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【衝撃】消された豪族「蘇我氏」の正体が○○だった...

お元気様です!歴史沼チャンネルのきーです。

古代史最大の悪役…蘇我氏の正体がヤバかった…。

私たちは日本書紀によって騙されている..。.

今回は記紀によって悪者となってしまった蘇我氏の正体と悪者にされたその理由について、学術的にお話していきます。

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蘇我氏とは



蘇我氏とは、小学校の歴史の教科書にも登場するため1番知名度がある古代豪族かもしれません。

蘇我氏は倭国が古代国家への歩みを始めた6世紀~7世紀にかけての歴史に対して、もっとも大きな足跡を起こした先進的な氏族でした。

渡来人を配下においての技術や統治の方式、屯倉などの地方支配など優れた能力を持ち、のちの藤原家がお手本としただけでなく、中大兄皇子と中臣鎌足が乙巳の変を起こさなくても、蘇我氏が倭国を古代国家へと到達させていたかもしれないといわれるほどの能力の高さを誇る氏族が蘇我氏です。

蘇我氏は悪者なのか?



しかしそれほどまでに実力がありながら蘇我氏と聞くと、悪いイメージや悪者のイメージを抱く方が多いのではないでしょうか?

それは蘇我氏が自分の娘を大王に嫁がせ、その子を大王にするなどして倭国の権力を握り、権力を持った蘇我氏は横暴を極め、崇峻天皇や山背大兄王などを殺害するなど自らが天皇家になり替わろうとした?と多くの人が認識しているからです。

しかし日本国民が持つこの蘇我氏の悪者イメージは、日本書紀によって作られた誤解であり、私たちは日本書紀によって巧妙に騙されているのです。

蘇我氏はどこから来たのか?


日本書紀が隠蔽している蘇我氏について迫る前に、蘇我氏の正体について迫っていきましょう。

みなさんの中には、蘇我氏は渡来人であったと思っている方も多いのではないでしょうか?

しかし現在学術的には、蘇我氏渡来人説は否定されています。

蘇我氏渡来人説


蘇我氏が渡来人であったという説が流布した理由は、2点あります。

一つ目は、『日本書紀』に応神天皇25年に渡来したという百済の高官、木満智(モクマチ)という人物と蘇我氏が祖先として主張している蘇我満智が同一人物であると考えたからです。

二つ目は、平安時代に成立した『歴運記(れきうんき)』に記されている系譜で、
満智宿禰-韓子-高麗-稲目宿禰
と満智と稲目の間の人物が「韓子」「高麗」といった「朝鮮風」の名前を持つことが根拠とされました。

しかし歴史研究者の倉本一宏氏は、この系譜自体、のちに蘇我氏を掌握した石川氏によって創作された可能性が高く、祖先とされている蘇我満智という人物自体、石川氏によって創出された人物である可能性が高いとしています。

蘇我氏が先祖と称する満智~高麗という「朝鮮風」の名前もこれらの系譜自体に信ぴょう性がないため、現在では蘇我氏渡来人説は完全に否定されています。

蘇我氏渡来人説が流布した理由として、倉本一宏氏は当時「騎馬民族征服王朝説」「三王朝交代説」など倭国の文化や政治の源流をなんでも朝鮮諸国に求めるといった風潮があったことと、蘇我氏を歴史の悪者と決めつけたうえで、天皇への不敬行為をするのは外国人であるに違いないといった潜在意識が当時の日本人にあったのではないか?としています。

蘇我氏のルーツとは?


蘇我氏の正体はなんなのか…
蘇我氏の系譜の満智~高麗が実在の人物でないとすると、蘇我氏の実質的な始祖は蘇我稲目でしょう。

蘇我稲目はどこから来たのか...
そしてどのような経緯で、いきなり「大臣(オホマヘツキミ)」という重要な職位についたのでしょうか。

葛城という政治勢力

この疑問を解く鍵は、葛城という集団にあります。
記紀によれば「葛城氏」は、5世紀に仁徳天皇~雄略天皇までの天皇へ后を輩出し、大王家の外戚となっていたことを伝えています。
葛城地域を地盤とした集団が5世紀に大きな勢力を持っていたことは馬見古墳群など巨大前方後円墳や遺跡群をみれば容易に想像ができます。

ただし、5世紀の段階では氏(ウジ)という政治集団は成立していないのでここでいう葛城氏はあくまでも、葛城地域を地盤とした、必ずしも血縁に基づかない複数の集団の連合体のことを指します。

ですがこの葛城氏は、6世紀に雄略天皇と対立して以降解体されてしまいます。

しかし大王家の外戚として巨大古墳群を形成するほどの勢力を持ち、なにより記紀にこれほどまでに伝承を残すことを認められた政治勢力がまったく消えてしまうはずがありません。

なんらかの葛城集団の後継が存在して「葛城氏」の氏族伝承大王家との系譜を作り上げ、それを『日本書紀』に定着させることに成功した集団があると考えるのが自然ではないでしょうか。

この解体された葛城勢力を掌握し、独立した集団をまとめ上げた人物こそ蘇我稲目なのです。

蘇我稲目を中心として、葛城地域から渡来人が多く居住していた飛鳥や河内に進出して氏としてまとまったのが蘇我氏なのです。

蘇我稲目と欽明天皇

蘇我氏が栄華を極めたきっかけがわかるには、蘇我氏の実質的な祖である蘇我稲目と欽明天皇との関係を知る必要があります。

蘇我稲目は欽明天皇を支えることで、ヤマト王権内での権力を手中に収めました。

第29代欽明天皇は、遠くは越より大王になった第26代継体天皇の皇子でしたが、即位できるかについては不安がありました。

その不安とは、安閑天皇と宣化天皇という2人の兄がいたことと、それに越からの来たという継体天皇の子であるために畿内に欽明天皇自身の支持基盤が乏しいことがあげられます。

畿内に自分の支持勢力が欲しい欽明天皇が目を付けたのは、過去に大王家を脅かすほどの勢力を誇った葛城勢力を束ね、葛城勢力が持っていた経済力や外交力などを傘下に収めていた蘇我稲目です。

欽明天皇は蘇我稲目の娘を2人后にしました。

そうすることによって欽明天皇は、元葛城勢力を取り込むことができます。
蘇我稲目にしてみれば葛城氏がしていたように大王家の外戚になることができます。
もとの葛城勢力が持っていた経済力やさまざまな大陸の技術を有していた渡来人を配下に置き、外交力などを受け継いだ蘇我稲目と欽明天皇と利害関係が一致したことで、蘇我氏はヤマト政権で権力の中心の座を手に入れることができたのです。

その証拠に、大臣(オホマヘツキミ)とは、蘇我氏のみが就いた職位です。
大臣とは、マエツキミと呼ばれる朝廷の合議に参加する資格を持つ高官の合議体を主宰しヤマト政権を代表する外交の責任者のことです。

「大臣(オホマヘツキミ)」という職位につき、蘇我氏は稲目、馬子、蝦夷、入鹿と4代にわたって古代最強の中央豪族となっていったのです。

『日本書紀』のウソ


大王に娘を嫁がせて大王家の身内になったり、大臣を蘇我氏のみで独占し権力を握ったという蘇我氏が次第に大王家を超える存在になろうとした…というのが蘇我氏悪者イメージの全貌でしょう。

その具体的な例としてあげられるのが、崇峻天皇殺害事件です。

ここからは『日本書紀』が隠そうとしている蘇我氏の真実を暴いていきましょう。

崇峻天皇殺害事件

崇峻天皇殺害事件については、『日本書紀』によれば崇峻天皇が献上された猪を指さし「いつかこの猪の頸を切るがごとく朕が妬しと思っている人を切りたい」といいそれを聞いていた蘇我馬子が自分が嫌われていることを恐れて崇峻天皇を謀殺したことになっています。

『日本書紀』は崇峻天皇を殺害したのは、蘇我馬子である。と記しているのです。

しかし崇峻天皇は、蘇我稲目の娘と欽明天皇との間に生まれた子であり、蘇我馬子からしてみれば甥っ子にあたります。

当時の大王はヤマト政権の首脳部にあたる群臣(マエツキミ)たちの推戴がなければ即位できなかったので、当然大臣(オホマヘツキミ)である蘇我馬子も崇峻天皇を推戴したと考えるのが自然ですし、蘇我氏の権力の基盤は大王の身内であるということです。

自らの権力基盤の大元である大王を、蘇我馬子がわざわざ消し去ろうする必要はあるでしょうか?

崇峻天皇が謀殺された理由や蘇我馬子の謀略と考えるより、崇峻天皇が支配者層全体の利害を体現できず、対立が露わになったからではないでしょうか。

崇峻天皇は元々ヤマト政権成立以来の伝統的な地ではなく、倉梯といった山間部に宮を造営し蘇我氏やマエツキミ層と距離を置いていました。

ほかにも、当時中国大陸では隋が成立するというなかで崇峻天皇は朝鮮半島の任那に復興軍を派遣するなど、緊張する東アジア情勢の中で性急すぎる政策を打ち出し、蘇我氏やマエツキミ層から反感を買っていたと思われます。

このようなヤマト政権の首脳部と崇峻天皇との対立があり、おそらくヤマト政権の首脳部の合意のもと大臣(オホマヘツキミ)である蘇我馬子が代表として崇峻天皇を殺害したということが真実なのではないでしょうか。

この当時、マエツキミたちの推戴がなければ即位できない大王の権力基盤が弱く大王の絶対的な権力が確立していない飛鳥時代はヤマト政権支配者層の全体の利害を体現できない大王は支配者層の同意の下で殺害されるというのは十分起こり得る事態です。

その証拠に蘇我馬子を非難しているように読み取れる記事はなく、マエツキミなどヤマト政権の首脳部が崇峻天皇殺害事件で動揺したという記載もありません。

そう考えると、大王をも謀殺してしまうほどの悪者だった蘇我氏というのは『日本書紀』が作り上げた虚構であるのです。

日本書紀の最大の被害者は蘇我氏

ではなぜ、『日本書紀』は蘇我氏を悪者のように描くのでしょうか?

その理由は簡単です。
蘇我氏を悪者にしなければ都合が悪かった人物が、『日本書紀』編纂をしているからです。

その人物とは、持統天皇藤原不比等です。

『日本書紀』は681年に天武天皇の命によって編纂が開始され、720年に元正天皇の時代に完成した歴史書です。

編纂を命じたのは天武天皇ですが、天武天皇は編纂を命じた5年後に崩御してしまうので『日本書紀』編纂期間内1番権力の中枢にいたのは持統天皇と藤原不比等でした。

持統天皇とは、天武天皇の皇后であり、中大兄皇子こと天智天皇を父に持つ女帝です。

藤原不比等の父は中臣鎌足であり、のちに繁栄を迎える藤原氏の祖というべき人物です。

持統天皇と藤原不比等の父には、共通点があることにお気づきの方も多いでしょう。

持統天皇の父、天智天皇も藤原不比等の父、中臣鎌足も、蘇我入鹿暗殺事件である乙巳の変で活躍した2人です。
※大化の改新は乙巳の変後に行った政治改革。蘇我入鹿暗殺事件自体は乙巳の変という

天智天皇や中臣鎌足が行った政変である乙巳の変や、その後に行われた大化改新が『日本書紀』編纂と同時期に行われていた天皇中心の律令国家への第一段階として称賛したい持統天皇や藤原不比等にとって蘇我氏は”悪”でなければなりません。

蘇我氏を天皇をないがしろにする”悪者”にしなければ、天智天皇や中臣鎌足が行った政変の価値が低下してしまし、蘇我入鹿暗殺が正当化されません。。

持統天皇と藤原不比等は、天皇中心の律令国家の足掛かりとして位置づけた乙巳の変や大化改新を称賛するため、それを主導した自分たちの父をヒーローとするために、『日本書紀』にて蘇我氏を悪者として描かせたのです。

まとめ


いかがでしょうか?
今回は、『日本書紀』によって悪者にされた蘇我氏の正体について学術的に迫っていきました。

歴史とは常に勝者である時の権力者によって語られるものです。
それは日本最古の歴史書である『日本書紀』も例外ではありません。

しかしそんな『日本書紀』で悪者とされながらもその活躍を記さざるを得なかったことを考えると蘇我氏の影響力のすごさを感じますし、そんな蘇我氏がいたからこそ葛城氏の伝承が今に伝わっているのかもしれません。

今回の参考文献は、倉本一宏氏の著作『蘇我氏-古代豪族の興亡』遠山美都男氏『日本書紀はなにを隠してきたか』です。

2冊とも学術的に古代史に迫れる歴史学者の本なので、興味のある方は概要欄のリンクからチェックしてみてください。

今回の動画につかった台本も公開しています。
文字で今回の内容を読みたい!という方は、概要欄のリンクからチェックしてみてください!

今日はここらへんでお別れです。
ご視聴いただきありがとうございました。
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ではまた、違う動画でお会いしましょう!
ばいばい!

この記事は私が運営しているYouTubeチャンネル【きーの歴史沼チャンネル】の動画を、テキストにしたものです。

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