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秦氏のルーツ

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古代史最大の氏族…秦氏のルーツが凄かった!!
渡来系である秦氏とユダヤとの深い関係性とは?
ユダヤや原始キリスト教である景教とのつながりを強く持つ秦氏とツクヨミ古代イスラエル失われた10氏族について深掘りしていきます。

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秦氏とは?



秦氏が古代最大と言われる所以は、古代の日本において最も多くの人口と広い分布を誇る氏族だからです。

6世紀前半の欽明天皇の時代には、秦氏配下の民を含めて17万人の人口ボリュームを抱えていたともいわれ、当時の人口の約5%にあたる文字通り古代最大の勢力を誇っていたのが秦氏です。

そんな秦氏は渡来系の氏族です。
では秦氏がいつ日本列島にやってきたか?を確認できるのは『日本書紀』や『古事記』いわゆる『記・紀』の記載です。

『記・紀』には、秦氏が倭国に来たのは15代応神天皇の時代だと記載されています。

秦氏の功績


秦氏とは古代日本に高い技術力を誇った超ハイテク集団でした。

その技術力により、古代日本に多大なる功績を残しています。
秦氏の功績で、1番有名なのは蚕や絹などによる織物の技術を持ち込んだことでしょう。
機織りとは、秦氏が持ち込んだ技術だからハタ織というともいいます。

それだけでなく、秦氏は土木工事のプロ集団でもありました。
京都の桂川の治水工事を行い、葛野大堰(カドノオオイ)とよばれる川の流れをせき止める大きな堰(セキ)を作ったことでも有名です。
葛野大堰(カドノオオイ)を作ったことで、京都の秦氏は豊かさを増し、のちに長岡京や平安京造営へと繋がります。

秦氏が渡来したとされている5世紀は大阪の百舌鳥古墳群ができ始める時期であり、この時期から古墳が巨大化するのは秦氏がその土木技術を古墳の造営に注ぎ込んだからではないかともいわれています。

秦氏のすごいところはその技術力だけではありません。
秦氏は芸能の分野でも存在感を表しており、能楽の大成者である世阿弥は秦氏の後継を名乗っています。

それだけでなく秦氏は渡来系でありながら日本人の信仰にも、影響力を及ぼしており、日本で神社の数がトップ2である稲荷神社八幡神社の創建は秦氏が関わっています。

秦氏と稲荷神社や八幡神社についての動画はこちらでも詳しく解説しているので、こちらも参考にしてください。

秦氏の由来

そんな秦氏の名前の由来は、秦氏が養蚕や織物を得意としたからなのか「絹織物が肌のような感覚である」ことから「肌(ハダ)→秦氏」であったり、機織りのハタや畑作のハタ、朝鮮半島東部にある「波旦」の地名に由来しているなどあり、ほかにも『新撰姓氏録』では、その出自を秦の始皇帝の子孫であるとし秦の始皇帝の子孫だから「秦氏」と呼ばれているなど様々あります。

弓月国と秦氏


秦氏はどこから来たのか?という疑問は今、百済説新羅説の2つが良く語られています。

秦氏はどこから来たのか?については、こちらの動画でも語っているのでこちらの動画も参考にしてください。

しかし秦氏は、百済や新羅などの朝鮮半島に来る前に、中央アジアに存在した弓月国にいたのではないか?という説があります。

『新撰姓氏録』では、秦氏の出自を秦の始皇帝の子孫であるとし、そして「弓月王」の一名をもつ融通王が応神天皇14年に127県の百姓を率いて帰化したのが秦氏のはじまりとしています。

≪系図≫
秦の始皇帝―〇-〇-考武王-功満王-融通王(一名弓月王)

弓月国とは、中央アジアの現在のカザフスタン付近に1世紀~2世紀に存在したといわれているシルク ロードの北方ルート上にある国です。

この弓月国は、もともと紀元前 8 世紀に北イスラエル王国からアッシリア人に連れ去られた十部族 の中からガド族ルベン族、マナセ族などが建てた国であると言われています。

そして431年エフェソス公会議で異端とされたネストリウス派キリスト教(景教)が拠点としていたといわれています。
※エフェソス公会議: キリスト教の教義に関する重要な第3回の公会議。キリストは神か?人か?で議論が行われ人性を主張するネストリウス派は異端とされた

秦氏は朝鮮半島に来る前はこの弓月国におり、ユダヤ教やネストリウス派キリスト教徒(景教徒)だったのではないか?と指摘されています。

指摘される理由としては、『日本書紀』や『新撰姓氏録』を読み解けば”秦氏の祖先は弓月君である”とされていることが有力でしょう。

秦氏がユダヤ教やネストリウス派キリスト教の影響が強い弓月国の出身だったとすると、当然ユダヤ教やネストリウス派キリスト教徒だった可能性があり、日本に渡来してきた際にもユダヤ教やネストリウス派キリスト教の神を拝んでいたと考えるのは自然です。

ツクヨミとは?


ユダヤ教やネストリウス派キリスト教との関りを噂される秦氏は、ツクヨミとの関係も強いといわれています。

ツクヨミといえば、三貴子の1柱であり、イザナギが禊をしているときに左目から生まれたのは高天原の主宰神であり天を統べるアマテラス、鼻から生まれたのが海原を統べるスサノオならば、右目から生まれたのが暦を読み夜を統べるのがツクヨミです。

アマテラス・スサノオに比べ圧倒的に登場が少なく、ツクヨミを祀る神社も100にも満たない謎多き神様ツクヨミとはどんな神様なのでしょうか?

ツクヨミとスサノオ


唯一とも言えるツクヨミのエピソードに食物の起源を示す物語があります。
『日本書紀』の中でツクヨミはアマテラスの命で保食神(ウケモチノカミ)の神と対面した際、保食神の神が口から食物を出してもてなしたことでツクヨミはけがらわしいと怒って殺し保食神の神の体からは牛や馬や蚕、稲、麦や大豆などが生まれ、これが穀物の起源となったとあります。

アマテラスはツクヨミに対し、「汝悪しき神なり」と怒り、それ以来昼と夜に別れることになりました。

一方、古事記では同様の説話で登場人物が異なり、スサノオオオゲツヒメが口や尻から食材を取り出して振舞ったことにスサノオは怒りオオゲツヒメを殺したとなっています。

ツクヨミは『古事記』では”月読む命”、『日本書紀』では”月夜見る尊い”などと表記しますが、ツクヨミには月齢を読むという意味があります

月には満ち欠けがあり、潮の満ち引きとの関係やこの満ち欠けの周期をもとにした太陰歴にあるように月は暦がわりでした。

暦を読むことで種まきの時期や魚の産卵時期を知ることができるなどから、農耕や商売繁盛、暦を読むことから占いの神様としても祀られています。

ツクヨミスサノオにはいくつもの共通点があります

スサノオはヤマタノオロチ退治後に根の堅州国にというあの世に住んでおり、ツクヨミもまたあの世を司る神ともされていること。

また日本書紀でツクヨミの支配領域に「海原の潮の八百重を治すべし」とあるようにスサノオと同じ海があること、食物の起源に関する殺害の話などを踏まえるとツクヨミとスサノオは同一人ではないのかという説もあります。

ツクヨミと秦氏


正統竹内文書の口伝によると、ツクヨミの一族は大きくわけて三つあり、月弓月読月夜見があり、三日月のシンボルを持つ月弓が軍事の神、新月のシンボルを持つ月読は暦の神、満月の月夜見が夜を治める神だということです。

三部族の束ねたときに使われるのが満月の月夜見とのことです。
つまり、ツクヨミは、軍事に長け、夜の天体の動きや月を読むことで時間や暦にも精通した一族であったということになります。

正統竹内文書でも言われている通り、ツクヨミとは、月弓とも書き、これはまさに秦氏の祖国である弓月国だと考えることができます。

アマテラスはツクヨミに対し、「汝悪しき神なり」と怒り、それ以来昼と夜に別れることになったあと、ツクヨミは大陸に渡り弓月国に行きついたのかもしれません。

そしてツクヨミは弓月国の王となり、弓月君として秦氏を束ね日本列島に戻ってきたのかもしれません。

弓月国があった中央アジアの現在のカザフスタン付近には、『ヤマトゥ』や『ナラ』という地名が存在するそうです。

そしてこの弓月国はシルクロード沿いの国であり、シルクロードとはその名の通り絹の道です。

絹といえば、機織りを得意とした秦氏を連想させます。

また第73代武内宿禰の竹内 睦泰氏によると、「かつて日本を出たツクヨミの士族はユダヤ人と呼ばれる存在となりその一部は秦氏という名前で日本に戻ってきている」と語っています。

秦氏のルーツ


これまで秦氏とは、高い技術力を誇った渡来系氏族であることやユダヤ教や原始キリスト教である景教の影響が強い弓月国から来たこと、そしてツクヨミとの関係を紹介してきました。

数多くの神社の建立から垣間見える秦氏の特異な宗教観や、秦の始皇帝との血縁関係の可能性から察するに、秦氏はアジア大陸でもさらに西に存在するイスラエル国のユダヤ王系の一族であったかもしれません。

秦氏がイスラエル民族であり、しかも王系のユダ族である理由として、まず、「秦」という名称があります。
『古語拾遺』には「秦」を当初「ハダ」と発音した根拠として、「肌膚に軟らかなり。ゆえに秦の字を訓みてこれを波陀と謂う」と書かれています。
また、『新撰姓氏録』には、秦氏が仁徳天皇より姓を賜った際の記述があり、そこには「ハタ」の当て字として「秦」ではなく、「波が多い」と書いて「ハタ」としています。
「ハダ(ハタ)」の読みに定説はありません。

南ユダ王国に属するユダ、ベニヤミンの2部族の末裔は、今日「ユダヤ人」と称され、ヘブライ語でיהודי(Yehudi、イェフディ) と呼ばれています。
中でも王権を継承する役目を担ったユダ族はיהודה(Yehudah、イェフダ) と呼ばれました。
その綴りは、ヤーウェーの神を意味する文字(יהוה(yhwh)) に一文字ד(d) を付け足しただけです。
そしてユダ族の「イェフダ」から神を意味するי(y) を除くと、「フダ」となり、「ハダ」とほぼ同じ発音です。
なので、「イェフダ」が「秦」の語源になったと考えることができるのです。
つまり、秦氏は「ユダ族」の出自であり、ヘブライ語で「ユダ族」を意味する「(イェ)フダ」を語源として「フダ」または「ハダ」という名称になり、その読みに、「秦」の漢字をあてたと推測されます。

秦氏の出自がユダ族であることは、「秦」の漢字表記からも理解することができます。
旧約聖書の創世記に登場するアブラハム、イサク、ヤコブらイスラエルの先祖は、民衆を治める指導者という意味において、「族長(パトリアーク)」と呼ばれています。

語源は、ギリシャ語の「父」を意味する「pater(ペイダー)」と、「指導者・・「王」の意味を持つ「archon(アルカーン)」が組み合わされたものです。

その後、キリスト教では「パトリアーク」は「司教」という意味で使われるようになり、中国の景教では「波多力」と書き表されました。

つまり「波多」という漢字は、イスラエルの指導者ユダヤの父なる指導者を示唆する言葉だったと考えることができます。

そのイスラエルの指導者を称して「波多力」と書き、それが「秦」とも書かれるようになり、「ハタ」と読まれるようになったということは、秦氏がまさに、ユダヤ系の指導者なる一族の血統をくんでいることの証と考えられます。

まとめ

いかがでしょうか?
今回は秦氏のルーツについてツクヨミやユダヤ、原始キリスト教とも呼ばれる景教など様々な面から紹介してきました。

ツクヨミと秦氏の関係は、ツクヨミは神代の時代で秦氏は5世紀の話ですから相当のタイムラグがあるのかもしれません。

弓月国は失われた10氏族である、ガド族ルベン族、マナセ族などが建てた国であるといわれているのに、弓月国の出身者である秦氏のルーツがユダ族というのはしっくりこないかもしれませんが、南ユダ王国滅亡後にその一部が東を目指した先に宗教観の近い弓月国を見つけて住み着いた可能性も否定できないのではないでしょうか。

今日はここらへんでお別れです。
ご視聴いただきありがとうございました。
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ではまた、違う動画でお会いしましょう!
ばいばい!

この記事は私が運営しているYouTubeチャンネル【きーの歴史沼チャンネル】の動画を、テキストにしたものです。


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