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虹と夕焼け:フラットアース自然誌

よくよく考えなくてもわかることだが、夕焼けは自分にしか起こっていない。うーんと太陽に近づいてゆけば、空は青さを取り戻してゆくはずである。つまりその色の変化は目の中でしか起こっていない。当たり前といえば当たり前で、物が見えるというのはそもそもそういうことでもあるとも言えるが、夕焼けについてはそのあたりで特に不思議な気持ちにもなる。規模が大きいから余計にそう思うのかもしれない。

これは虹についても同じである。虹の根っこにたどり着くことはできないらしいし、飛行機から見下ろしたときに雲に映る飛行機の影の周囲に出来る真円の虹なども、これを飛行機の逆から見ることはない(雲の天側を地上から見ることは難しいであろうものの)はずだ。これらもやはり目の中でしか起こっておらず、観測者にしか見えていないからである。そこに実体は無いが目に映っている、ということだ。ちなみに、この飛行機から見下ろした真円の虹に、さらに副虹が出来ている写真を見たことがある。これはいっとき言われていた「副虹はドームによる主虹の反射」説を打ち砕くものだ。もしも副虹が主虹の反射ならば、この場合の副虹は飛行機から天側を見上げた時に見えていないといけない。ともあれ虹もまた観測者にしか見えていない。もちろんすぐ隣にいる人間にもほぼ同じかたちで見えているだろうが、ここでは条件が合ったというに過ぎない。そしてこの「実体は無いが、条件が合えば観測者の目に映り、そのように見える」という現象は、太陽や月や星に対しても、いちおう理屈上で当てはめることはできる。

さて、天体に関しては別稿に譲るが、夕焼けと虹はこの世界の実機能の何の役にも立ってないように見えるところがおもしろい。虹が出たところで世界には特に何も起こらない。何かが起こった副産物として虹が発動されるというなら、雨が上がったとかその程度で、そんなことは掌を天にかざせばわかることだ。夕焼けもしかりで、まあ天気予報の役には立つという程度ではないか。巣に帰ってゆくカラスが夕焼けから飛翔エネルギーを得たり、雨上がりのミミズが虹を見て旨いエサのありかを知るということが果たしてあるだろうか?もし虹や夕焼けに何らかの実機能が宿るとするならば、それは僕ら人間の、たとえば精神のような箇所や、あるいはそのような"装置"を、慰めたり歓ばせたりするメンテナンスのためのものでしかないように僕には思える。無駄な機能にしては規模がやたらデカ過ぎるし、だいいち美しい。ただ設計者側の見解として、それ自体に何の実機能も持たせてないけど光や太陽やら目やらの仕組みによって、結果的にそういう現象がどうしても起こってしまうんだよね、まあそれでも良ければせっかくなんで楽しんでね、ということなら、わかる気もする。

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