見出し画像

なぜ秦氏は聖徳太子の一族を見捨てたのか?

お元気様です!
歴史沼チャンネルのきーです。
今回は秦氏はなぜ聖徳太子の一族を見捨てたのか?というテーマで迫っていこうと思います。

このチャンネルは知識の量や深さに関係なく、歴史を楽しむコンテンツを聞き流しスタイルで紹介しているのでよかったらチャンネル登録よろしくお願いします。

秦氏と言えば、最先端の技術を有した渡来系氏族でありながら、天皇の即位に貢献したり、京への遷都に貢献した古代最大の氏族です。
そんな秦氏が、聖徳太子の一族を滅亡させたという事件をご存じでしょうか?
今回は秦氏がなぜ聖徳太子の一族を滅亡させたのか?というテーマでお話していきます。

YouTube動画で見たい方はこちら!


秦氏と聖徳太子


秦氏とは、『日本書紀』『古事記』いわゆる『記紀』の中では、応神天皇の御代に渡来したとされる渡来系の氏族です。

機織りの技術や土木治水工事の技術を日本に伝えた、古代日本のハイテク技術集団でありながら、中央政治に関与することが少ない謎多き氏族です。

秦氏の正体については、こちらの動画で解説しています。

テキストで読みたい方はこちら。

聖徳太子といえば、知らない人はいないことでしょう。
「聖徳太子はいなかった!」と言われたこともありましたが、現在では「聖徳太子はいなかったが、厩戸皇子と呼ばれた人物はいた!」ということが定説となっています。

この動画ではわかりやすいように、聖徳太子で統一させていただきますが、では古代最大のハイテク集団である秦氏と聖徳太子にはどんな関りがあるのでしょうか?

聖徳太子のブレーンだった秦河勝



秦氏が謎の多き氏族といわれる原因の一つに、秦氏が中央政治に関与することが少なかったために記録に残りにくいという点が挙げられます。

そんな中央政治への関りが少なかった秦氏の中で、日本書紀にも名前やその功績が記録されている人物がいます。

その人物とは、秦河勝です。
秦河勝といえば、山背国現在の京都に本拠地を持っていた秦氏本宗家の直系の人物です。

この秦河勝が、6世紀末~7世紀に聖徳太子の政治的ブレーンとして活躍していた人物です。

様々な技術を携えて渡来してきた秦氏は、酒造りの祖や機織りの祖などいろんな分野でその技術の元になった氏族です。その中でも秦氏の末裔を自称する能楽の大成者である世阿弥は、猿楽の起源は秦河勝が聖徳太子から命じられて舞ったのが始めであると『風姿花伝』で語っています。

秦河勝と聖徳太子


ほかにも秦河勝と聖徳太子の関係性の深さがわかるエピソードが『日本書紀』に残っています。

みなさんは、国宝第一号は聖徳太子と秦河勝のゆかりの品であることはご存じですか?


国宝第一号は、広隆寺に安置されている弥勒菩薩半跏思惟像です。

片足を他の片足のももの上に組んで座り、指を頬に当てて物思いにふけている姿の銅像は、歴史の教科書にも載っているため1度は見たことある方が多いのではないでしょうか?

『日本書紀』には、聖徳太子が「尊いこの弥勒菩薩を引き取り礼拝する者はいないか?」と尋ねたところ、秦河勝が進み出て「私が礼拝しましょう」と言い、仏像を受け取った。
この仏像を礼拝するために建てたのが、広隆寺である。と伝承されています。

秦氏の氏寺である広隆寺は、聖徳太子が秦河勝に引き取らせた国宝第一号である弥勒菩薩半跏思惟像を納めるために建てた寺です。

『風姿花伝』や『日本書紀』の伝承から、秦河勝は聖徳太子のもとで活躍していたことがわかります。
しかし古代の日本で先進的な技術力と強大な経済力を持ち、その力を源に聖徳太子を支えていたにもかかわらず秦氏は、のちに滅亡する聖徳太子一家を見捨てるのです。

上宮王家滅亡事件


まず、聖徳太子一家の滅亡について説明していきましょう。

『日本書紀』では…
皇極天皇2年11月、蘇我入鹿が斑鳩にいた聖徳太子の長男である山背大兄王一族を襲撃し、一度は背後の生駒山に隠れるものの、山を降り、斑鳩に戻りそこで聖徳太子の一族は滅んでしまいました。

聖徳太子は父は用明天皇、母は欽明天皇の娘である穴穂部間人皇女であり有力な皇位継承候補者でした。
その長男である山背大兄皇子も有力な皇位継承候補者でした。

この出来事は、上宮王家滅亡事件と呼ばれ、飛鳥時代の熾烈な皇位継承争いの一つ出来事であり、今後に起こる大化改新と呼ばれる国政改革のターニングポイントとして語られています。

山背大兄皇子と秦氏


この当時の皇子の名前は、養育をした氏族や地名に由来して付けられるのが一般的です。
後に天武天皇となる、大海人皇子も大海人氏の女性が養育にあたったことに由来しています。

そう考えると、山背大兄皇子も山背国の有力者によって養育されたことがわかります。
山背国といえば、秦河勝に代表される秦氏本宗家の本拠地です。
なので、聖徳太子の長男である山背大兄皇子の養育を担ったのは秦氏と考えるのが妥当です。

山背大兄皇子の謎の言動


この上宮王家滅亡事件の際、山背大兄皇子は意味深は行動をしています。

山背大兄皇子は、蘇我入鹿に襲撃され、命からがら生駒山に逃げ込み4~5日食うや食わずで潜んでいた際に、側近から再起を図る進言をされましたが、「無益な戦はしたくない」とその進言を退け、生駒山を降り、自ら滅亡の道を歩んだのです。

側近の進言というは、「生駒山から深草へ移動し、そこから馬に乗り、東国へ行き、兵を起こして戦いましょう」というものです。

以前の動画で紹介したように、深草には秦氏がおり、山背大兄皇子の父である聖徳太子と秦河勝の関係性を考えれば、深草まで行けば秦氏の協力を得ることができ、東国まで行くことができたかもしれません。

東国へいけば、この事件の30年後に起こった壬申の乱の大海人皇子のように東国で兵を集めて勝利する可能性も十分に考えられます。

しかし山背大兄皇子はこの進言を聞くことはありませんでした。
「無益な戦はしたくない」というのは、いかにも慈悲深く描かれる聖徳太子の長男として相応しいセリフですが、なぜ山背大兄皇子はあっさりと滅亡を選んでしまったのでしょうか?

秦氏と上宮王家滅亡事件


山背大兄皇子は、なぜあっさりと一族滅亡の道を選んだのか…。
それは、秦氏が自分を助けに来ないことがはっきりしたからからではないでしょうか?

山背大兄皇子の一家は、蘇我入鹿から襲撃された後4~5日生駒山に潜んでいました。
その際、深草にいた秦氏は全く動きませんでした。

もし、皇子を助け出す気持ちがあるならば、秦氏は皇子が深草に逃げてくることを待たずに、秦氏自ら兵を率いて斑鳩まで乗り出すことができたはずです。
しかし、秦氏はそれをしませんでした。

山背大兄皇子は、自分を養育してくれた秦氏が4~5日待っても、斑鳩まで助けに来てくれない状況で、秦氏の真意を悟ったのではないでしょうか?
その悟りが山背大兄皇子の「無益な戦はしたくない」のセリフになったのではないでしょうか?

この上宮王家滅亡事件について記す史料に平安時代初期に書かれた『上宮聖徳太子伝補闕記』(じょうぐうしょうとくたいしでんほけつき)があります。
この書物の編纂には秦氏が関与しているのではないか、と憶測されおり、内容も『日本書紀』を元に書かれていることが多いですが、『上宮聖徳太子伝補闕記』には『日本書紀』に書かれている山背大兄皇子が「無益な戦はしたくない」と側近の進言を退けて一族滅亡の道を選んだエピソードは記載されていません。

秦氏が編纂に関与している書物で、山背大兄皇子のこのエピソードを語らないことを考えると、秦氏は山背大兄皇子の一家を見捨てていて、秦氏にとって都合の悪いことなので触れていない。と考えるのが自然ではないでしょうか?

なぜ秦氏は山背大兄皇子の一族を見捨てたのか?


では、なぜ山背大兄皇子の父である聖徳太子の頃には、秦河勝を代表する秦氏を側近とするぐらい深い関係だったにも関わらず、秦氏は山背大兄皇子を見捨てたのか?に迫ってこの動画をしめていきましょう。

まず一つに、上宮王家滅亡事件の頃には秦河勝は亡くなっていたと考えられます。
今回の参考資料となる書籍の著者である水谷千秋氏は、『日本書紀』には、田村皇子(のちの舒明天皇)と山背大兄皇子が次期天皇の座を巡って争ったことが長文で書かれ、双方を支援する豪族が登場するがそこに秦河勝の名前が出ないことを指摘して、聖徳太子と秦河勝との関係性や冠位十二階の位の高さを考えると山背大兄皇子の大きな後ろ盾となるべき秦河勝の名がないということはその時にはもう秦河勝は亡くなっていた。と指摘しています。

自分の大きな支援者となるはずだった秦河勝を失い、当時の朝廷の最高権力者であった蘇我入鹿に襲撃されたことで自分の即位することはないと山背大兄皇子は悟ったのでしょう。


秦河勝の死後、秦氏本宗家である山背の秦氏はなりをひそめることになります。
秦河勝の後継者になろう人物がいたはずですが、今日にその名は伝わっていません。

秦氏は中央政治に関与し権力を伸ばすことよりも、各地にその技術力を提供し地方豪族としての力をつけていくことを選びました。

その中央豪族ではなく、地方豪族として生きていく道を選んだ一つの代償が山背大兄皇子の一族を見捨てることだったのかもしれません。

まとめ


いかがだったでしょうか。
今回は、古代日本最大の氏族であった秦氏について学術的な観点から紹介しました。

今回の動画の参考文献は、水谷千秋氏の著作『謎の渡来人秦氏』です。
都市伝説的なロマンたっぷりの説で語られがちの秦氏について、しっかりとした学術研究をもとに学べる一冊となっています。
参考文献については、概要欄にリンクを貼っているので興味のある方は概要欄のリンクからチェックしてみてください。

今回の動画につかった台本も公開しています。
文字で今回の内容を読みたい!という方は、概要欄のリンクからチェックしてみてください!

今日はここらへんでお別れです。
ご視聴いただきありがとうございました。
また歴史を楽しめるコンテンツを配信していきますので、高評価やコメント、チャンネル登録、あとスーパーサンクス機能も使えるようになりましたので、よろしくお願いいたします!
ではまた、違う動画でお会いしましょう!
ばいばい!

この記事は私が運営しているYouTubeチャンネル【きーの歴史本プレゼンチャンネル】の動画を、テキストにしたものです。

【きーの歴史本プレゼンチャンネル】はこちら💁‍♀️








この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?