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山のこと:フラットアース自然誌

山だってよくわからない。なんであんな隆起が陸に必要なのか?
海水を真水に戻すための蒸留器が山であるという説が一定の支持を得た時代もかつてあったらしい。そしてそのときの湯気が雲であり、川は真水を流すための水路だ。とてもわかりやすい。わかりやすいけれども、それでも山をパカッと割って、その動きを見てみないことには言い切れまい。しかし雲はまるで煙突から吐き出される煙のように山から産み出されているように見えることがあるのも実際のところである。

雲といえば雨のことを思い出すが、やはりこの世界の水の循環がどうなっているのかがわからない。それが「循環」と呼べるのかどうかさえわからない。一度使われた水はどこかへ流されたまま永遠に返ってこず、ただ単に新しい水が様々なかたちで供給される(現行論では新しい水は南極の海で産み出されている)に過ぎないだけかもしれない。わかることが全くない。いつかついに死んでこの肉体を離れたとき、それを知れるならどれほど良いであろう。ぜひ知りたい。そのシステムのあまりの精緻さ故の美しさに膝から崩れ落ちるほど驚くかもしれないし、あまりの単純さにあいた口が塞がらないほど呆れ果ててもう地上の水のことなんかどうでもよくなるかもしれない。それさえわからない。

この世界で最も標高の高い場所はもちろんエベレスト山頂だが、そこは一般人でも立ち入りは自由である。登頂が困難であるというだけであって、ガイドツアーであったりしても、原則的に立ち入り自由のはずである。そしてこの世界で一番高いその場所には、特に何もないはずだ。ただの岩であると思う。それはそれで妙な気もするが、そうであるならば最深の海底にも何もなくても不思議ではないような気もしなくはないし、また世界の中心たる北極点にも特に何もなくても良いとも思える。そういった世界の極地点の中で、とかく行動制限が厳しいのはやはり南極である。さらにエベレストより高い場所といえば、これはもう単に"空"ということになり、その向こうには天蓋があるはずであるが、しかし航空法において自由な飛行は出来ないようなので、これはこれで南極と同じ扱いと言ってよいかもしれない。もちろん天蓋は無いかもしれないし、それが物理的な壁のようなものであるかどうかもわからない。

とはいえ"山"という言い方を忘れるならば、詰まるところ、"陸"とは何か?なぜこのようなかたちと仕組みをしているのか?というような問いになるかもしれない。なぜ海岸線がこのようであって、なぜ低地があり高地があるのか、大陸とは島とは何か、などなど、そういうあたりへ収斂するかもしれない。そうして結局は「この世界は何か?」という問いに辿り着き、我々は途方に暮れ、「我々は何か?」と世界が問い返してくるだろう。

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