の目だと受け取れる。
不倫された夫も頼りないけど良い奴に見えていた、でも妻が誰かと不倫してると分かった時、妻を監禁しているあたりから、一貫して善人貫いている役が友人ニックのみだということが分かる。(私の記憶だとあの歌の時ニックは居なかったような気がする)

デイジーが初恋が実らないと分かった昔「何も知らないおバカさんでいた方がマシ」みたいな歌を歌うんだけど、本当にその通り。筋がまかり通らない世の中に気づかず、おバカでいた方がよっぽど幸せに思える。唯一ずっと良い奴だったニックもヒロインが墓に花投げても「お前は人の心を失ったのか!」とか言わずただ見ているだけ。この一連の流れをただ「そうか」と見ている。

この世に「一点の汚れも曇りもない」そんな人間はいない。正確に言うと「完璧な状態」を常に維持はできない。例え自分は誠意のある人間であろうと心がけていても、流れるように通り過ぎて行く通行人に店員に全員に常に完璧な誠意を貫けているかと言われたらそうとは言い切れない。

無意識のうちに自分の状況によって、相手によって、環境によって、二面性三面性四面性…とあるのが人間だと思う。良い悪いではなく、それでも時は流れ、人間社会は成り立っているんだと思う。

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