母のこと #キナリ杯

何か書きたいとずっと思ってきたけれど、結局何も書かずに半世紀を生きてきた。これは反省記になるはずだ。でも嬉しい。

人生の半分を海外で過ごしてきた。仕事、結婚、子育てを経てここ数年は海外と日本を行ったり来たり。

そして今。3月半ばに帰国した後、新型コロナウィルスで海外の自宅に戻れなくなったコロナ難民中。実家にてひきこもりちゅう。

国際結婚を言い出した時、大反対され勘当を言い渡された。それでも結婚してしまった。そしたらもう許すから幸せになりなさいという手紙が結婚式当日に海を越えて届いて泣いた。全米は泣かなかったけど。それからはまた親子としての時間を少しずつ取り戻してきている。

そして数年前、母は認知症になった。何回も同じことを聞かれることにも慣れた。探し物を手伝うのも大丈夫。食パンのビニール袋が隠してあっても笑ってこっそり捨てる術も身につけた。

でも。母が父に聞いている。なおこはいつ帰るの? 新型コロナウィルスで飛行機が飛ばないことを一生懸命説明する父。その瞬間は理解しても、また聞く。そして。早く帰ればいいのにね。お父さんと2人がいい。なおこは好かん。一応私の前ではなかったが十分聞こえてきた。幾度となく。しょっちゅう繰り返される両親の会話。

え~~~!?

自分が認知症という自覚がないから、自分で何もかもやっているつもりでいる。父がどんなに大変かは理解していない。だから、私は実家にいて2人の邪魔をするうるさい娘として認識されている。でも、この言葉を聞いた時に突然思い出した。小学生の頃から母とはうまくいっていなかったこと。干渉されるのが嫌で、思春期前も思春期真っただ中も思春期後も母が嫌いだった。日記におかあさんだいきらいって殴り書きしたこともある。実家から出たくて出たくて出たくて。共通一次は失敗だったけどそれでも行けそうな県外の大学を選んで自宅を出た。グッジョブ、自分。

ずっと優しくなれなかった、お互い。でも、認知症になってからは母のためにと思って出来るだけ帰省して手伝ってきたつもりだったのに。のに。

夕飯を作れば美味しいと言って食べる。お皿を洗えばありがとうと言う。珍しい料理は初めて食べたと言って喜ぶ。初めてじゃないけど。この歳になっても初めてがあるんだ、いいねって笑う。でも、自分が食べたいお菓子などは食べた後でも食べてないと言い張り残りを隠す。食べたじゃん、腹立つぅ。母は隠した場所を忘れるから、あとで私がこっそりもらうんだけど。その瞬間だけが全ての母。過去も未来もない。

コロナ難民となって改めてつきつけられたような気がする母との関係。家族だから愛す、愛した人が家族だった、そのどちらも当てはまるし、どちらも当てはまらない。母への想いを持て余している。

母の友達が言っていた。いい人生だったと。私はわたしの母からその言葉をもう聞くことはない。どうだったのだろう。仲良くなれなかった私を恨んでいるだろうか。今の時間を少しは喜んでくれているだろうか。

ときどき優しくなれるけど、ときどき本気で腹が立つのだ。心の中で悪態をつく。しばらくはそれに対しても自己嫌悪のような気持ちもあった。でも。岸田さんや幡野さんやたくさんの方々の文章に触れ、私はわたしのままでいいと思えるようになった。愛そうとしなくてもいいんだと。母もははのままで。

私は母親から過干渉という虐待を受けている知り合いの子に親のことは捨ててもいいんだよ、親を選んでいいんだよって言った。幡野さんからおしえていただいた。でも、今の私に母親を捨てる勇気はない。それも私の今の選択。誰のせいにもするつもりはない。

将来はわからないから、これからも、とはいわない。

でも、

今日も絶賛親孝行中。あーうるさい、もう嫌だっておもいながら。


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