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What is "現代フラットアース”?

フラットアーサーのあいだでは、ときどき「現代フラットアース」という言い方をすることがある。とはいえ特に厳密に定義が決まっているわけでもない。人によって、また場合によって、指している範囲が微妙に違ってはいる。でもそのことによって意思疎通に混乱が起きるということもない。今のところないと思う。とどのつまり、中世の西洋でのかつての平面説や仏教の須弥山説、また世界各地に残る神話などをベースにした話では無いよ、現代の現在の文脈だけで今は語っているよ、というようなことを改めて示すときなどにしばしば使われていると思う。英語圏ではそのままmodern flat earthと呼ばれていて、これがストレートに翻訳されて輸入されたのだと思うが、日本では誰が最初に使い始めたのかは僕は知らない。最初に耳にしたのはマウリシオさんのYouTubeだったと思うが、微妙なところをうまく言い表せていて良い表現で便利だなと思った。僕もときどき使う。

結局のところインターネット以後、エリック・デュベイの2014年以後においては、高性能ズームのカメラやインターネット環境下での情報共有が平面説において大きな役割を果たした。これはまさに「現代フラットアース」と呼ぶにふさわしいし、実際に現代というかモロに"現在"のそれである。もう少し範囲を広げるが、僕としてはサミュエル・ロウボサム以後の平面説を「現代フラットアース」と呼ぶのが一番しっくりとくる。なぜかというと、ここにおいて初めて近代科学との摩擦が起きているからである。僕はこの摩擦こそ、今ここにあるフラットアース論のキモだと思っている。間違った近代科学の"イデオロギー"によってこそ、現在のこの社会はスムーズに動くように出来ていて、しかし僕らはそこで生き暮らし、おそらく一生を終える。ひどい摩擦だ。こんな激しい摩擦は滅多に無い。とんでもない摩擦音がしている。世界中の鼓膜が破れたかもしれない。もしもこの摩擦がなければ大地の形などもしかすると本当にどうでもよいのかもしれないとも思えなくもない。ちょうど地球が丸いことなど当たり前すぎて以前はどうでも良かったのと同じだ。

厳密な定義は今のところ無いと書いたが、とはいえ、サミュエル・ロウボサムの時代にはもちろん月面着陸していないし(今もしてないけど)、丸い地球の"フォトショップド"画像も流通していない。その点では確かにロウボサム以降とデュベイ以降では、正確にはNASA以前と以降では、平面説はその内容の様相が大きく違うことも確かだ。ということを鑑みると、近代科学の成立以降でNASA以前までの期間の平面説を「"近代"フラットアース」と呼び分けるのも妥当な気もしなくもない。とはいえ平面説は本質的には時代区分する必要はそもそも無いと言えば無い。ニコンのカメラもインターネットも要らない。ひとりで世界を直接に見て知ればいいだけだったのだ。あまりにもバカ過ぎて、インターネットを通じて小突いてもらうまでなんにもわからなかっただけなのだ。

だがしかしガリレオも腰を抜かすほど高性能な現代の一般人に入手可能な機器での観測は、さらにこの世界の深いところまで知ることができる可能性を秘めてはいるとは思う。特に星のズームではそのように感じる。その点では現代のハイテクな観測こそ「現代フラットアース」と言えるかもしれない。であるなら「近代フラットアース」という呼び分けにも意味が出てくるかもしれないが、しかしそれでもおそらく南極を自由に移動できることは無いだろうし、空をどこまでも自由に高く上がれることもないだろう。それができるようになればもはや「現代」越えて「"未来"フラットアース」である。そしてその時にはすでに理科の教科書はすっかり様変わりしてしまっているだろうし、もしかすると10kmや20kmの完全な水平を示すモニュメント建造物が建っていたりして、もはやフラットアースという言葉ないし概念そのものが意味をなくしてしまっているであろう。それは過去のサブカル的遺物としてだけひっそりと記録され、フラットアースムーヴメントも自然と解体する。そしてその残骸を見ながら僕らは酒を酌み交わすのだ。最高だ。このムーヴメントは自らの存在意義を失うことを最終的には目指している。


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