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カタチがないから音楽には価値がある

2021年8月に、2年ぶりに開催されるはずだったROCK IN JAPAN FESTIVALが幻になってしまった。
言わずもがな、コロナ感染拡大を危惧しての開催断念だ。

世界にコロナが出現し、私たちが失ったものはあまりにも多い。
ROCK IN JAPAN FESTIVALの断念はその一つだ。
この無念をあえて書き留めておこうと思う。

コロナ禍のフェス開催には賛否両論あるだろう。
それぞれの立場で様々な意見があっていいし、どれも簡単に否定はできない。
だからこれは、フェス開催の是非について語るものではない。
ただ、中止を発表した主催者のメッセージはあまりに悲痛で、文字通り胸が痛む思いがした。

音楽の火を消さないため、エンタメを枯らさないために。
その一心で、自ら重責を背負って開催を目指した主催者にとって、開催直前で医師会から提起された難題は絶望的だったことだろう。
わずかの不安もなく100%コントロールできるか?確実に安全か?
その問いにイエスと答えてしまえば嘘になってしまうからだ。
もはやなす術もなく、1年間掲げてきた旗を降ろす以外に選択肢はなかったのだと思う。

悪いのはコロナであって、誰にも悪意はない。
終わりの見えない我慢の中で、みんなが何かを諦めてきた。
だが、しわ寄せの行き場が偏りすぎている気がしてならない。
それは医療現場にも起きているはずで、報われない理不尽な思いが私の想像以上にあるのだろうから、NOを言わざるを得ないのも十分理解できる。
医療は私たちの生活の最後の砦であり、彼らの声は世間に広く届くべきものでもある。医療の奮闘には感謝しかない。
そう思っていながらもフェス断念の知らせが私にとってこれほど無念なのは、たぶんそれが「音楽」だからだ。

音楽は目に見えない。
形もなく、手で触れることも出来ない。
目に見えるものばかりをつい信じてしまう人間にとって、無形のものは後回しにされがちである。
だが、形がないということは、実はとても価値あることではないかと思う。なぜなら、人の心も同じように形がないからだ。
目に見えず、形のない「心」にピッタリと寄り添うことができるのは、同じように形のないものだけだ。
失意のどん底、見渡す限りの絶望の中で、微かに光る希望の灯。
音楽はその一つになり得る、確実に。

私自身、長引くコロナ禍のストレスに耐えていられるのは音楽があったからだ。そう実感している身としては、フェスを断念せざるを得ないこの状況が、ただただ残念でならない。
あらゆるものを我慢してきた2020年は何の役にも立っていないのか。

命あっての物種。お楽しみはコロナが去ってから。
それも正しい。ものすごく正しい。
だがコロナが去った後、掲げるべき旗が、旗を掲げる人達が存在しているかどうかが心配でならない…
音楽が、時代に淘汰され消えゆくものであっていいはずがない。

誰も犠牲にせず、根こそぎ奪われず守っていくために私たちは今以上に何をすればいいのだろう。
個々人で出来る「我慢」はもうしている。
それ以外に何を…

このやり場のない不毛な気持ちを慰めるのにも、やはり音楽が必要だ。
「音楽=娯楽=不要不急」ではないことが、今日もまた証明されてしまった。





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