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創造論としてのクジラ試論:フラットアース自然誌

もしもこの世界が設計されたものであるならば、クジラもまた設計されたものである。

フラットアース論では創造論が有力ではあるものの、もちろんそれを直接に確かめることはできない。もしも直接に確かめるならば、設計者に直接かけあって話を聞き、その証拠となる設計書を見せてもらったり、それをもとに現実の現象を追認するか、バックヤードツアーに連れていってもらうしかない。だが少なくともこうして地上で生がある限り、それも叶うまい。今のところそれはただの憶測に過ぎない。現行科学の言うようなビッグバン的な何かがかつて起こって、いつのまにか平らな大地ができ、屋根ができ、太陽は回り月は照り、星は瞬き人は恋をする世界が出来上がったかもしれない。それでもいったんここでは創造論を取る。この世界はなにかしらのコンセプトに従ってデザインされて設計されて建設されて今この瞬間もそのように動作している。ならばクジラもまた設計されたものである。ではクジラは何のために、あのように設計されたのか?

クジラは潮を噴く。その潮の軌道は種ごとに違っている。あるものは1方向であり、あるものは2方向である。高さも違えば左右の向きも違う。これによってクジラの体が見えなくとも、人間は陸上から種を見分けることができる。もちろんだが「そこにクジラがいること」をそもそも知ることができる。クジラは海にいながら、人間にその居所とプロフィールを知らせている。

クジラの脂はとても質が良いらしい。特に西洋ではその脂こそを求めてクジラが捕獲されてきた。日本は食肉としても利用したが西洋ではそうでなかったらしく、脂を確保すれば残りは海洋投棄したという。最も質の良い脂を持つのはマッコウクジラだそうだが、このマッコウクジラの肉の味は最悪らしい。食肉として最も美味とされるのはセミクジラで、このクジラは背ビレが無いために背がつるんとして美しいので"背美クジラ"と呼ばれている。これも潮と同様、海上から見分けがつくというわけだ。さらにセミクジラは死ぬと海面に浮くので捕獲が容易であることから、獲るためのクジラとして正しいクジラであるという意味でRight Whaleという英名がついている。マッコウクジラも死ぬと浮く。

死ぬと沈むクジラもいる。死んで沈んだクジラは海底でその身によって種々多様な生き物を養うことになり、そこにひとつの独自の生態系を発現させ、一種の"街"のような活況を呈するらしい。当たり前のことだがクジラはとても大きいので、その死骸を海のシステムが消費し尽くすまでに相当な時間がかかるという。そう、クジラはとても大きいのだ。

クジラはとても大きいが故に、一頭を捕獲することの利益は人間にとってもやはり大きい。それゆえに、クジラを追いかけるためにこそ人間は大海を遠く渡ることを決意し、海を知り、またその技術を高めてきたという側面もあるのではないか。クジラが人間を海に誘い出したのではないか。だがこの空想は遥か彼方の歴史の消失点の向こう側にあって、今はもう見えてこない。空想だ。

だがその逆に、クジラのほうから陸にコンタクトをとりに来ることは今でも確認できる。クジラはしばしば湾に迷い込んできたり、死んだ状態で浜辺に打ち上げられたりするのだ。これがなぜ起こるかは、現代の生物学からも最終回答がない。いくつかの仮説があるだけで、実際のところはわかっていない。日本でかつて捕鯨を行っていた土地では、この迷い込んできたクジラこそを相手にしていた土地がある。僕が実際に訪れたことのあるのは京都の伊根や、山口の青海島だが、これらの湾は面する海全体から見ると、大変に狭く小さな湾で、こんなところにたまたま迷い込むなんてことはまったく考えられないほどだ。そもそもある程度"定期的に"、そこにクジラが迷い込んでくるからこそ捕鯨業が成立していたのだ。あり得ない。まったくもって考えられない。考えられるのはたったひとつである。クジラはわざわざすすんでそこにやって来ていたのだ。迷ったのではない。目指して来たのだ。
(ちなみにこのような土地では今ではもうクジラが来なくなったので捕鯨業が途絶えているところもあるが、それでも思い出したように年単位では来るらしい)

クジラは人間に発見されることを目論んでいる。これが創造論から見たときのクジラの在り方であると僕は考える。もしもこの世界が設計されたものであるならば、クジラもまた設計されたものである。クジラは人間に発見されるように設計されている。人間に発見され、その脂を、肉を、骨を、皮を、あるいはもしかすると海の知識を、人間に与えるために設計され、そのように動作している。と同時に、クジラは海の生態系の頂点をなしつつ、その死骸は海底で生態系を創出させる。循環している。

クジラを獲るということについて最後に少しだけ書きたい。これはクジラというよりイルカの話なのだが、同じ鯨類ということで扱う。日本では今でもイルカを捕獲して、ある場合には水族館に売るが、ある場合には屠殺する。かつてイルカ漁をしていた人の話を何かの本で読んだことがあるが、そこでこんなことが語られていた。イルカは、捕らえられた後、いざ人間がとどめを刺さんとするとき、観念したようにそっと目を閉じて静かになるらしい。考えられない!もちろんそれが本当かどうかも僕にはわからない。もちろん現在のイルカやクジラの屠殺では絶命までの時間が短縮されるように配慮されていたり、あるいはかつての網を使って刃物で仕留めるような古式の捕鯨では、大きなクジラは最後まで派手に暴れたはずだ。だから捕らえられたイルカが"殺される"間際に観念するなんてことは、うまく考えられない。しかし創造論で照らしたときに、それはまたあり得るのだ。そしておそらくこの世界は設計されたものであるが故にイルカもまた設計されたものであって、あり得るのだ。イルカは人間に"殺される"間際に観念するということは一応理屈上考え得るのだ。そのように設計されているのだ。あり得ない。あり得ないが考え得るのだ。では人間は何のために設計されているのか。その役目をいざ終えんとする時、果たして僕は観念するだろうか。考え得る。

もしもこの世界が設計されたものであるならば、クジラもイルカもまた設計されたものである。なにかしらのコンセプトに従ってデザインされて設計されて建設されて、今この瞬間もそのように動作している。


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