「アニメキャラ=白人」問題の再燃と明るい多様性全体主義

発端

日本の漫画やアニメ、ゲームが翻訳され、世界各国において様々な形で需要されてきたことは衆目の一致するところですが、文化が伝わる過程において不毛なトラブルが発生することは珍しくありません。私が最も不毛だと思う問題の1つが「アニメキャラ=白人」問題です。今回、私がこの文章を書く直接のきっかけになったツイートからご覧ください。

セーラームーンの月野うさぎの絵を自分のスタイルで描いてみようという微笑ましいハッシュタグが数年前からあるらしく、日本でもここ最近バズっていました。そこに投稿されたイラストの1つが上述のものになります。自分のスタイルで描こうという趣旨ですので、こつよせ氏がおっしゃる通り特に何も問題は感じません。しかし、このイラストに対する反応が「よくぞ描いてくれた」「リアルな描写」「アニメキャラは日本人に見えない」といった調子でしたので、これは日本との溝は深いなあと思ったわけです。リプライからもわかるように、「アニメキャラは白人である」「アニメキャラはXX人である」といった主張は英語圏で根強くあり、過去何度も繰り返され、日本のアニメファンのため息の数を増やすことに貢献してきました。

今回はこの問題に対するスタンスを3つに分類して考えてみます。

主張1. 「そもそも日本人にも白人にも見えない」教「別の尊い何かだろ」派

筆者自身この立場なのですが、そもそも可愛いキャラクターは可愛いキャラクターとして楽しんでいるので人種は何だとか考えていません。親しみやすいから日本人の名前や地名が出てくる程度の問題であると思っています。あざらしに市民権を与えたり、妖怪に日本風の名前を付けたりするのと同じ感覚だと思っています。さきほど引用したこつよせ氏は以下のように日本人のキャラクター観を説明しようと試みています。

無国籍をキーワードにキャラクターの在り方を読み解くというもので、内容に大筋として同意できるのですが、私としてはむしろこのようなキャラクターの在り方を透明性とか可塑性といった言葉で表現したいところです。こつよせ氏がおっしゃるように、"民族ステレオタイプに描かれていないキャラは自民族に近しく見える傾向があ"ります。ポケモンのサトシが良い例です。

英語圏では彼はPallet Townに住むAsh Ketchumということになっています。笑わないでください。彼はアッシュです。サトシじゃありません。Satoshiでさえありません。Ash Ketchumです。マサラタウン?そんなの知りません。彼はPallet TownのAsh Ketchumとして世界へ羽ばたき、見事、人気者になりおおせたのです。ポケモンが人気コンテンツになったのはゲームやアニメが素晴らしいからだ!という見方にまったく異論はありませんが、それだけではなくキャラクターの無国籍性、透明性が関係しているというのが私の主張です。私の知る限り、彼は英語圏へ転生する際にビジュアルの変更はしていません。サトシ君は名前と出生地を偽造してアメリカへ入国しただけであって、彼はまったく整形していないのです。つまり書類上の変更、表面的なラベルの貼り換えだけで英語圏へ華々しくデビューしたわけです。これが可能だったのはやはりキャラクターにある種の無国籍性や透明性があり、自己投影しやすい存在であったからではないでしょうか。彼が日本人にしか見えなかったり、白人にしか見えなかったりしたら、これほど広く受け入れられることはなかったでしょう。主張1についてはいくらでも語れるのでこの辺にしておきます。

主張2. 「白人に見える」教「うれしい」派

続いてはアニメキャラは白人にしか見えない人たちのお話です。「うれしい」派の人たちは、アニメキャラが白人に見えることを誇らしいそうに語ります。「君たち、白人に憧れているのかい? そうかい、フフフ」といった調子で大そうご満悦でいらっしゃいます。実際に白人のモデルを参考にイラストを描く方はけっこういらっしゃると思いますので、キャラクターが白人っぽく見えることは普通にあると思います。なので、とくにこれ自体は否定すべき立場でもないと思います。見える、というのは主観ですから。ただ厄介なのは、こういった人たちの(無自覚な?)人種的優越意識がいとも容易く差別へとつながる可能性です。

データサイエンティストのセス・スティーヴンズ=ダヴィドウィッツの著作『誰もが嘘をついている』では、アジア系に対してどのような単語でグーグル検索がなされたのか、詳細が明らかにされています。彼の調査によると検索語の上位3つは上から「醜い」「人種差別主義者」「うっとうしい」という結果だったそうです。日本の美を愛する一人として、この結果をまったく理解できませんが、データとしてかなり雄弁に白人社会を物語っていると思います。「俺はレイシストじゃないけどアニメキャラって白人にしかみえないよな」と語る人も、誰もいないところではブラウザの検索窓に「アジア人 醜い」と入力しているのかもしれません。アジアに対するネガティブイメージがあるのになぜアニメを見ようと思うのか、いまいちなぞだったのですが、アニメの透明性・無国籍性が作用したと考えれば不思議はありません。つまり「うれしい」派の人は"民族ステレオタイプに描かれていないキャラは自民族に近しく見える傾向がある"事例の1つなのです。だからキャラクターを自分と同じ白人と思いながら視聴することができた。主張1と主張2は実はつながっているわけです。

主張3. 「白人に見える」教「かなしい」派

主張2で書いたとおり、白人国家における非白人へのあたりが強いということはデータとしてかなり生々しく残っています。そしてそれゆえに映画やアニメには"白人"ではないヒーロー像を求める人が一定数いるのだと思います。そういった人々を本稿では「かなしい」派に分類しています。「かなしい」という単語に他意はなく、「うれしい」派との比較のための名前だと理解してください。「かなしい」派の感情そのものは理解できます。映画産業が強い国であれば生身の人間がヒーローですから、人種を意識しないわけにはいきません。人種的に多様な国であればなおさらです。

だからアニメをみるときも人種を意識せざるを得ないのでしょう。声優の Ryan Colt Levy がTwitterで「MORE REPRESENTATION IN ANIME」と叫んだのも、こういった意識の延長にあると思います。しかし、カートゥーンならともかく、日本のアニメに対して人種的な多様性を求めるのはどうなのでしょうか。人種的な構成でいえば日本は多様性がなく、同質性が高い国です。Levy氏がアニメに求めるものと日本人がアニメに求めるものが一致するとはとても思えません。アメリカ人であるLevy氏が多様性を求めるべきはまず第一にアメリカの映画やドラマ、コミックであって、日本人が日本人向けに作っている日本語の作品ではないはずです。また、オリバー・ジア氏が語るように、同質性の高い国にしては割と多様な作品がありますので、Levy氏の認識の前提からして疑う必要があると思います。

「黒塗り」問題や「卍」問題もそうですが、他国の歴史の中で形成されてきた常識や文脈を日本人が内面化しなければならない理由はないのです。ごはんに箸をさすのは縁起が悪いかもしれませんが、私はそういう描写が洋画に出てきても「ごはんに箸をたてないのがグローバルスタンダードだろ!この未開人め!」などと憤ってTwitterで公式アカウントの謝罪を求めるハッシュタグを作ったりしません。自分たちの基準を正しいものとして押し付けるのではなく、淡々と自分の立場を説明していくことが大切です。コロナでもそうですが、日本人は英語で発信する人が限られるので、向こうの人の偏見に押し流されてしまいがちです。相手に合わせるのがコミュニケーションだと思っていまっている。一方的に損をする状態です。そういった意味では鈴木一人さんのような方がいて大変頼もしいなと思ったりしているわけですが。

主張3に対する私なりの結論としては、「同情はするけどそれを日本に求められても困るし、お門違いですよ」ということです。

主張4. 「西洋人がアニメに口出しするのが許せない」教「日本はユートピア」派

この立場はそもそも主張1から3までの立場と根本的に違うのですが、彼らは日本をある種の聖地だと考えている節があります。どういった点で聖地かというと、ずばりポリコレが侵食していない地域かどうかということです。

アニメがポリコレ関係で炎上すると、ポリコレ棒を振り回すSJWの西洋人のことが大嫌いな西洋人がTwitterに現れます。私の妄想とかではないです。Twitterで探せばいくらでもこういった方々はいらっしゃいます。「西洋人が極東の幻の地に咲くとされている花を狩ろうとしている。花の愛好家である俺は同じ西洋人としてきゃつらを何としても食い止めたい。しかし俺は日本に住んでないし日本語もできないし力になれない。ぐぬぬ」といった感じです。萌えアニメ、萌えゲー、ラノベ、エロゲ愛好者がこういった傾向にあるとみています。アニメを見ているだけで犯罪者・ペドフィリア扱いされる国でエロゲ愛好家である、というのは想像を絶します。彼らの気持ちはすごくわかるのですが、日本にもSJWはすでにいるのです。急速に勢力を伸ばしつつあるツイフェミランドの人達は今日も作品を燃やしたり、"ジャップオス"を糾弾したり、震えて涙が止まらなくなったりしているのです。だから彼らが期待するようなユートピアはすでに崩壊し始めていると思います。誠に残念ですが。

結論

長くなりました。偉そうに分類しましたが、グダグダと文句を言ったところで世界はポリコレジャスティスな多様性ワールドへ進んでいくと思っています。つまり主張1と主張2はなんとなく生き延び、主張3は称賛され、主張4は死に絶えるのです。全体で見たときに多様性が保たれている、という主張は許されず、個々のコミュニティなり作品なりが、それ自身の内部において十分な多様性を担保しなければならない。そんな時代が来るのです。女性の正しい胸のサイズや正しいキャラクターの肌の色が決められた美しい世界がやってきます。グローバルスタンダードとラベル付けされた西洋文化帝国主義でアプデしたOSが皆さんの脳内で走っています。

世はまさに大ポリコレ時代。

ありったけの夢が私たちを待っています。

そこでは「海賊王になる」と言うと「海賊は違法です」と言われて
「海軍に入る」と言うと「軍に入る奴はネトウヨです」と言われて
「仲間になろうぜ」と言うと「いいですよ。ところで契約書ありますか?」と言われます。
そこではチョッパーは無資格医療従事者で、ウソップは黒人で、ミホークは銃刀法違反の犯罪者で、シャンクスは犯罪者にアルハラする大犯罪者で、ナミは名誉男性で、ロビンはホワイトウォッシングの被害者で、サンジはme tooされて、ケイミーは「若さは女性の魅力ではない!男性も弱音を吐いていいんだー」と言いながらゴリゴリのアルファメイルと結婚します。

そんな明るい未来が私たちを待っています。

ONE PIECE は ONE PC つまり、ひとつなぎのポリコレワールドへ。

21世紀前半、"道徳的に劣っている"アジアの一地域である日本は、いまだ西洋に説教される立場にあります。我々はONE PC完成の遠大なる旅の途上にあるのです。いずれ単一の多様性へと収斂します。そんな世界はいやだ?私もそう思います。そんなあなたに1つだけアドバイスです。進んだ国の進んだ人達から道徳面でありがたい説教をくらったら、満面の笑みでこう返しましょう。

「余計なお世話だ。自分のケツだけ拭いてろ」

最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。

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