見出し画像

"地面は平らに見える"までギリ正しいっぽい現行科学界隈

ものの本やらそこそこ権威がありそうな解説サイトやらを眺めていると、こんなフレーズに出くわすことがしばしばある。「地面はたしかに平面に見える」と。もちろんこの後で、それがなぜ曲面と言えるかや、我々人間がバスケットボールの上に載ったハエであることや、宇宙ロケットの写真の話などが例のごとく出てきて御破算になる。この説明のパターンは毎度のことなので別に期待してもいない(いくばくかの伝統芸能みを感じてジーンとすることはあるにせよ)が、「地面は平らに見えはする」という言明の存在はなかなかに興味深い。そうなのだ、この地球はたしかに平らに見えはするのである。この時点においては、彼ら(職業的)科学(業界)の専門家と我らフラットアーサーは、意見を共にしている。

とはいえ、ではこの「地表は平面に見える」と言う専門家は果たして"どのように見たのか?""どのように見たうえでそのように言っているのか?"という疑問もある。もしもこれが「パッと見」だけで言っているという話であるというなら、"見ること"を舐め腐ってはいる。しかし彼らは(伝統芸能として)アリストテレスの船や星や月蝕を"見ること"を持ち出してくる以上、おそらく「地面そのものだけ」を見たときには、という意味ではないかという気もする。地面そのものだけを見たときには確かにそれは平面に見えるのだが、"地面そのものではなく船や星や月蝕のほうを見たとき"には、地球は球であると言えると。そう言っているのではないか。これなら話の筋は一応通る。間違っているが筋は通っている。地面だけを見ると平面で、他のものを見ると球だと。なるほどね。それならそうと断ってから説明を始めてほしいが、そこまで前置きしてくれていることはまず無い。だがもしも「パッと見」の話をしているんだったら専門家もクソもあるまい。ただのそのへんのおっさんでしかない。観察は科学の基本技術であろう。だがアリストテレスの船や星や月蝕は実のところ「パッと見」の話なので、やっぱりそのへんのおっさんでしかないかもしれない。

パッと見、地球は平らである。地面そのものだけを"観察"してもやはり地球は平らである。高層エレベーターで登り降りしても、海岸で屈伸をしても、山に登っても、砂浜で匍匐前進の姿勢を取っても、何をしてもいついかなるときも常に地球は平らである。科学者であれフラットアーサーであれ、そう観察できる。しかし船が水平線に沈むのはそこから先の海面を目に映して解像することができないからであり、星の高度が変わるのはアーケード商店街の屋根の照明のそれと同じであり、月蝕の影が常に円だろうがそれが地球の影だとまず言えなければならないのだ。アリストテレスの船と星については確かに観察とも言えようが、月蝕の影についてはもはや観察ですらない。前提の取り方のミスというより、もうほとんどただのオカルトみたいなものである。要は、結論ありきで観察をするからこんなことになってしまうのだ。キャバ嬢さんたちに騙されるのもそのせいなのである。観察という行為あるいは技術・技法の理念というか原則というか心構えとしては「一寸先は闇」である。実のところ「観察」というのはめちゃめちゃに恐ろしい行為なのである。しかしそれでも現実に触れるためには、そうする以外に無い。ちょっとぐらいの汚れ物ならば残さずに全部食べてやるというぐらいの腹づもりがなければ観察などできやしないのだ。観察。その一寸先は闇である。さあ、この果てしない闇の向こうに手を伸ばそう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?