感情についてのノート2
目次
1 過去からの声としての感情
2 感情と輪廻転生の観念
3 能と初心と幽霊の観念
1 過去からの声としての感情
少し前に昔の友人に連絡することがあったのですが、その際、その人に対して自分の中でわだかまっている事を捉えるために、起きた事やその時に思った事、今感じていること、どうしたいか、などを紙に全部書き出して整理する、という事をしました。その内にその人について、以前と全然違う感情が湧いてきたりすることがあります。
よく時間が解決する、というけど、そしてそれは当てはまることが多いけど、そうならない感情もありますね。許すための優しさが生まれる場合も、抑圧してきた怒りが沸くような場合も、時間ではなくて、別の側面から自分や相手や状況を見るためのきっかけが必要だったりします。勿論きっかけを活かすことも。
そして上手いきっかけを手繰り寄せるためには時間がかかる事も多い、なので表面上は時間が解決する、という風になる事が多いように思います。
抱いた感情の詳細や、具体的な状況を思い出す事で、そこから新しく何かに気付くと、その気付いた場所から、別の文脈から状況をもう一度把握し直してさらに色々発見できる場合があります。
でもそれは、感情の変化なしには気づかなかったことです。また感情は一度外に出さないと変化しない事も多い。
感情と上手く関わる事で、理性的な思考に大きく折り目を付けたり、理性の幅を広げる事ができます。極端な言い換えになるけれども、感情の方が理性の気づかない事を知っている場合があり、感情が新しい見方や知識の鍵やきっかけになりことがあります。
特に感情は自分と周囲の環境との関係性を、自分に教えてくれるとも言えます。また強い感情が似たような感情を抱いた時の過去の記憶と関わっているなら、過去における自分と周囲の関係と現在の状態との関係も教えてくれます。であれば強い感情とは過去からの声と言い換えもできますね。
(この本は、感情というものがヨーロッパの哲学の歴史の中でどのように扱われてきたかが書かれています。感情は自分と周囲の環境との関係性を、自分に教えてくれる、というのはこの本に書いてあります。そういう点では面白いのですが、科学からの感情の研究に対してかなり否定的な見方をしていたり、現代文化についてかなり批判的だったりと癖が強い本だったので勧められるかというと個人的には微妙です。とはいえアマゾンの書評などを読んで興味が湧いたら読んでみるのもよいかもしれません)
2 感情と輪廻転生の観念
ある瞬間が、同じ人生の中にある別のある瞬間の生まれ変わりのように感じられる事があります。わたしはもう一度あの時と同じ状況にいる、という感覚。わたしの周りで、何かの出来事はそれ自体、いつもいわば輪廻転生している。というか、だからこそ輪廻転生という概念が生まれるのかもしれない(実際にいわゆる生まれ変わりがあるのかは脇に置きます)。
スピリチュアル系の話で、転生を繰り返して課題をこなす事で魂が成長する、みたいな話に昔から人気があるのは、私たち人間が、人や世界との関わりの中で似たような感情の体験を繰り返していくうちに、自分を知り、より良く生きるための課題をみつけ、成長しようとする傾向性をもつからかもしれません。
霊性進化論(輪廻を繰り返していくうちに魂が進化するという説)は人のそういう習性に相性が良い裏付け説明をしてくれます。もっとも、これはカルト宗教や自己啓発セミナーでアレンジされてよく使われ、悪用されやすい説明なので、それを信じる事はこの人生で成長する上ではお勧めできないですが。。
(※霊性進化論についてはこの本がよくまとまっていて分かりやすかったです。オウム真理教も幸福の科学も、輪廻転生と進化論を掛け合わせたオカルト思想である、神智学の影響があるんですね)
3 能と初心と幽霊の観念
とはいえ私個人としては自身は成長という言葉はなんとなくあまり好きではないのであまり使わないですね。アップデートとかの方がいい。成熟も好きじゃない。成長という言葉はたぶん直線的な印象が自分にはあり、成熟には、動きが少なくなるイメージがあるからだと思います。生成とか変化とかの方が好きですね。あるいは初心とか初心者でいたい気持ちがあります。
無論誰かから援助されたいという意味ではなく、体験していく様々な出来事に対して、白紙の状態でいたいのでしょう。
昔読んだ本のことなのでうろ覚えなのですが、室町時代の、能の大成者である世阿弥は、3つの初心がある、と書いています。一つは初心忘れるべからず、という未熟な時の初心。若いころから老年に至るまで、時々に積み重ねていくものを、「時々の初心」。そして老人になる事についての初心。
それはもし私が老人になっても、それは老人、という自分の状況に対する初心者になる、という事でもあるという話だったと思います。やってくる物事に新しさを見つければ私はそれに対して初心者になれる。
昔読んだ本というのはこの本です
ちなみに同じ作者のこの本もおすすめです。能の物語の筋がどういう話なのかが良くわかります。
この能の物語、という本は 能の様々な演目の筋書きを短編小説のような形でまとめた本です。能の物語の筋がどういう話なのかが良くわかります。そして読んでみるとわかりますが能の筋書きは幽霊を鎮める話が多いです。幽霊の抑圧された恨みや悲しみを話させたり舞わせたりして浄化する、という話が多い。
幽霊は生前に、過去に囚われているから幽霊になります。そこで人が囚われる過去は悲しみや怨みや怒りの感情です。
ところでふつう人が悲しみや怒りや怨みを抱く時、それは身体の反応と一緒になっています。感情や身体に結びついた記憶。なので、体を持たない幽霊が怨みや怒りを抱いている、というのは、何か矛盾的なところがある気がします。
でも、記憶は、特に強い感情と結びついた記憶(情動記憶)は、何か幽霊めいたところがあるのではないでしょうか。
最初の方で私は、情動記憶と輪廻転生の観念を結び付けて考えてみました。
しかし、情動記憶を幽霊と結びつけて考えてみることもできるかもしれません。人は感情と結びついた記憶の幽霊と共にいつも生きていると考えてみるのはどうでしょうか。
記憶は幽霊のように、その人の生活のさまざまな場所にあらわれます。幽霊は、その幽霊が生きていた時の、過去からの声を語ります。
耳をそばだてて幽霊の話を聴くこと、残った念を放すこと、残念を話す事、作品にすること、恨みを晴らす事、はカタルシスを、浄化を与えます。
情念と結びついた記憶は、時間も場所もその対象の生死も問いません。
それはどこにでも現れます。まさにそこから、つまり情念と結びついた記憶のそういう性質から、幽霊という概念が生まれたのかもしれません。
人は自分の記憶の幽霊と出会う事はできます。つまり、強い感情を覚えた場所なり状況なりにもう一度居合わせればいい。他人の幽霊と出会う事は可能でしょうか。その他人と私の間で何か感情的な結びつきがあれば、他人の残したものは私にとって他人の幽霊のような役割を果たします。
いや、その他人が、私やわたしが過去に深く関わったものと何らかの意味で似ていれば、わたしはそこに幽霊をみるかもしれません。あの人はもう会えない私の祖父母や両親や息子や娘に似ている、友人や恋人に似ている、といいう風に。
このような意味で幽霊という言葉を使うなら、私は、というか人はいつでも幽霊に取り憑かれているのかもしれません。
恐山のイタコが実際には幽霊を呼び出してはおらず、ただ演技をしているだけ、という話を昔読んだことがあります。
(この本はイタコだけではなく、修験道、ユタ、民間のシャーマン、日蓮宗の祈祷師など、日本おけるシャーマン的な行為について幅広くフィールドワークした労作です)
しかしながら、演技というよりもそうだと信じて、口寄せを聴いている人はイタコを媒体にして、心の中でリアルな幽霊と出会っていることになります。もっと卑近な話をすれば、オレオレ詐欺に騙される老人は、息子の幽霊(この場合は生霊か)と出会っていることになるかもしれません。
一番最初に、私は昔の友人に連絡することについて書きました。
そして実際に連絡を取ったのですが、そしてわだかまりは私の中でもうほどけて、いわば成仏したのですが、相手にしてみれば、連絡をとってきたこの私が過去から来た幽霊のように思えたかもしれませんね。
その友人についての私の記憶は、もう何年も前のまま止まっていたし、 その友人にとっての私の記憶も、同じように何年も前から止まっていたのですから。