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現代語訳【エーテルとは何ぞや】今日の科学思想 第6章《大日本文明協会著・1913年/大正2年発行・原著Scientific Ideas Of To-day by Charles R Gibson 1909》

第6章 エーテルとは何か

読者の中で物理学の書物を紐解く者は、空間を占有し、いたるところに瀰漫すると言われているエーテルなる言葉を必ず耳にしたことがあると思う。この言葉は我々が酒精から作る種類で芳香性を有する揮発油に付いている名前と同じであるが、もちろん揮発油のエーテルと宇宙空間に瀰漫するエーテルとを混同すべきではない。いたるところに瀰漫しているある種の中間体があるとの観念は夢でもなく、また妄想でもない。まことに我々が種々の自然現象を観察する時は、このようなものがあることを仮定せずには何らの説明をすることができないからである。エーテル説は根拠ある仮説である。学者がエーテルの存在を信じるのは、まるで自分の存在を疑わないのと同じぐらいだと言ってもあながち間違いではない。ジョーン・スチュアート・ミル氏の論理に頼らなくても、ある物が他のある物に作用する時に、ふたつのものの間になんらの中間物が介在することなくそれを行うことができるということは決して想像することができない。簡単な例を挙げれば、二人の人間が静かな池の中に離れて浮いているとして、一人が手足で水を動かす時にはそこに波動が生じるが、その波動は他の一人の身体へ及ばせて動かすことが出来、あるいは少なくともそこにある作用が現れる。この際にもし中間に水が無ければ、どれほど一人が手足を動かしても、この作用は他の一人に及ばないことは明らかである。また他の一例を挙げれば、静かな朝に寺院の鐘が遠い塔内で打たれたとして、この鐘は鐘楼に吊り下がっていて依然として移動していないにもかかわらず、鐘の作用は隔たっている人の耳に感覚を興すではないか。さらには鐘から飛び出して聴く人の耳に来る物が何もないのは、鐘の重さが何年経っても減少しないことによって知れる。鐘の微動は単にその周囲の空気に波動を起こし、その空気という中間物を経て初めて我々に耳に波動を及ぼすのである。すなわちこの場合にも進行して来るものは、単に空気という中間物であり、そこに起こる波動を音波と言う。

次にさらに述べようとする実例は、エーテルの存在について実に我々の理性に訴えるところのあるものである。ある海岸における冬の暗い夜、大きな灯台から光を発して、暗礁に危うく近づく船舶に警告を行う際の光は、遠くの波の上に漂う水夫の目に一種の感覚を興させる。これいかに。読者はこのことがあまりに普通であるのを思い、おそらく何も不思議に思うことはないであろう。だが岸辺の灯光が波の上の遠い水夫の目に映ると言うことは実は一大不可思議ではないか。事実、何物も灯台から散逸しているでもなく、ただ灯光の四方にある一種の中間物に波動を起こし、その波動がこれを伝播して水夫の目に達したに過ぎず、この現象は音波、水波と全く同一である。それならばどのような中間物がこの種類の光という波動を伝播するのか。この中間物が空気ではないことは明らかである、いかなる疾風が灯台の前を吹いても光波は何の妨害も受けることはないからである。音波は風のためにその進行を妨げられるにもかかわらず、光は何の影響も受けないとすれば、光波が空気で伝播されるものでないことは言うまでもない。ゆえに、空気以外に光波を伝えるべき他の中間物があるわけもないので、我々がいわゆるエーテルと称するものがすなわちそれである。灯光はその周囲にあるエーテルを振動させ、その振動は四方に伝播し、しかしその波の届くところに眼があれば、その者の神経に光という感覚を興すのである。このようにして、ある物が離れている他の物にある作用を為すのは、常にふたつのものの間の中間物の媒介によるということを知っておかなくてはならない。しかし同じエーテル振動の伝播のうちでも、我々の五感に全く異なる感覚を興すものものがあるのは奇異であると言うべきであろう。すなわち太陽は常に我々の眼に光の感覚を興す種類のエーテルの波動を起こし、それによって我が地球に送られるが、また、太陽から来るエーテル波動のうち、我々の触覚に熱の感覚を興させる種類のものもあり、つまりエーテルは光波および熱波の二種類を同時に送り届けることのできるものと言えるのである。

エーテルは実にこの二種の波動を送ることができるにとどまらず、また無線電信送信機が発する種の振動を伝えて、これを受信機に送信することができる。この種のエーテルの波動を電波と名づける。この種のエーテル波動は光波および熱波に比べてとても大きな波動であり、この波動でもって船舶と陸上との間、あるいは船舶同士の間での通信を可能とする。つまり我々は同じエーテル波動によって各々異なる結果が生じることを知ることができる。

我々が忘れてはならないことは、太陽から来るものは光でもなく、また熱でもなく、実にエーテルの波動であるということである。つまりある種のエーテル波動は我々の目に入って初めて光という感覚を興させ、ある種の波動は我々の身体に触れて初めて熱という感覚を興させる。我々は習慣上、太陽から光線および熱線が来ると言うことによって、あたかも光もしくは熱などのある特別のものが遠くから飛来するかのように感じてしまうので、光線や熱線などの言葉のせいでそれが本当に意味するところを読者が誤解しないことを望む。我々は多少の言葉の誤りを正す目的をもって、太陽から来て我々に熱という感覚を興させるエーテル波動を名付けて輻射熱と呼ぶものの、我々の眼に『明るい』という感覚を興させるエーテルの波動は単に光と呼ぶに過ぎない。けれども太陽から来るエーテルの波動の中には、眼に明るい感じを覚えさせずに、ただ写真の乾板にだけ感応するいわゆる紫外線というものがある。このような波動を名付けて『不可視光線』と呼ぶのは奇妙な用語法だと言ってはいけない。さてここで、とある室内に電気の灯を灯し、写真機を置き、写真機の前にある特別の覆いをかけるとする。この覆いは紫外線のみを通過させるが、眼に見える他の全ての光を遮断する。ここで技師が機械の後部に立って暗箱内を見ても何の映像も見ることがもちろんできないのは、つまりレンズを通して光線が来ないからである。だがこれは何物も来ていないのではなく、実は紫外線だけは暗箱内へ通過して来ているのである。ここである人物がレンズの前方に座り、暗箱内に乾板を入れ、放置すること5分ほどでこの乾板を現像すると、明らかにその人物の肖像を確認できることは普通の写真と異なるところがなく、これによって、目に見えない種類のエーテル波動が覆いを通過して来て、乾板に感応を及ぼしたことを知るのである。これを紫外線と呼ぶのは、白色光線をガラスのプリズムで分析した時に、紫色光線の位置より外にある部分だからである。

我々は言う。『眼はすべての光線を見ることはできない』と。数年前に英国である本が出版され『見える光と見えない光』と題されて、面白い事柄が記載されてあった。だがこの本がいわゆる見える見えないと言うのは、ことごとく我々の視覚に感応するかどうかと言っているに他ならない。眼はすべての光を見ることはできないと我々は言う。読者は私の自家撞着を咎めるだろう。けれども私が主張するのは、光そのものはエーテルの波動であって、その波動は空中を鳥が飛ぶように、あるいは水上の波のように、我々の目に見えるものではないということである。実際に我々は、光線の進む方向に対して直角の方向から見るときは、なんらの光の有無を眼に感じることはないだろう。読者はあるいは言うかもしれない。暗室の中に座り、壁に小穴を空けて外からの太陽の光を通せば、光の方向は人の眼に真っ直ぐ進行していないにもかかわらず、光の進路を明瞭に見ることができるのは何故かと。しかしこれは空中に浮遊している無数の塵埃に光線が反射して、そのそれぞれの塵埃から光波の方向が新たに転じることで、直接その人の眼に波動が及ぶためである。なので室内の空気に全く塵埃がないようにすると、光波の進路を見ることができず、我々はただ壁を照らす反射光が直接我々の眼に入って来るのをもって、じつに空けた穴と壁の光る部分との中間に何物かが通過しているのを想像することができるだけである。あたかもクルックス氏の真空管の中で電子が運動するのと同じで、管の中に空気の分子が存在するときは管全体が輝くのが見られても、中間の分子を全部取り去れば、ただ反対側にあるガラスの壁に蛍光が発されるのが見えるだけであるのと同じである。暗室内の写真とは、我々が日夜見てあやしみもしない大規模の自然現象において見えるもののことである。それはなぜ夜が暗いかという問題である。宇宙はエーテルでもって満たされている。しかし太陽は地球上の昼夜の別なく不断に光波を四方に伝播する。ゆえに夜といえども地球の周囲に光波が盛んに進行しているのは昼と変わらない。しかし天空のいずれの方向を見ても暗黒であるのは何故か。これは太陽から直接我々の眼の方向に光波が波及しないためであり、しかし宇宙は暗室と同じように全く塵埃が浮遊することがないからである。塵埃は浮遊しないが、宇宙には多くの惑星が運行していて、ゆえに太陽の光波がこれに当たって反射し、反射した光波が直接我々の眼に入るのをもって、暗い夜に我々は星の光を見るのである。もしこのような惑星が密集している一面の大きな壁が地球の半面に常に太陽と反対の側にあるとすれば、暗室内に入って来て光の壁に当たって輝くように、我らが地球は不夜城であるだろう。だがそうではないわけだから、昼夜の違うのが判別できるのはつまり空間が無限であり、光は一度去ったら再び帰ってこないことを示すのである。こうして我々は光それ自身は眼に見えないものであることを知ることができるのである。これはエーテル自身が眼に見えないためであり、その見えないエーテル内を波が動く様子もまた見ることができないためであるのは明らかである。ただエーテル波動が我々の眼に直接入ってくる場合においてのみ、初めて光と言う感覚を興させるが、しかし我々の眼に光が明るいと言う感覚を興させるのは、エーテル波動の各種のものの中の一部に過ぎないことを次に述べたいと思う。

我々は太陽から発された光が地球に至るまでは約8分間を費やすとしている。けれども実質は何も太陽から地球に飛行してくるのではなく、ただ太陽と地球の間に存在する中間物、つまりエーテルに起こる振動が波及するに過ぎない。ここで太陽から送られて四方に広がって、その一部分が地球に到達するいわゆる輻射熱つまり熱波を考えれば、その間の消息についていっそう明瞭となるだろう。我々は熱があるものから他のものへとその中間物質に伝播する現象を日常で経験している。すなわち冷たい火箸の一端を火の中に入れれば、やがてそのもう一端が温まるし、浴槽の一部を火で焚けば全体の水が熱せられる、というようなことが、そのわかりやすい例である。これらの現象は太陽と地球の間に動く、いわゆる熱波について考えるときに先入観となって我々の思考を混乱させることも少なくない。火箸の一端からもう一端に熱が伝わるときは火箸の全部が熱せられる。だが太陽から地球に来るときはこれに反し、その中間はなんの熱も受けることはなく、中間は単にエーテル波動であって実際の熱ではない。我々は種々の方面から推論し、太陽を構成する分子は激烈に振動しているものと想像することができるのだが、つまりこれらの振動している微分子は四方にあるエーテルを撹拌して、それに絶えず運動を起こすものであることは、あたかも静かな池の水面を連続して棒で打つようなものである。太陽の微分子によって起こされたエーテルの振動が次から次へと伝播することは、波が池面に広がるのと違わない。事実、微分子が直接エーテルに振動を起こすのではなく、ある間接の方法によるものであることは、後で説くところのとおりであるのだが、ここではそれには関せず、まず微分子の運動が直接にエーテルに波動を起こすものであると想像してほしい。このエーテルの波は漠々として際限を知らないエーテルの大海に伝わり行き、停止することを知らない。ただそのごく一部が我らが住む小さな惑星に到達するのだが、我が地球は無限の空間における、いち微塵に過ぎないということも記しておかないわけにはいかない。このエーテルの波動が物体に当たるときは、直にその物体を構成する分子に振動を伝え、我々の言うところの熱という現象を生じさせる。つまり太陽分子の運動はエーテルの波動を生じ、さらにエーテルの波動は地球分子に運動を起こす。あたかもコメを金に換え、金で再びコメを買うようなものである。金とコメとはその価格において同一であるが、しかし誰が金とコメとが同一の物だと言うものか。熱である分子の運動はエーテルの運動となり、エーテルの運動は再び熱となる。我々はここにおいて、その価格において同一であり、その実質において全く異なる二種類のものが存在すると知るのだ。つまり熱と熱波である。

遠方の友人と電話で話をするときに、言葉そのものが電線を伝わっているのでは無いことは誰にとっても疑うところではない。話者が発した音が送話器に繋がる電線に作用し、その電話は遠く針金を伝わって聴者の受話器に至り、ここで再び電流が磁石に作用して音響を発するに他ならない。つまり伝わるものは電流であって音響ではない。音響を分子の運動である熱と比較すれば、電流とは実に熱波に相当する。電流がそれ自身の音では無いことを知る者は、エーテルの波動である熱波は熱ではないことを想像するのは難しくないであろう。いずれの場合においても、ただその形を変えたものに過ぎない。

空間にはエーテルがあると初めて聞けば、誰でもその頭を振ってこれを承認しないであろう。彼らは必ず言うだろう、それはあたかも月に人が住むと言うように実に荒唐無稽の説でしかない、実際に何も無いではないかと。また言うだろう、これは学者が説明が難しくなるのを避けるために便宜上で仮に提案したものに過ぎず、事実として何かのものがこの宇宙に存在するとはどうしても思えないと。然り、学者はこの攻撃を甘受しようではないか。エーテルなる観念は二百年余り前に初めてオランダの大科学者ホイヘンスが唱えたところのもので、彼はこれによって光線に関する種々の現象を説明しようと企てた。ホイヘンス以前においては、ニュートンの光線に関する説が最も世に知られた。その説によれば、光は光素という極微分子が発光体から非常な速度を持って四方に散乱し、我々の目に飛び込むことで『明るい』という感覚を興させるものであるとした。英国の首都ロンドンの学者トマス・ヤング博士はホイヘンス(*)に次いでエーテル波動説を唱えたが、このときは一人もニュートンの説を棄ててエーテル説に賛成する者はいなかった。古い『エジンバラ・レビュー』を出してきて見てみよ、この時いかにヤング博士の説が一般学問界の攻撃の的となっていたか知るまでもない。ヤング氏はこれらの攻撃に対して自分の意見を述べ、小冊子として発行したが、ただの一冊も売れなかったというのを見ても、いかに世の人々がこの説を嘲笑して信じなかったかは、想像するに及ばない。
(*ホイヘンス以前の遠い昔からエーテルという名前はあり、各惑星はエーテルの中に浮遊するものと考えられたが、しかしエーテルという言葉を、正確かつ学術的根拠のある意味で唱えたゆえ、ホイヘンスをもってその元祖とする。)

今日、未だに深遠たる学問における素養なき一般人が、このエーテルの存在について合点がいくことができず、これを荒唐無稽な妄想に過ぎないと判断するのは、ヤング氏が説を提出した当時の有様を考えれば、実に無理もないことだと言うべきであろう。読者はあるいは言うかもしれない、これは一つの想像の説に過ぎないので、これを信じるのも信じないのも人の自由であると。私は言う。それもそうかもしれない。だが、私はそのような読者に対し、ひとつ問わなくてはならないことがある。読者は、地球が太陽の周囲を回転することを信じることができるであろう。これもまたひとつの仮説に過ぎない。されど天文学者はそれぞれの星の運行から推論して、地球は太陽の周囲を運動しているに違いないことを正確に証明し得るのである。これと同じように物理学者が、宇宙にエーテルが存在しているに違いないことを各種の現象を観察して証明し得るということをどう考えるというのか。読者はなおもこれを疑うならば、次に説くところに耳を傾けてほしいと願う。

常識のある人は誰でも、人形芝居を観て、人形の手足が運動するのは糸によって上から操っているためであると知っているだろう。もちろんその糸は細く、比較的遠い観客席からは見ることができないものの、その糸があるということは誰も疑うことができないところである。さてここで磁石を用意し、鉄針に近づけた時は、それを吸い着けるのを見るだろう。それならば人形芝居を見る時と同様の常識で、磁石と針との間に必ず眼に見えない物が存在することを信じることができるだろう。実に物事を深く考えた時には、必ず宇宙のどこにも瀰漫しているエーテルの存在を疑うことはできないのである。磁石と針との間の作用もまた、実にエーテルが存在するためである。遊戯場において子供が木馬を自分の後ろに引いて行こうとすれば、木馬の顎に糸をつけて自分の手にその一端を持つしかないことを必ず知る。科学研究という遊戯場において我々は、ふたつの離れている物体間に作用が起こるとすれば、必ずふたつのものの間にある中間物体が存在していることを信じるのだ。この中間物こそエーテルに他ならない。実に我々が普段、真空と呼ぶ空間はこのエーテルに充ちているものであって、実際に空である所というのはどこにもないのである。ガラス球をひとつ用意し、その中の空気や塵埃など全てのものを取り去ることができるとする。それでもこのガラス球はなお空ではなく、まだ残存しているエーテルがある。ここで、このガラス球の中に電気ベルを入れ置いて、空気を排除し尽くせば、どれほど電気ベルを打とうとその音は聞くことができない。これは音を伝える中間物である空気が無いからである。ここで電気ベルの代わりに電灯を灯すなら、いかに空気を排除してもその光の輝きに少しの差異も認めることはできない。人は真空中において電気ベルが鳴るかどうかは知り難いが、真空中で電灯が灯るかどうかは、空気中におけるそれと同様に知ることができる。これは光の伝播が空気によるものではないことを証明するものであって、もとより空気によるのではないとするなら、これを伝える何物かがあるに違いないことを知るのである。ここにおいて何物かの存在を明確に知らしめるために、名付けてこれをエーテルと呼ぶ。電灯が見えて電気ベルが聞こえないのは、ガラス玉の中の空気を排除できても、なおエーテルを排除できないことによる。もしある作用によってこのエーテルを除去できたとすれば、我々はついに電灯の光が消滅するのを見るであろう。我々が自分の呼吸する空気の存在を信じていながら、エーテルの存在を信じようとしないのは無理がある。宇宙の至る所がエーテルで充ちていることはもはや明瞭な事実であるが、これは光が太陽からだけでなく、無数の星からも来るのを知っているからである。我が地球自身もまたエーテルの大海を遊泳している。この地球に接近する流星が地球の大気中に入る時は、その空気は非常に高い所にあるためとても希薄で、分子間の距離もまた遠く隔たっているにもかかわらず、流星と空気分子との激しい摩擦のために、流星は熱を持ち、これを構成する岩石もまた融解し蒸発することがある。この時はもちろん流星の速度はとても速く、ゆうに一分間で一千里を進む。しかし地球が太陽を回る速度がその流星の速度と同程度のものだとして、もしエーテルがなんらかの抵抗を起こすなら、流星が白熱融解するときに上層の大気を走るようにはならないし、さらに何億年も知られざる長い年月の間、均一の速度でもって運行することができないことは論ずるまでもない。であるのでエーテルなるものは、地球の運行にほとんど抵抗を起こさないものだと言うことが出来る。

以前に述べたロシアの大化学者メンデレーエフ氏は周期律の法則を確定して、エーテルは極めて小さい微分子であって、各物質の隙間を自由に通過できるものであるので、すなわち全ての物質はエーテルの微分子に対しては、その通過は全く自由になる多孔性のものであるとした。今日の物理学者は必ずしもこの考えを受け入れるのを好まないが、またこのように考えることもできるのではないだろうか。

素焼きの陶器の壁を通して水はほとんど滴らないものの、気体は比較的自由にこれを通過できる。レナード氏の実験によって、通常の気体を遮断し得るアルミニウムの板は電子を自由に通過させるのが見られた。それならばエーテルが全ての物質を自由に通過し得ると言っても要するに五十歩百歩であり、あえて驚くには足らない。電子と原子との比較はなおもエーテルと電子との比較の如きであろうか。エーテルの原子の大きさがもしそのようであるとするならば、周期律表中にそのエーテル元素に対応する空位を見出すことが出来るかもしれない。しかしメンデレーエフ氏の説は単にひとつの想像に過ぎず、今日の物理学者は、エーテルの微分子の大きさについて深く推察することはやめておき、ただその作用についてのメカニカルな内容の仮説を試すことに努めてほしい。何故なら我々はエーテルなるものの本質においてはこれ以上なんらの知識を持っていないからである。エーテルなるものは確かに存在しているに違いないのであるが、しかしこれは普通に我々がいわゆる物質と呼ぶものとは全くかけ離れている性質を有するものである。だからこの不可思議で不可解なものに対して、それが普通の物質のように微粒子から成るものであるという想像をすることが正しいのかどうかは、すぐに判断することができないのである。少なくともロシアの化学者の言うところを必ずしも真としてはいけない。これはひとつの想像にとどまるのである。

我々は電子説によって、物質は原子から成り、原子はまたいっそう微小な電子から成っていて、原子はあたかもひとつの小さな太陽系のようなものであることが言える。この論理でもって進めれば、未来においては、この電子自身がまたいっそう小さいもの、すなわちエーテルから成り、このエーテルが、原子内の電子の運動のように電子内を活動する、というところに至るであろう。それならばそのエーテル内にまたいっそう小さいものがあるだろう。こうしてこれが帰着するところはついに知れず、小から小へと入ってゆき、我々はその小ささの極まるところの無さに困り果てるであろうと感ずる。しかしながら今日においては、電子以上に小さいものに関しては単にひとつの想像に過ぎず、なんらの証明も無い。したがってこれについてどうこう言うのは、今日の科学思想を説く上においては、なんらの意味を成さないものと言えるだろう。エーテルなるものの存在は諸物質の存在のように確実である。しかし物質を構成する電子の存在はレナード氏の実験によって知れたが、エーテルを構成する微粒子が果たして存在するかどうかは、単にメンデレーエフ氏の想像に過ぎないのである。しかしエーテルが微粒子から成るという説は、いまだに一般的に信じられているところでは無いものの、今日の学者は全ての物質の根元はエーテルなるものであるとの考えは一致するところであるようだ。

数年前にソルズベリー卿が言ったが、エーテルとは振動するという動詞を名詞にしただけのものであり、我々はエーテルなるものに振動以外のなんらの性質を見出し、また想像することができないのだと。じつに然り、我々がエーテルなるものの存在を認めるしかなくなったのに至ったのは、それが中間物として一種の波動を伝えている可能性があるがためであって、我々はそれ以外にエーテルの存在についてなんらの必要を認められない。我々はエーテルの実質について何も深く詮索する必要がない。我々はエーテルのその波動について研究すれば十分ではないだろうか。

実にエーテルが各種の波動を非常な速度をもって伝播し得る性質があることは不思議と言うしかない。我々は太陽から起こる種類の波動を光波と名付けている。そしてこの白色の光をガラスのプリズムに通した時は、各種の色に分かれ、燦然な赤から紫に至る七色になる。しかし太陽から来る光波はこの七色のみに限るものではないので、この七色は実は全光波のうちのある一部分に過ぎない。すなわち太陽から来るエーテルの波動の中で、我々の眼を刺激することのできる種類は少なく、他の大部分は我々の網膜になんの感応も起こさないものとする。何によってこれが言えるか。ここで精密な温度計を用意し、赤色から外の部分に置くとき、その温度が上昇するのが見れる。したがって、赤色より外のエーテル波動であり熱を起こす種類のものが到達していることを知るのである。また紫色より外の部分は目に見えないが、そこに写真の乾板を置くと、乾板は明らかに感応する。このように太陽から来る波動のうち、我々の眼に紫、藍、青、緑、黄、橙、赤の各色を興す以外に、化学反応を起こす種類及び熱を起こす種類があることは、実に驚くべきものと言うしかない。

しかしながらエーテルの波動は以上の種類に限らない。レントゲン氏の発見したX線のようなものもまたエーテルの一種の波動に他ならない。普通の光波は、木質または動物の肉などに対しては不透明であるので通過できないものの、X線はこれらを通過できるところが異なっている。X線の詳細な説明は後に譲り、ここでは単にエーテルの波動の一種としてX線なるものがあることを言うに留める。

なおまた先に説明したように、無線電信がある種のエーテルの波動に起因するとすれば、その波動の種類の多さは驚くべきことである。また、ひとつの物体が他の物体に働いて互いに引き合う、いわゆる重力なる現象も、おそらくはこのエーテルの一種の作用であろう。されどこの重力については数百年前、ニュートンがその存在を発見して以来、今日の開明の世に至るまで、なんらの説明を与えられていない。

ここでひとつ読者を迷わせることは、いかにしてエーテル内を波動が何十万里の長距離を進行し、しかもまさに同一の速度を維持して何故衰えないのかということである。エーテル内を進行する各種の波動はどれも毎分1,100万里近くの速度でもって進行する。これを正確に言えば秒速18,600里である。

後の章で光の説明をする際に、いかにしてこの速い速度を測定したかは述べるが、ここでは単になぜその速度が終始不変で何故衰えないかについて記すことにする。

光波が伝播する速度はとにかく速いため、はるか遠くの灯台から来る光が我々の眼に達するのは、ほとんど一瞬でその時間を計ることができない。しかし太陽と地球の間は9,200万里あり、この間を通過するのに実に8分間を要する。宇宙は無限に広大である。なので数億年前に創造された遠くの星の光が数億年後の今日、ようやく我々の眼に入ってきたものもある。このように、想像することさえも不可能なほどの遠距離の間を常に同一の速度でもって波動が進行して来るのは、実に不可思議と言うしかない。しかしこれは我々が地上で転がるボールがやがてその速度が弱まって止まるというような浅薄な経験から推測してそれを想像するためである。弾丸が空中を飛ぶときは、徐々にその速度は減少しているものの、池の上に起こるさざなみは、その起点から岸に至るまで常に同じ速度で進むものである。音を空気の波動とするなら、音は遠くに行くに従ってその力が弱まるといえども、それでもその速度にはなんらの違いが生じることはない。弾丸が空中を飛び、ボールが地上を転がるというのは、つまり物体がそれ自身のその位置を刻々と変えているということである。だがそれがその位置を変えるときには常に二種類の抵抗に遭っていて、すなわち空気との衝突と地球の引力がそれである。つまり池のさざなみや空中の音波は共に、何かの物質が進行することによって起こるのではなく、ただ水もしくは空気の各部が上下あるいは前後に運動する、いわゆる波動が次から次へと伝わるに過ぎないのである。海の上で遊泳している人は、沖から大きいうねりが押し寄せてきて自分が浮かんでいる場所まで来ると、波と共に海岸に押し付けられていくように思えるが、事実はそうではなく、その人自身が単に高くなり低くなりするのを感じるだけであって、うねりが自分を残して海岸へ向かって去ってゆくのを見るのであるから、つまり自分と海岸との距離は波によってはなんらの変化も生じないのである。これは明らかに水自体が進行するのではなく、ただその上下動がだんだんと次から次へと伝播してゆくに過ぎないのである。しかしここで我々は波と潮流とを混同すべきではない。太陽から来る光はエーテルの流れではなく、エーテルの波動であることを知れば、それが不変の速度を持つことは音波と水波の例から推察するのは難しいことではないだろう。水上の波動も空中の音波も、遠ざかるに従ってもその速度は同じでありながらも、その力が漸減してゆくのは我々が日常で見ているところである。光もまた同じで、10燭光(訳註:光度の単位)の電灯も近づけば本を読めるが、遠ざかれば蛍の光よりもかすかである。太陽は大変明るい、しかしもし太陽がとても遠くにあるような場合は、我々は一個の星よりも弱い光体として見るに過ぎないだろう。暗い夜に天空にかかる星々の中には自ら発光するいわゆる恒星の数はとても多いが、これらはいずれも、この明るき我が太陽と同様の光体が遠くにあるに過ぎない。

音波の速度は、音が通過する気体の性質が不変であるときにおいてのみ一定であり、ゆえに空気の温度が上昇もしくは空気以外の気体の中を音波が通過する時は、その速度が異なることは明らかである。光の速度もまたこれと同じで、それが一定で不変であるのは純粋のエーテル間を通過する時だけである。その光は一度空気中に入れば、その分子によって速度を弱め、また水に入ればさらにその速度を減少させる。しかし金属や土壌などは全くその波動を妨害して通過を許さないのである。

先に我々は、物質が原子から成り、原子が電子から成ることを説明したが、今またここにおいて、無限無際のエーテルの大海を読者の心の中に描き、その概要を想像させることができたと信じている。そして同じ極の磁石もしくは電気が互いに排斥し合い、違う極の磁石もしくは電気が互いに引き合うのは、電磁石または両帯電体の周囲に存在するエーテルによる作用に他ならない。我々はすでに物体が帯電するということが電子説上においてどういうことかは説明した。ではそれでは次章において、磁石とは何かという問いを解決し、さらに進んで、帯電体および磁石の周囲にあるエーテルがどのような有様にあって、互いに隔たっているものが吸引と排斥の作用を起こすかについて言及することとする。

(以上、『今日の科学思想』大日本文明協会著・1913年/大正2年発行・原著Scientific Ideas Of To-day by Charles R Gibson 1909・第6章「エーテルとは何ぞや」イーフラット訳)




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