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【第3話】もし夏目漱石が社交ダンス教室に行ったら

前回の続き)

 僕は其人(そのひと)を常に先生と呼んでいた。だから此処でもただ先生と書くだけで本名は打ち明けない。是は世間を憚る遠慮というよりも、其方(そのほう)が僕にとって自然だからである。恐らく誰にとっても自然である。其人は舞踊の先生だからである。

「あなたの履物の大きさは八寸六分あたりでしょう」と先生は言った。
 僕の履物の大きさは、優に九寸を超えるのであるが、直ぐに否定することは憚られた。

 僕は最初から先生には近づきがたい不思議があるように思っていた。それでいて、どうしても近づかなければならないという感じが、何処かに強く働いた。人間を愛し得る人、愛せずにはいられない人、それでいて自分の懐に入ろうとするものを、手をひろげて抱き締める事の出来ない人――これが先生であった。社交舞踏の先生としては如何なものだろうか。

 僕は、壁際の長椅子に座りながら、こう考えた。
 智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。

「はい、八寸六分あたりです」悩んだ末に、僕は答えた。先生の思いつめた目を見ると、舞踏に履物が必要な理由を未だ得心していないとは言い出せなかったのである。
「本当ですか」と先生が念を押した。
「私は死ぬ前にたった一人で好いから、ひとを信用して死にたいと思っている。あなたはそのたった一人になれますか。あなたは腹の底から真面目ですか」
 僕は俯いた。そもそもちょっとした好奇心で足を踏み入れただけだとは、とても言えぬ雰囲気であった。

 僕らは相変わらず、珍妙な西洋音楽の中にいた。
「舞踏に履物は必要ですか」と勇気を絞って僕は聞いた。
「必要です。たしかに」と答えた時の先生の語気は前と同じように強かった。
「何故ですか」
「何故だか今に解ります。今にじゃない、もう解っているはずです。あなたの心はとっくの昔からすでに舞踏に動いているじゃありませんか」
 僕は一応自分の胸の中を調べて見た。けれどもそこは案外に空虚であった。思いあたるようなものは何にもなかった。
「僕の胸の中にこれという目的物は一つもありません」
「履物をはいていないからです。これは舞踏に上る階段なんです」
「僕には二つのものが全く性質を異にしているように思われます」
「いや同じです。私は講師としてどうしても履物を履かないあなたに満足を与えられない人間なのです。私の所では満足を得られない代りに危険もないが・・・君、黒い長い髪で引っぱたかれた時の心持を知っていますか」

 僕はゆうちゅうぶで観て知っていた。しかし事実としては知らなかった。いずれにしても、先生のいう履物が必要という意味は朦朧としてよく解らなかった。その上僕は少し不愉快になった。
「先生、履物が必要という意味をもっとはっきりいって聞かして下さい。そうでなければこの問題をここで切り上げてください。僕自身にその意味が解るまで」

(月がきれいですね・・・)

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