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序文3 一部の作品での語り手について。

この先で公開しているわたしの書いた詩(行分けしたものも散文詩も含めて)の中には女性の立場で書いたようなものが色々あります。それについて少し補足したいと思います。

わたしはとりあえず自分のことを男性だと考えています。異性愛者ですね。しかしながら何か架空の女性の人物になって書いた作品がわりとあります。これは自分かというと違う気がしますし、他人というと違う気もします。

自分の感じていることを、自分から適度に距離を持った立場から書くと、かえって書きたいことを書きやすい、と感じることが多いのでそうしました。

有難いことに、日本の歴史上では、平安時代、土佐日記にて、女性の使う仮名文字を使い、女性の立場に自分を設定して書いた紀貫之という人がいます。当時日記は女性が書くものだと言われていたそうですが、

わたしのしていることも似たようなことなのかもしれないな、などと思ったりしています。

詩は感じたり思ったりしたことを書くわけですが、想ったり感じたりする、という時、その言葉はどこからやってくるでしょうか。
本当に自分でしょうか。
個人的には、文章で、なんとなくこれは自分で書いてても良い文章だな、と感じた言葉は、どこかからやってきた言葉、という感じがします。

やってきた言葉をとらえて、あるいは、やってきた感覚をとらえて、
その言葉や感覚の可能性を、より発揮しやすいような文体にまとめて書く、特に詩的な文章を書いている時に感じているのはそういうことです。

そして、自分の場合、奇妙に感じるかもしれませんが、
女性の言葉で、この自分ではない何か別の存在になったような、
もしくは別の存在に話させているような、そういう意識で書いた方が、やってきたものをうまく生かせる気がします。

あるいは、男性の立場で書くと言いづらいことや気恥ずかしいことでも女性の立場で書くとそうでもないことが多い、ということは言える気がします。ある意味他人ごとだから突き放して書ける、というのはあるかも。

わたし自身は女性ではないので、自分ではない別の立場に託して書いているのかもしれません。
そういう意味では、女性的な語り口に感謝すべきなのかもしれません。
尤も出来上がった文章は、わたし以外の人は書かないだろうなという感じがするので、皮肉な感じはします。

とはいえ、ちゃぶ台をひっくり返すみたいで恐縮ですが、
単に女性のキャラクターにしゃべらせている感じで書いてると単純に楽しい、というだけかも。

あと、ここ数年、文章を書く時は特に性別を意識しないで書いてる時の方が多いです。

ともあれ、序文は以上です。

願わくば、この先の文章が、読んでくださったあなたにとって、何か意味のあるものでありますように。

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